第22話 人魚姫は、最後に応援に来る
風の中に、歌声が混じった。
最初は、気のせいだと思った。
レース終盤の身体は、いろいろなものを聞き間違える。
沿道の声援。
スタッフの笛。
自分の呼吸。
シューズが地面を叩く音。
血の流れる音。
全部が混ざり、頭の中で別の音になる。
だが、違った。
その声は、健一の外から来ていた。
細く、澄んで、少し震えている。
けれど、間違いなく前へ届こうとしている声。
ルナの声だった。
*
ルナは、朝からずっと隠れていたわけではなかった。
彼女は、お台場の海を一人で見た。
まだ人の少ない朝。
設営スタッフが動き始める前の、少し静かな時間。
波打ち際から離れた階段に座って、海を見た。
怖かった。
海は、ルナを呼んでいるようでもあり、ただ黙って見ているだけのようでもあった。
姉たちの気配も、どこかにあった。
水の匂いが足元へ忍び寄るたび、鱗が肌の下で目を覚ましそうになる。
それでも、逃げなかった。
健一が泳ぐ前に、自分もこの場所を見ておきたかった。
ここは、健一が沈んだ場所。
ルナが健一を助けた場所。
ルナが海へ帰ろうとした場所。
そして、今日、健一がもう一度進む場所。
全部が重なっている。
怖いだけの場所にしたくなかった。
そう思っていた。
だが、スタートの号砲が鳴った瞬間、ルナは動けなくなった。
選手たちが一斉に海へ入る。
水が白く泡立つ。
黒いウェットスーツの背中が、波の中へ進んでいく。
その中に、健一がいた。
あの日と同じように。
違うと分かっている。
健一は準備している。
陽子も山下もいる。
大会スタッフもいる。
健一は沈むためではなく、進むために入った。
それでも、ルナの身体は震えた。
また沈んだら。
また届かなかったら。
また海が健一を隠したら。
足が動かなかった。
だから、スタートラインに行けなかった。
近くで見れば、叫んでしまうと思った。
水へ走り出してしまうと思った。
海に戻りかけてしまうと思った。
だから、少し離れた場所で、両手を握っていた。
陽子が見つけてくれたのは、スイムが終わる少し前だった。
「ルナさん!」
陽子は走ってきた。
怒っている顔だった。
泣きそうな顔でもあった。
「一人で来るなって言ったでしょ!」
「ごめんなさい」
「もう、ほんと……」
陽子は、ルナの足元を見た。
靴も靴下も乾いている。
鱗の光もない。
それを確認してから、ようやく息を吐いた。
「無事なら、今はいい」
「健一は」
「泳いでる。もうすぐ上がる」
「沈んでいませんか」
「沈んでない。大丈夫」
その言葉で、ルナは初めて息を吸えた。
少し遅れて、山下も来た。
「ルナさん、見つかってよかった。佐藤さん、ちゃんと泳いでますよ。いい感じです」
「いい感じ」
「はい。ナイス健一です」
その言葉に、ルナは少しだけ笑った。
陽子は言った。
「見に行く?」
ルナは、すぐには答えられなかった。
海の近くは怖い。
人も多い。
水もある。
姉たちが来るかもしれない。
でも、健一は今、進んでいる。
ルナは、それを見たい。
「行きます」
声が震えていた。
「でも、少し離れたところで」
「それでいい」
陽子が言った。
「今日は、ルナさんが自分で来たことが大事」
山下が頷く。
「俺たち、左右固めます。水が来たら止めます」
「山下」
「はい」
「ナイス山下です」
「ありがとうございます。今日一番うれしいかもしれません」
ルナは、二人に挟まれる形で沿道へ向かった。
海に背を向けない。
でも、海へ引かれない場所。
健一が最後に走ってくる場所。
そこで待つことにした。
*
健一は走っていた。
いや、走っているつもりだった。
最後の周回に入ったあたりで、脚ははっきりと終わり始めていた。
最初に来たのは、ふくらはぎだった。
右脚の奥が、細いワイヤーで引かれるように硬くなる。
次に、太腿。
バイクで使い切った筋肉が、もう仕事は終わったと言いたげに重く沈む。
腕を振っても、脚が前へ出ない。
接地のたびに、足裏から鈍い衝撃が膝へ上がり、腰で止まらず、背中まで響いた。
呼吸は荒い。
肺の奥が焼ける。
口の中は乾いているのに、喉の奥には海水を飲んだ時の記憶が残っている。
汗なのか、海水なのか、ただの疲労なのか分からないものが、こめかみを伝って落ちた。
健一は腕時計を見そうになり、やめた。
数字を見ても、もう何も変わらない。
ペースは落ちている。
心拍は高い。
脚は重い。
分かっている。
分かりきっている。
それでも、身体は勝手に数字を求める。
何分で走っているのか。
何拍まで上がっているのか。
残り何キロか。
あと何歩で終わるのか。
そうやって、ずっと生きてきた。
重い時は、さらに重く踏む。
苦しい時は、数値に変える。
痛い時は、フォームを直す。
疲れた時は、予定通りだと自分に言う。
誰かに助けてほしいと思う前に、練習量が足りないのだと処理する。
そうすれば、止まらずに済んだ。
弱音を吐かずに済んだ。
誰かに見せないで済んだ。
健一の人生は、ずっと重いギアだった。
軽くする方法は知っていた。
自転車なら、左手でレバーを押せばいい。
フロントディレイラーがチェーンを動かし、ギアは軽くなる。
坂の前に変速する。
向かい風なら、無理に踏まない。
ケイデンスを保ち、脚を残す。
競技では、それができる。
なのに、自分の心には、それをしてこなかった。
仕事でも、練習でも、人間関係でも。
苦しくなればなるほど、健一は重いギアのまま踏んだ。
問題ありません。
対応します。
大丈夫です。
検討します。
そう言って、ギアを変えずに進んできた。
その結果、いつか沈んだ。
この海で。
息ができなくなって。
上下も分からなくなって。
一人で踏み続けた先で、水の中に落ちた。
健一の足が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。
膝が抜ける。
視界の端が暗くなる。
ゴールは見えている。
なのに、遠い。
あと少し、という距離が、いちばん残酷だった。
観客の声が、膜の向こうみたいに遠くなる。
山下の声も、陽子の声も、聞こえているはずなのに輪郭がぼやける。
身体の内側から、もういいだろう、という声がする。
完走はできる。
歩いてもいい。
タイムはどうせベストではない。
十分やった。
もう踏まなくていい。
その声は、優しかった。
だから危なかった。
健一は歯を食いしばる。
けれど、脚は重い。
重すぎる。
ここまで来て、また一人で重いギアを踏むのか。
そう思った瞬間だった。
「健一!」
声が届いた。
風を切って、騒音を抜けて、健一の胸の奥へまっすぐ入ってきた。
ルナの声だった。
健一は顔を上げた。
ランコースの先。
沿道の人波の切れ目。
芝生の端。
海から少し離れた、しかし海を背にしない場所。
そこに、ルナが立っていた。
青いヘアゴムで髪をまとめていた。
白いカーディガンを着ていた。
陽子が選んだ青いワンピースの裾が、風で揺れていた。
隣には陽子がいた。
少し離れて、山下もいた。
二人とも、ルナを守るように立っている。
でも、ルナは隠れていなかった。
健一の方を、まっすぐ見ていた。
「ルナ」
声は出なかった。
出したら、呼吸が乱れる。
だが、彼女は気づいた。
健一と目が合った瞬間、ルナの表情が変わった。
不安と、嬉しさと、怖さと、決意が一度に揺れて、それから、笑った。
あの日、海の中で見た微笑みとは違う。
陸の上で、自分の足で立って、健一を待っていた笑顔だった。
その瞬間、健一の胸の中で、何かが動いた。
かちり、と。
音がした気がした。
実際には、何も鳴っていない。
自転車ではない。
チェーンもない。
レバーもない。
だが、確かに、重すぎたギアが一段落ちた。
踏みつける力ではなく、回す力へ。
歯を食いしばる走りではなく、前へ送る走りへ。
脚の痛みが消えたわけではない。
呼吸が楽になったわけでもない。
ふくらはぎはまだ攣りかけている。
太腿は石みたいに重い。
肺は焼けている。
それでも、進み方が変わった。
ルナの声が、健一の中で変速した。
「もう一度、同じ海へ――」
彼女は歌っていた。
大声ではない。
けれど、健一には届いた。
「沈むためではなく、進むために――」
健一は、腕を振った。
フォームを立て直す。
歩幅を無理に伸ばさない。
ピッチを少しだけ上げる。
重いギアを踏むのではなく、軽く回す。
昔なら、ここで意地を張った。
落ちたペースを力で戻そうとした。
苦しい顔を隠し、まだいけると自分に嘘をつき、最後まで一人で踏み抜こうとした。
でも、今は違う。
ルナの声がある。
陽子がいる。
山下がいる。
海も、もう沈むだけの場所ではない。
健一は一人ではなかった。
「ナイス健一!」
ルナが叫んだ。
今度は、はっきり聞こえた。
沿道の何人かが笑う。
陽子が頭を抱えた。
山下が拳を上げている。
健一は笑った。
笑う余裕なんてないはずなのに、笑った。
胸の奥で、もう一段、ギアが軽くなる。
「いいペースです!」
ルナの声が続く。
「沈んでいません!」
応援としては、おかしい。
普通ではない。
だが、今日の健一には、それが一番効いた。
沈んでいない。
止まっていない。
進んでいる。
健一は、足元の感覚を拾い直す。
右、左。
右、左。
重さはある。
痛みもある。
でも、回る。
回せる。
ルナは、健一のフロントディレイラーになりたいと言った。
あの時は、変な言葉だと思った。
今でも変だ。
だが、この瞬間、健一はその意味を身体で理解した。
彼女は健一の代わりに走るわけではない。
痛みを消すわけでもない。
ゴールまで運んでくれるわけでもない。
ただ、進み方を変えてくれる。
重すぎるものを、少しだけ軽くする。
一人で踏み潰されそうな力を、前へ回る力に変えてくれる。
それだけで、人はまだ走れる。
健一は、ルナの方を見た。
ルナは両手を胸の前で握りしめている。
怖いはずだ。
海も近い。
水もある。
人も多い。
それでも、そこにいる。
健一を見ている。
その姿そのものが、もう応援だった。
「健一!」
ルナが叫ぶ。
健一は顔を上げる。
ルナは、少し迷ったあと、言った。
「好きは、まだありますか!」
沿道が一瞬ざわついた。
陽子が今度こそ頭を抱えた。
山下が吹き出した。
健一は、脚が限界なのに、また笑った。
苦しい。
痛い。
息ができない。
でも、笑える。
なら、まだ走れる。
「あります!」
健一は叫び返した。
喉が焼ける。
でも、言えた。
ルナの顔が、ぱっと明るくなった。
「では、進んでください!」
「はい!」
健一は、最後の直線へ入った。
*
ルナは、健一が走っていく背中を見た。
あの日の背中ではない。
海に沈んでいく身体ではない。
陸の上を、自分の足で進む背中。
ただ、彼の身体が限界に近いことは、ルナにも分かった。
肩が少し落ちている。
腕の振りが小さくなっている。
足の運びが、さっきより重い。
でも、止まっていない。
ルナの声を聞いたあと、健一の走り方が少し変わった。
強く踏みつける走りではなく、痛みを前へ流すような走り。
海の中で見つけた時とは違う。
重い水に沈む身体ではなく、重い陸の上で、それでも回り続ける身体。
ルナの胸の中に、歌が満ちていく。
怖い。
海は怖い。
姉たちが来るかもしれない。
満月も近い。
でも、今はそれよりも、健一が走っていることが大きかった。
「ルナさん、大丈夫?」
陽子が横から聞く。
「大丈夫です」
「足は?」
「大丈夫です」
「泣きそう?」
「少し」
陽子はタオルを差し出した。
「泣いてもいいよ。水じゃなくて、涙なら拭く」
「はい」
ルナはタオルを受け取った。
涙はまだ落ちなかった。
健一が、前へ進んでいる。
それを、目で追いたかった。
「陽子」
「何?」
「私は、スタートラインに行けませんでした」
「うん」
「怖くて、行けませんでした」
「うん」
「でも、最後には来られました」
陽子は少し笑った。
「なら、今日はそれで十分」
「十分ですか」
「十分。人間も、一気には強くなれない」
「人魚も?」
「人魚も」
山下が横から言う。
「あと、応援は完璧でした。『沈んでいません』は新しいです」
「駄目ですか」
「いや、今日の佐藤さんには最高です」
ルナは少しだけ誇らしくなった。
健一はまだ走っている。
ゴールまでは、あと少し。
ルナはもう一度、小さく歌った。
「あなたが走るその先で――
私はここにいると歌う――」
声は、健一の背中に向かって伸びた。
*
健一は、最後の直線を走っていた。
ゴールアーチが見える。
沿道の声が増える。
アナウンスが響く。
視界の端に、海が光る。
脚はもう、自分のものではないみたいだった。
ふくらはぎは今にも攣りそうで、太腿は鉛を詰められたみたいに重い。
息を吸うたびに胸が痛み、吐くたびに身体の芯が削れる。
それでも、前へ出る。
右、左。
右、左。
重いギアを一人で踏むのではなく、ルナの声に合わせて回す。
ここまで来た。
スイムを終えた。
バイクを終えた。
ランも終わりに近い。
タイムはベストではない。
順位も大したことはない。
だが、そんなことはもう関係なかった。
前回、健一はこの海でリタイアした。
今回は、戻ってきた。
そして、ルナが見ている。
それが、今日の意味だった。
ゴール直前、健一は一瞬だけルナの方を見た。
ルナは両手を振っていた。
陽子も、山下もいる。
その後ろ。
遠くの海面が、少しだけ暗くなった気がした。
健一は気づいた。
海の姉たちが見ている。
姿はない。
でも、気配がある。
大会の日に迎えに来ると言っていた。
まだ来ていないだけだ。
このまま終わるわけではない。
だが今は、ゴールだ。
健一は前を向いた。
最後の一歩。
ゴールラインを越えた。
計測マットが足元で鳴る。
完走。
その瞬間、身体から力が抜けた。
スタッフに支えられそうになりながら、健一はなんとか立った。
息が荒い。
脚は震えている。
視界も少し滲んでいる。
だが、沈んでいない。
止まっていない。
進みきった。
胸の中で何かが静かにほどける。
お台場の海は、もう沈んだ場所だけではなくなった。
進んだ場所になった。
スタッフに完走メダルをかけられる。
水を渡されそうになり、反射的に周囲を確認した。
ルナからは離れている。
問題ない。
自分は水を飲める。
ペットボトルを受け取る。
手が震えていた。
疲労だけではない。
完走した。
ルナが見ていた。
この海を、少しだけ塗り替えた。
そして、ゴールまで走ったのは自分の脚だ。
だが、その脚を最後まで回したのは、もう自分一人の力ではなかった。
陽子と山下が近づいてきた。
「完走おめでとう」
陽子が言う。
「ありがとうございます」
「ちゃんと進んだね」
「はい」
山下がメダルを見て、笑った。
「ナイス健一。今日は公式にナイスです」
「ありがとうございます」
「ルナさん、こっち来られます?」
山下が振り返る。
ルナは少し離れた場所にいた。
ゴール後のエリアは、人が多い。
水を持った選手も多い。
汗も、ペットボトルも、濡れたタオルもある。
ルナは近づけない。
健一はすぐに分かった。
「俺が行きます」
「佐藤さん、足大丈夫?」
「大丈夫です」
「絶対、あとで攣るよ」
「あとで攣ります」
健一は歩き出した。
脚は重い。
全身が疲れている。
だが、ルナのところへ行くには十分だった。
ルナは、芝生の端に立っていた。
健一が近づくと、彼女は少し泣きそうな顔になった。
「健一」
「はい」
「沈みませんでした」
「はい」
「進みました」
「はい」
「完走しました」
「はい」
ルナは、両手で口元を押さえた。
「おめでとうございます」
健一は少し笑った。
「ありがとうございます」
「ナイス健一です」
「はい」
「とても、ナイス健一です」
「それは初めて聞く強度ですね」
ルナは泣いた。
一粒だけ、涙が落ちた。
健一は、すぐにタオルを差し出した。
陽子が後ろから「早い」と小さく言った。
健一はルナの涙を拭いた。
「泣いても大丈夫です」
「はい」
「ここは海が近いですが、大丈夫にします」
「はい」
ルナは、健一を見た。
「健一」
「はい」
「私は、最後に来られました」
「見えていました」
「スタートには、行けませんでした」
「はい」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも」
「最後に来てくれました」
健一は言った。
「俺には、それが一番届きました」
ルナの目が揺れた。
「届きましたか」
「はい」
「受け取りましたか」
健一は、少しだけ考えた。
周囲には人がいる。
大会後のざわめきがある。
海の気配もある。
だが、逃げる気はなかった。
「受け取りました」
ルナの涙がもう一粒こぼれた。
健一は、それも拭いた。
その時だった。
海から、風が吹いた。
それまでとは違う、冷たい風。
ルナの髪が揺れる。
陽子が反射的に周囲を見た。
山下も、何かを感じたのか笑顔を消した。
海面の色が、深くなる。
白い波が、静かに立つ。
ルナの表情が変わった。
「姉さまたち」
健一は、海の方を見た。
まだ姿は見えない。
だが、来る。
分かった。
お台場の海は、健一にとって進んだ場所になった。
ルナは最後に応援に来た。
歌は届いた。
完走もした。
だが、決着はまだだ。
海の姉たちは、約束通り迎えに来る。
陽子がルナの隣に立った。
「来るね」
山下も荷物を持ち直す。
「俺、何すればいいですか」
健一は、呼吸を整えた。
レースは終わった。
だが、本当の決戦はここからだった。
「ルナから離れないでください」
「了解」
ルナは、健一の袖を掴んだ。
前より少しだけ強く。
「健一」
「はい」
「好きは、まだありますか」
健一は、海を見たまま答えた。
「あります」
少し間を置いて、続けた。
「それだけでは足りないなら、次はその先を言います」
ルナの手が震えた。
海風が、さらに強くなる。
遠くの波間に、三つの影が浮かび上がり始めていた。
人魚姫は、最後に応援に来た。
そして今度は、健一が応える番だった。




