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第21話 スタートラインに、君はいない

 大会当日の朝、お台場の空は晴れていた。

 憎らしいほど、よく晴れていた。

 雨雲レーダーにも、何もない。

 降水確率は十パーセント。

 風は弱く、波も高くない。

 トライアスロン大会としては、悪くない条件だった。

 佐藤健一は、会場の端でウェットスーツの袖を通しながら、何度も空を見た。

 雲は薄い。

 白く、軽い。

 雨の匂いはしない。

 海は朝の光を受けて、鈍く光っている。

 ここで一度、沈んだ。

 ここで、ルナに助けられた。

 ここで、ルナは海へ帰ろうとした。

 そして今日は、もう一度ここへ戻ってきた。

 本来なら、隣にルナがいるはずだった。

 青いヘアゴムで髪をまとめ、陽子の隣で、少し緊張した顔をしながら健一を見るはずだった。

 水辺からは離れた位置で、タオルとコートと青いマグカップの入ったバッグを抱えて、たぶんこう言うはずだった。

 ナイス健一。

 いいペースです。

 沈むためではなく、進むために。

 だが、スタートラインに、ルナはいなかった。

     *

 その朝、健一の部屋は、いつもより早く動き出した。

 午前五時。

 健一は目覚ましより先に起きた。

 レース当日の習慣だった。

 体重。

 睡眠。

 安静時心拍。

 朝食。

 荷物。

 確認するものは決まっている。

 補給ジェル。

 ゴーグル。

 キャップ。

 ウェットスーツ。

 バイクシューズ。

 ランシューズ。

 ゼッケン。

 計測チップ。

 そして、ルナ用の荷物。

 タオル。

 コート。

 ポンチョ。

 小瓶。

 青いマグカップ。

 月の柄のメモ帳。

 陽子に預ける予備の服。

 水に近づかないためのルートメモ。

 健一は、それらをテーブルに並べた。

 大会の準備というより、遠足と避難訓練と呪い対策が混ざった何かだった。

 自分の人生に、こういう荷物リストが増えるとは思っていなかった。

 けれど、もう不思議ではない。

 ルナが来てから、健一の生活はだいたいそうなっている。

 想定外が増え、予定が崩れ、ホワイトボードが埋まり、それでも朝は来る。

 そして、青いマグカップがテーブルにある。

 健一は寝室の方を見た。

「ルナ」

 返事がない。

 まだ寝ているのかと思った。

 昨日は遅くまで、歌詞の確認をしていた。

 海の姉たちのこと。

 大会の日にもう一度迎えに来るということ。

 海も陸も大切だということ。

 ルナは、何度も歌った。

 声は少し揺れていた。

 でも、濁ってはいなかった。

 健一は寝室へ向かった。

 ドアを開ける。

 ベッドは空だった。

 心臓が、一度、大きく鳴った。

「ルナ?」

 浴室。

 洗面所。

 キッチン。

 いない。

 玄関を見る。

 ルナの靴がない。

 喉の奥が冷たくなる。

 まさか、また海へ。

 そう思った瞬間、机の上に置かれたメモ帳が目に入った。

 月の柄のメモ帳。

 前の置き手紙と同じもの。

 健一は、ゆっくり手に取った。

健一へ

私は、先に行きます。

海へ帰るためではありません。

逃げるためでもありません。

お台場の海を、私一人で見ておきたいです。

健一が泳ぐ前に、私もあの場所を怖いだけの場所ではないと確かめたいです。

陽子には連絡しました。

心配しないでください。

でも、心配すると思います。

ごめんなさい。

スタートの時、私は近くにいないかもしれません。

でも、いなくなったわけではありません。

健一は、進んでください。

沈むためではなく、進むために。

ルナ

 健一は、すぐに陽子へ電話した。

 一度目のコールで出た。

『うん。私も今向かってる。ルナさんから連絡来た』

「どこにいるんですか」

『お台場にいると思う。でも、まだ見つけてない』

「なぜ止めなかったんですか」

『止めたよ。メッセージで。でも、もう出た後だった』

 健一は息を吐いた。

 怒りはなかった。

 心配はあった。

 かなりあった。

『佐藤さん、落ち着いて聞いて』

「はい」

『ルナさん、逃げたわけじゃないと思う。文面も落ち着いてた。あの子、自分で怖い場所を見に行ったんだと思う』

「それでも危険です」

『分かってる。だから私が探す。山下さんにも連絡した』

「俺もすぐ行きます」

『佐藤さんは大会準備。会場で合流して。あなたが焦って動くと、ルナさんはまた自分を責める』

 健一は黙った。

 陽子の言う通りだった。

 ルナは、また逃げたわけではない。

 むしろ、逃げないために先へ行った。

 怖い海を、自分の目で見るために。

 それは分かる。

 分かるが、心配しないわけがない。

『スタートまでに見つからなかったら?』

 健一は、自分で聞いた。

 陽子は少し黙った。

『それでも出て』

「瀬戸さん」

『ルナさんは、進んでくださいって書いたんでしょ』

 健一は手紙を見た。

 沈むためではなく、進むために。

『なら、佐藤さんがスタートラインで崩れたら、あの子はもっと苦しくなる』

「……はい」

『私が探す。山下さんも探す。佐藤さんは、泳いで、乗って、走って。何かあったらすぐ知らせる』

 電話の向こうで、陽子が息を吸った。

『でも、ルナさんに何かあったら、順位は捨てる』

「当然です」

『よし。じゃあ、お台場で』

 電話が切れた。

 健一は、ルナの手紙をもう一度読んだ。

 心配しないでください。

 でも、心配すると思います。

 その通りだった。

 心配するに決まっている。

 だが、健一はもう、ルナを守るだけの存在として扱うわけにはいかなかった。

 ルナは自分で選ぼうとしている。

 怖い場所を、自分で見に行こうとしている。

 なら、健一も進むしかない。

 彼女のいないスタートラインへ。

     *

 会場に着いても、ルナは見つからなかった。

 陽子からは、短いメッセージが届いていた。

〈まだ見つからない。でも海辺周辺を探してる。山下さんは駐車場側。私は観客エリア〉

 山下からも来ていた。

〈ルナさんらしき人影、まだなし。スタッフに不審がられない範囲で探します〉

 健一は、バイクをトランジションエリアにセットした。

 いつもなら、ここは最も集中する時間だ。

 タイヤの空気圧。

 ボトルの位置。

 補給ジェルの固定。

 ヘルメットの向き。

 シューズの位置。

 ゼッケンベルト。

 全部、身体が覚えている。

 なのに、今日は視線が何度も海の方へ流れる。

 青いヘアゴムはないか。

 白いカーディガンはないか。

 見慣れた横顔はないか。

 いない。

 スタート前のざわめきが、遠く聞こえた。

 選手たちがウェットスーツ姿で集まり始める。

 誰かが笑い、誰かが肩を回し、誰かがゴーグルの曇り止めを確認している。

 健一は、その中にいた。

 前回と同じように。

 だが、同じではなかった。

 前は、タイムだけを見ていた。

 今は、海の向こうと、観客エリアと、ルナのいない空白を見ている。

「佐藤さん」

 山下が、フェンスの向こうから声をかけてきた。

 健一は振り返った。

 山下はキャップをかぶり、荷物番用の大きなバッグを肩にかけている。

 普段より真面目な顔だった。

「まだ見つかりません」

「そうですか」

「でも、陽子さんが探してます。俺もスタート後、観客エリアを回ります」

「お願いします」

「佐藤さん」

「はい」

「今日は、ナイス健一とか言いません」

「もう言っています」

「今のは別です」

 山下は少しだけ笑った。

「ちゃんと進んでください。ルナさん、たぶんそれ見たいんだと思います」

 健一は、深くうなずいた。

「はい」

「あと、何かあったら合図ください。順位とかタイムとか、どうでもいいんで」

「ありがとうございます」

「いや、どうでもよくはないんですけどね。佐藤さんのリベンジも大事ですし。でも、優先順位は分かってます」

 山下は拳を軽く上げた。

「沈まないでください」

 健一は、その言葉に少しだけ笑った。

「沈みません」

 スタート集合のアナウンスが流れた。

 山下が下がる。

 健一は海へ向かった。

     *

 スタートライン。

 海の匂い。

 足元の砂。

 ゴーグル越しに見る、朝の光。

 健一は、あの日のことを思い出していた。

 肘が当たった。

 水を飲んだ。

 肺が潰れた。

 上と下が分からなくなった。

 光が遠のいた。

 その時、青い光が見えた。

 ルナの手。

 冷たい手。

 健一の頬に触れた手。

 その手がなければ、今ここにはいない。

 健一は深呼吸した。

 前回は、溺れた。

 今回は違う。

 沈むためではなく、進むために。

 号砲が鳴った。

 選手たちが一斉に海へ入る。

 水が身体を包む。

 健一の胸が、一瞬だけ強張った。

 冷たい。

 海だ。

 あの日と同じ海。

 腕が当たる。

 泡が視界を白くする。

 ゴーグルの中で、呼吸音が響く。

 怖い。

 健一は認めた。

 怖い。

 だが、止まらない。

 右で呼吸。

 三掻き。

 左で呼吸。

 前方確認。

 ブイは少し右。

 修正。

 身体は覚えている。

 水の抵抗。

 肩の回転。

 息の間隔。

 混雑の逃がし方。

 前回より、少しだけ後方から入った。

 接触を避けるためだ。

 タイムは落ちる。

 それでいい。

 今日は沈まないこと。

 前に進むこと。

 水の中で、ルナの歌が聞こえた気がした。

 実際には聞こえない。

 彼女はスタートラインにいない。

 近くにもいない。

 それでも、頭の中に声が残っていた。

 もう一度、同じ海へ。

 沈むためではなく、進むために。

 健一は、水を掻いた。

 あの日、ルナはここで自分を見つけた。

 なぜ見つけたのか。

 偶然か。

 海の流れか。

 人魚の勘か。

 分からない。

 ただ、見つけられた。

 そして、ルナは陸へ来た。

 健一の部屋へ来た。

 声を失って。

 足を痛めて。

 水を怖がって。

 それでも来た。

 健一はブイを回った。

 呼吸は乱れていない。

 前回、ここで接触した。

 今回は腕を少し外へ逃がし、混雑を避ける。

 身体が沈みかける感覚はない。

 大丈夫だ。

 沈まない。

 右で呼吸した時、観客エリアが少し見えた。

 陽子がいるかもしれない。

 山下がいるかもしれない。

 ルナがいるかもしれない。

 見えない。

 それでも、健一は進んだ。

     *

 スイムアップ。

 砂浜に足がついた瞬間、健一は大きく息を吐いた。

 戻ってきた。

 海から、陸へ。

 前回は救護テントだった。

 今回は自分の足で上がった。

 その事実が、胸の奥に響いた。

 観客の声。

 スタッフの誘導。

 水を含んだウェットスーツの重み。

 トランジションエリアまでの短いラン。

 健一は走った。

 ルナは。

 視線が観客エリアへ行く。

 いない。

 陽子がフェンスの向こうにいた。

 目が合う。

 陽子は両腕で大きく丸を作った。

 ルナではない。

 でも、異常なしという合図だった。

 健一はうなずいた。

 トランジション。

 ウェットスーツを脱ぐ。

 ヘルメット。

 バイクシューズ。

 ゼッケン。

 ボトル確認。

 バイクを押して、乗車ラインへ。

 作業はスムーズだった。

 いつもより少し遅い。

 だが、焦りはない。

 バイクに乗る。

 ペダルを踏む。

 風が変わった。

 水から上がった身体に、朝の空気が当たる。

 海の匂いが後ろへ流れていく。

 ケイデンスを上げる。

 心拍を上げすぎない。

 脚は重くない。

 健一は、ふと笑いそうになった。

 ルナなら、ここで何と言うだろう。

 健一、足の歌が速いです。

 胸の太鼓が少し強いです。

 ナイス健一。

 困らない程度に、普通に速いです。

 あの不適切な応援が、今は少し恋しかった。

 最初は社会的に死ぬと思った。

 いや、今でも多少死ぬ。

 だが、あの声がないと、コースが少し静かすぎる。

 バイクコースを進む。

 沿道には観客が増えている。

 誰かの声援。

 ベルの音。

 スタッフの笛。

 海沿いの風。

 健一は、ルナとの日々を思い出していた。

 初めて玄関に立っていた夜。

 濡れた髪。

 声の出ない唇。

 裸足の足。

 海の匂い。

 外付けHDDを開けられた日。

 お帰りなさいませ、ご主人様。

 あなたの大切な箱から、愛の言葉を学びました。

 健一は、ペダルを踏みながら小さく息を吐いた。

 あれは本当にひどかった。

 だが、あの日、ルナは声を得た。

 最悪の教材から、最初の言葉を持ってきた。

 それでも、健一に話したかったのだ。

 カフェの日。

 黒い水。

 闇の魔力。

 ホットミルク。

 白い山。

 窓の外の東京。

 ルナは、東京をきらきらしていて少し怖いと言った。

 雨の日。

 コートの中で震えていたルナ。

 健一の匂いがしたと言われて、タクシーの運転手が咳払いした。

 練習場。

 回すとき綺麗です。

 山下が笑った。

 陽子が呆れた。

 ルナは、健一が前に進むところを見たいと言った。

 嫉妬の日。

 私の欲しい場所は、健一の横です。

 邪魔ですか、と聞いた日。

 困ることと、邪魔なことは違う。

 海へ帰ろうとした日。

 私は、あなたの邪魔ではないと言ってもらえて、とても幸せでした。

 だから、これ以上、邪魔になりたくありません。

 あの手紙を思い出すと、胸が締めつけられる。

 健一は、強くペダルを踏んだ。

 違う。

 邪魔ではない。

 ルナはもう、健一の生活の一部だ。

 一部というには、中心に近い。

 青いマグカップのある朝。

 ホワイトボードに増える文字。

 歌声。

 危険な言葉。

 不器用な嫉妬。

 水への恐怖。

 それでも歩こうとする足。

 全部込みで、ルナだ。

 失いたくない。

 好きだから、だけでは足りないのかもしれない。

 でも、そこから始まっている。

 健一は、海の姉たちの言葉を思い出した。

 あなたは、この子を愛しているの?

 あの時、言えなかった。

 今日は、まだ言えるか分からない。

 だが、逃げない。

 大会の日までに探すと約束した。

 その大会の日は、もう今日だ。

     *

 バイクを終え、トランジションへ戻る頃には、太陽が少し高くなっていた。

 健一のタイムは悪くない。

 ただし、ベストではない。

 それでいい。

 バイクをラックに戻す。

 ヘルメットを外す。

 ランシューズへ履き替える。

 ゼッケンを前へ回す。

 走り出す。

 脚が重い。

 バイク後のラン特有の重さだ。

 最初の一キロは我慢。

 ピッチを整える。

 呼吸を合わせる。

 上げすぎない。

 フォームを小さく崩さない。

 沿道の声が近くなる。

「佐藤さん!」

 山下の声がした。

 健一は顔を上げる。

 山下がいた。

 隣に陽子もいる。

 だが、ルナはいない。

 陽子は、走る健一に合わせて少しだけ並走した。

「まだ見つからない!」

 短く言う。

 健一の胸が冷える。

 だが、陽子は続けた。

「でも、海にも入ってない! 目撃もない! たぶん隠れてるだけ!」

「分かりました」

「走って!」

 陽子が叫ぶ。

「ルナさんが見たいのは、それでしょ!」

 健一はうなずいた。

 走る。

 脚が重い。

 それでも走る。

 ルナが見ているかどうか分からない。

 近くにいるかどうかも分からない。

 でも、彼女は書いた。

 健一は、進んでください。

 だから走る。

 スタートラインに君はいなかった。

 スイムアップにも。

 バイクコースにも。

 トランジションにも。

 ランの沿道にも。

 それでも、ルナとの日々は、全部ここにある。

 健一の身体の中に。

 呼吸の中に。

 言葉の中に。

 ランコースの折り返しで、海が見えた。

 光っている。

 その向こうに、ルナの姉たちがいるかもしれない。

 ルナがどこかで見ているかもしれない。

 健一は、少しだけペースを上げた。

 自分でも分かる。

 焦りではない。

 逃げでもない。

 これは、進むためのペースだ。

     *

 最後の周回に入る手前で、健一は一瞬だけ足を緩めた。

 観客の中に、青いものが見えた気がした。

 青いヘアゴム。

 人の列の奥。

 大会スタッフ用のテントのさらに向こう。

 海が見える場所ではなく、少し離れた芝生の陰。

 いた。

 そう思った瞬間、見失った。

 気のせいかもしれない。

 だが、健一の心拍が変わった。

 ルナ。

 声には出さなかった。

 出したら、足が止まりそうだった。

 代わりに、健一は走った。

 彼女が見ているなら、見せたい。

 沈むためではなく、進むために戻ってきたことを。

 お台場の海を、怖いだけの場所にしないことを。

 そして、スタートラインに君がいなくても、自分は君のいる場所へ進んでいることを。

 健一は、ゴールへ向かって走った。

 まだ、ルナは現れない。

 海の姉たちも現れない。

 だが、終わりが近づいている。

 ゴールラインのアーチが、遠くに見え始めた。

 健一は息を吸う。

 胸の太鼓が、強く鳴っている。

 それを、ルナならきっと聞き分ける。

 そう思った時、風の中に、小さな歌声が混じった気がした。

 言葉は聞き取れない。

 でも、健一には分かった。

 ルナの声だ。

 彼は顔を上げた。

 ゴールではなく、海の方を見た。

 その瞬間、遠くの空に、ほんのわずかに雲が生まれていた。


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