第20話 海の姉たちは、敵ではない
大会まで、五日。
満月まで、十二日。
ホワイトボードには、二つの数字が並ぶようになっていた。
【お台場大会まで五日】
【満月まで十二日】
佐藤健一は、その二つを見て、朝から少しだけ息苦しかった。
大会は近い。
満月も近い。
お台場の海へ戻る準備は進んでいる。
陽子は当日の動線を作ってくれた。
山下は車を出すと言い、荷物番も申し出ている。
健一はレース装備を確認し、補給計画を組み直し、雨天時の対応まで整理した。
ルナの歌も、少しずつ形になっている。
だが、それでも足りない。
満月までに、ルナが自分の言葉で恋を歌う。
健一がそれを受け取る。
その条件は、まだ完全には満たされていない。
健一は「好き」と言えるようになった。
ルナも、それを受け取って笑うようになった。
けれど、海の契約はまだ終わっていない。
ルナはキッチンの前で、青いマグカップを洗おうとしていた。
「待ってください」
健一は反射的に止めた。
ルナの手が、蛇口の前でぴたりと止まる。
「またですか」
「またです」
「私は、少しずつ水に慣れた方がいいのではありませんか」
「慣れるにしても、段階があります」
「段階」
「まず、見る。次に近くにいる。次に水滴をタオル越しに触る。蛇口はまだ早いです」
ルナは少し不満そうだった。
「私は、人魚です」
「知っています」
「昔は水の中にいました」
「今は陸にいます」
「不便です」
「同感です」
健一はマグカップを受け取り、自分で洗った。
ルナはその背中を見ている。
「健一」
「はい」
「私は、いつか自分で洗えるようになりますか」
「なります」
「本当ですか」
「はい」
「満月のあとも?」
健一は手を止めた。
泡のついたスポンジを持ったまま、少しだけ黙る。
ルナは最近、「満月のあと」という言葉を使うようになった。
それは希望でもあり、不安でもある。
「満月のあとも」
健一は言った。
「練習します」
ルナは小さく笑った。
「では、満月のあと、私がマグカップを洗います」
「慎重に」
「はい。慎重に」
そういう小さな約束が増えている。
それが、健一にはうれしく、同時に怖かった。
*
その日、健一とルナはお台場大会の下見に行く予定だった。
本番前に、会場周辺の動線を確認するためだ。
水辺に近づくので陽子も同行する予定だったが、仕事の都合で夕方から合流になった。
山下もまだ来られない。
本当なら、全員そろってから行くべきだった。
だが、ルナが言った。
「先に見たいです」
「海を?」
「はい」
「怖くありませんか」
「怖いです」
「なら」
「怖いまま、見ます」
健一は、少し迷った。
ルナが海へ帰ろうとしたのは、ついこの前だ。
無理に近づける必要はない。
だが、ルナが自分から見たいと言うなら、それを止めすぎるのも違う。
彼女は、守られるだけの存在ではない。
それを健一も学び始めていた。
「分かりました。ただし、波打ち際には近づかない」
「はい」
「俺から離れない」
「はい」
「怖くなったら、すぐ言う」
「はい」
「歌いたくなったら」
「小声で」
「よし」
ルナは、少しだけ笑った。
「健一は、だいぶ慣れました」
「何に?」
「私に」
健一は、リュックのファスナーを閉めながら止まった。
「……そうですね」
「嬉しいです」
「俺もです」
言ってから、健一は少し驚いた。
こういう返事が、前より自然に出る。
ルナは、もっと驚いたように健一を見て、それから笑った。
*
お台場の海は、昼の光の中で白く光っていた。
大会用の設営は、少しずつ始まっている。
仮設のフェンス。
案内板。
機材搬入のトラック。
まだ人は少ないが、数日後には選手と観客でいっぱいになる。
健一は、会場の外周を歩きながら動線を確認した。
選手受付。
トランジションエリア。
観客導線。
応援可能エリア。
ルナが待機できそうな場所。
雨が降った時に逃げ込める屋根。
海から距離を取れるポイント。
ルナは、健一の袖を掴んで歩いている。
いつもより少し力が強い。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫では、あります」
「絶妙ですね」
「海が近いです」
ルナは海を見た。
水面が光っている。
そこには、彼女の故郷が続いている。
健一には、ただの東京湾に見える。
だがルナには、違うものが見えているのだろう。
「呼ばれていますか」
健一は聞いた。
ルナは少し考えた。
「今日は、呼ばれているというより、見られています」
「見られている」
「はい」
その言葉に、健一は周囲を見回した。
観光客。
設営業者。
犬の散歩。
ジョギング中の人。
特に怪しい者はいない。
だが、ルナの表情は硬い。
「誰に?」
「分かりません」
ルナは袖を握る手に力を込めた。
「海の奥から」
その瞬間、風が変わった。
海側から、冷たい風が吹いた。
波の匂いが濃くなる。
砂浜の向こう、水面の色が一瞬だけ深くなったように見えた。
健一はルナの前に立つ。
「離れます」
「はい」
踵を返そうとした時だった。
波打ち際に、三人の女が立っていた。
さっきまで、そこには誰もいなかった。
年齢は分からない。
二十代にも三十代にも見える。
三人とも長い髪を持ち、それぞれ色が違う。
黒に近い青。
真珠のような白。
深い緑。
服は人間のものに見える。
だが、どこか水をまとっているようだった。
スカートの裾が濡れているのに、地面には水滴が落ちていない。
観光客は、誰も騒がない。
見えていないのか。
あるいは、見た瞬間に「撮影かな」と処理して通り過ぎているのか。
東京の現実は、時々かなり鈍い。
ルナが、息をのんだ。
「姉さま」
健一の背筋が冷えた。
海の姉たち。
青い髪の女が、一歩前へ出た。
「ルナ」
声は静かだった。
だが、波が引く音が混じっていた。
「迎えに来たわ」
ルナは健一の袖を握ったまま、動かなかった。
「私は」
声が少し震える。
「私は、まだ帰りません」
白い髪の女が、悲しそうに目を細めた。
「まだ、ではないわ。もう遅くなり始めているの」
緑の髪の女が、健一を見た。
その視線には敵意があった。
「この人間が、あなたを縛っているの?」
健一は一歩前に出た。
「違います」
「聞いていないわ」
緑の髪の女の声は鋭かった。
「人間の言葉は、いつも遅い。沈みかけてから助けを求めるくせに、助けられた後は自分のもののように振る舞う」
「姉さま」
ルナが言う。
「健一は、私を縛っていません」
「では、なぜ帰らないの」
青い髪の姉が言った。
「脚は痛むでしょう。水は怖いでしょう。声はまだ揺れるでしょう。満月が近い。あなたの鱗は、もう何度も陸に負けかけている」
健一は眉を寄せた。
彼女たちは知っている。
ルナの状態を。
遠くの海からでも、見ていたのだ。
「このまま陸にいれば、泡になる」
白い髪の姉が言った。
「海へ戻れば、助かる可能性があるのですか」
健一は聞いた。
三人の視線が一斉にこちらを向く。
重かった。
海に睨まれるというのは、こういうことかもしれない。
青い髪の姉が答えた。
「可能性はあるわ。完全ではない。でも、陸で人間の答えを待つよりはまし」
「契約は」
「契約は、海にも傷を残す。戻れば、その傷を薄める方法を探せる」
「泡にならずに済むんですか」
「分からない」
正直な答えだった。
それが、逆に怖かった。
「でも、ここにいるよりはいい」
緑の髪の姉が言った。
「この男は、あなたを救えない」
健一は言い返そうとした。
だが、言葉が出なかった。
救えるのか。
満月までに。
ルナの歌を受け取り。
愛という曖昧な条件を満たし。
泡になる運命を止める。
健一に、本当にできるのか。
好きだとは言えた。
いてほしいとも言えた。
だが、それで海側の家族を説得できるのか。
できなかった。
健一の沈黙を、緑の髪の姉は見逃さなかった。
「ほら。何も言えない」
「言えます」
健一はようやく言った。
「俺は、ルナを泡にしません」
「どうやって?」
青い髪の姉が聞く。
その問いは、マリーンのからかいとは違った。
切実だった。
「水を避けます。満月までに歌を完成させます。彼女が怖くなったら、陸に戻れるように――」
「手順はいらない」
緑の髪の姉が遮った。
「あなたは、この子を愛しているの?」
健一は息を止めた。
ルナの手が、わずかに震えた。
その問いを、健一は何度も避けてきた。
好きだとは言えた。
でも、愛という言葉にはまだ届いていない。
軽く言えば、海が弾く。
嘘なら、ルナが気づく。
そして今、海の姉たちが目の前にいる。
ルナを本気で心配し、連れ戻そうとしている家族たち。
彼女たちに向かって、健一は言えるのか。
愛している、と。
言えなかった。
ルナが、小さく息を吸った。
その音だけが、健一に聞こえた。
白い髪の姉が、悲しそうに言った。
「分かったでしょう、ルナ」
ルナは俯いた。
「健一は」
声が震える。
「嘘を言わない人です」
「ええ」
「だから、今、言えなかったのです」
「それが答えよ」
違う。
健一は思った。
違う。
でも、言葉が追いつかない。
青い髪の姉が手を伸ばした。
「ルナ。帰りましょう。今ならまだ間に合うかもしれない」
ルナは動かない。
健一の袖を握ったまま、海と健一の間で固まっている。
緑の髪の姉が、健一を睨んだ。
「あなたが本当にこの子を大事に思うなら、帰して」
その言葉は鋭く、正しく聞こえた。
ルナを大事に思うなら、海へ帰すべきなのか。
陸に残れば泡になるかもしれない。
海へ戻れば、助かる可能性が少しでもある。
なら、健一がルナを引き留めるのは、ただのわがままではないのか。
好きだからいてほしい。
それは、ルナの命より優先されるものなのか。
健一は、何も言えなくなった。
「健一」
ルナが呼んだ。
健一は彼女を見る。
ルナの目には、涙が浮かんでいた。
「私は」
言葉が切れる。
海の姉たちは待っている。
健一も待っている。
ルナは、涙をこらえるように唇を結んだ。
「私は、まだ帰りたくありません」
小さな声だった。
「でも、健一を困らせたくもありません」
また、その言葉。
邪魔。
困らせる。
呪い。
健一の胸が痛んだ。
青い髪の姉は、ルナに近づいた。
「あなたは優しすぎる。だから、海へ戻るの」
「姉さま」
「陸の男が悪いとは言わない。でも、この人はまだ、自分の心をあなたの命より前に出せない」
健一は、拳を握った。
反論できない。
姉たちは悪ではない。
ルナを傷つけたいわけでもない。
むしろ、救いたいのだ。
だから、強い。
「満月の夜まで待たない」
白い髪の姉が言った。
「大会の日。お台場の海で、もう一度迎えに来ます」
健一が顔を上げた。
「大会の日?」
「あなたたちが、あの海へ戻るなら」
青い髪の姉は言った。
「そこで決めなさい。陸に残るのか、海へ帰るのか」
「なぜ、その日なんですか」
「ルナの歌が、その日に動くから」
白い髪の姉が、ルナを見る。
「あなたは、あの場所を歌にしようとしている。なら、海も聞く」
緑の髪の姉が続けた。
「人間の男。大会の日までに、自分の言葉を見つけなさい」
健一は、黙って彼女を見た。
「好き、では足りないのですか」
健一の問いに、緑の髪の姉は冷たく答えた。
「足りないとは言わない。でも、ルナが泡になるかもしれない時に、その言葉だけで海を止められると思う?」
健一は答えられなかった。
「次に会う時、まだ答えられないなら」
青い髪の姉が言った。
「私たちは、ルナを連れて帰る」
風が吹いた。
海の匂いが強くなる。
次の瞬間、三人の姿は薄くなった。
波の光の中に溶けるように、輪郭が揺らぎ、消えていく。
最後に、白い髪の姉だけがルナを見た。
「小さな妹。あなたが幸せであることを、私たちは願っているの」
それは、冷たい言葉ではなかった。
だから、ルナの涙がこぼれた。
三人は消えた。
波だけが残った。
*
健一とルナは、しばらくその場に立っていた。
観光客は何も気づいていない。
東京は普通に動いている。
レインボーブリッジは白く光り、遠くで子どもが笑っている。
だが、二人の間には、海の姉たちの言葉が残っていた。
大会の日、迎えに来る。
そこで決める。
陸か、海か。
「ルナ」
健一は言った。
ルナは少し驚いたように顔を上げた。
さんは、もうなかった。
「はい」
「俺は」
言いかけて、止まる。
愛している。
言うべきなのか。
今なら言えるのか。
いや、今言えば、それは姉たちに言えなかった穴を埋めるための言葉になるかもしれない。
ルナを安心させるためだけの言葉になるかもしれない。
それは違う。
ルナは、健一の沈黙を見て、少しだけ笑った。
「無理に言わなくていいです」
その笑顔が、痛かった。
「言いたくないわけではありません」
「分かっています」
「ただ」
「健一は、嘘を言わない人です」
ルナは、自分でそう言った。
「だから、私は健一を好きになりました」
健一は息をのんだ。
「ルナ」
「でも、姉さまたちも正しいです」
ルナは海を見る。
「私が泡になるかもしれないなら、海へ帰る方がいいのかもしれません」
「それは」
「でも、私は帰りたくありません」
ルナは泣きそうな顔で笑った。
「私は、わがままです」
「違います」
「違いません」
「なら、俺もわがままです」
健一は言った。
「俺も、あなたに帰ってほしくない」
「健一」
「でも、どう言えばいいのか分からない」
健一は、海を見た。
海の姉たちが消えた場所。
そこに、もう姿はない。
「あなたを守ると言いたい。でも、それだけでは姉たちを説得できない。好きだと言いたい。でも、それだけで海を止められるか分からない。愛していると言いたい。でも、言葉だけ先に出して、嘘になったら嫌です」
ルナは、黙って聞いていた。
「俺は、言葉が遅いです」
「はい」
「でも、探します」
「大会の日までに?」
「はい」
「姉さまたちに言うため?」
健一は首を横に振った。
「あなたに言うためです」
ルナの目が揺れた。
健一は続けた。
「姉たちのためではなく、契約のためでもなく、海を止めるためでもなく。あなたに、ちゃんと届く言葉を探します」
ルナは、静かに涙を拭いた。
「では、待ちます」
「はい」
「でも、あまり遅いと、陽子が怒ります」
「それはかなり現実的な脅威ですね」
ルナは少しだけ笑った。
その笑いで、健一はようやく息ができた。
*
陽子が合流したのは、その十五分後だった。
ルナの顔を見た瞬間、陽子はすぐに異変に気づいた。
「何があったの」
健一は説明した。
海の姉たちが現れたこと。
ルナを連れ戻そうとしたこと。
大会の日にもう一度迎えに来ると言ったこと。
健一が、愛しているとは言えなかったこと。
陽子は最後のところで眉を動かしたが、茶化さなかった。
「姉たちは、悪い人たち?」
陽子が聞く。
ルナは首を横に振った。
「悪くありません。私を心配しています」
「じゃあ、強敵だ」
陽子は言った。
「悪意がない相手が一番強い」
「はい」
健一も同意した。
陽子は腕を組んで、海を見た。
「大会の日に、また来るんだね」
「そう言っていました」
「つまり、大会の日が本当に勝負」
「はい」
「佐藤さん」
陽子が健一を見た。
「言葉、探すしかないね」
「はい」
「好き、だけじゃ足りない?」
「姉たちには、足りませんでした」
「ルナさんには?」
健一はルナを見た。
ルナは、少し困ったように微笑んだ。
「私は、とても嬉しいです。でも、海は強いです」
陽子はうなずいた。
「なら、海より強い言葉か」
「それ、かなり難しくないですか」
健一が言う。
「難しいよ。でも、満月まで十二日、大会まで五日。やるしかない」
陽子はルナに向き直った。
「ルナさん、姉たちと会って怖かった?」
「怖かったです。でも、懐かしかったです」
「帰りたくなった?」
ルナは少し黙った。
「少し」
正直な答えだった。
健一の胸が痛む。
「海は、私の家でした。姉さまたちは、私を大切にしてくれます。水は怖いけれど、海の歌は知っています」
ルナは、健一を見る。
「でも、健一の部屋にも帰りたいです」
陽子は静かに言った。
「じゃあ、選ばされるんだ」
「はい」
「海の家族か、陸の生活か」
「はい」
陽子は少し考えた。
「歌に入れよう」
ルナが目を上げる。
「歌に?」
「うん。迷ってることも、怖いことも、帰りたい場所が二つあることも。隠さないで歌った方がいい」
「でも、健一に向ける歌です」
「だからこそ。ルナさんが本当に何を抱えてるのか、佐藤さんが受け取らないと意味ないんでしょ」
健一は、陽子を見た。
その通りだった。
ルナが陸に残りたい気持ちだけを歌っても、海への懐かしさや姉たちへの思いを隠していたら、それは本当の歌ではない。
ルナは海を捨てたいわけではない。
海も、姉たちも、大切なのだ。
それでも陸を選ぶのか。
それとも海へ帰るのか。
その迷いごと、健一が受け取らなければならない。
「陽子は、すごいです」
ルナが言った。
陽子は肩をすくめた。
「外から見てるだけだよ」
「強い手だけではありません」
「何?」
「強い言葉です」
陽子は少し照れたように顔をそらした。
「はいはい。じゃあ、その強い言葉で作戦会議するよ」
*
その夜、健一の部屋のホワイトボードには、新しい見出しが増えた。
【海の姉たち対策】
陽子が書いた。
・姉たちは敵ではない
・ルナを本気で心配している
・大会の日に再登場する可能性
・ルナは海も姉たちも大切
・陸に残りたい気持ちだけでなく、海への未練も歌に入れる
・健一は「好き」の先の言葉を探す
・大会の日まで逃げない
健一は最後の行を見て、少しだけ眉を寄せた。
「逃げない、多くないですか」
「多いくらいでちょうどいい」
陽子が言った。
ルナは月の柄のメモ帳を開き、新しい歌詞を書いていた。
海には姉の声がある
陸にはあなたの朝がある
どちらも私を呼ぶから
私は歌で、答えたい
健一はその文字を見た。
胸の奥が、静かに震える。
「いいと思います」
ルナが顔を上げる。
「健一に届きますか」
「届いています」
「姉さまたちにも?」
「届くと思います」
「海にも?」
健一は少し考えた。
「届かせましょう」
ルナは、嬉しそうにうなずいた。
陽子が腕を組む。
「佐藤さんも、歌詞じゃなくていいから言葉を作りなよ」
「俺も?」
「当然。ルナさんだけ歌って、佐藤さんが黙って受け取るだけじゃ足りないでしょ」
「マリーンは受け取ることだと」
「魔女の契約が雑なんだから、こっちで盛ればいい」
「盛る」
「そう。言葉で援護射撃」
ルナが目を輝かせた。
「健一も歌いますか」
「歌いません」
「では、話しますか」
「話します」
陽子が満足げにうなずく。
「よし。大会当日、ルナさんが歌う。佐藤さんが言う。私と山下さんは水と人混みを止める」
「かなり役割が明確ですね」
「役割があると動けるでしょ」
「助かります」
陽子は少し笑った。
「佐藤さん向けに言ってる」
ルナはホワイトボードに書き足した。
【ルナが歌う】
【健一が言う】
【陽子と山下が止める】
健一はそれを見た。
単純だ。
だが、悪くない。
*
夜遅く、陽子が帰ったあと、健一とルナはしばらく黙っていた。
ホワイトボードには、海の姉たちのことが書かれている。
ルナは、青いマグカップを両手に持っている。
中身はもう空だ。
それでも、手放さない。
「健一」
「はい」
「姉さまたちは、怖かったですか」
「怖かったです」
「怒っていました」
「心配しているからだと思います」
「はい」
ルナは、少し目を伏せた。
「姉さまたちは、私を大切にしてくれます」
「はい」
「だから、帰らないと言うのは、少し痛いです」
「そうですね」
「でも、健一の部屋へ帰りたいです」
健一は、静かにうなずいた。
「俺は、それを嬉しいと思います」
「はい」
「でも、あなたが海を大切に思うことも、否定したくありません」
ルナが顔を上げる。
「否定しませんか」
「しません」
「私は、海も好きです」
「はい」
「姉さまたちも好きです」
「はい」
「でも、健一も好きです」
健一は、少しだけ息を止めた。
ルナは、続ける。
「好きが二つあると、苦しいです」
「そうですね」
「健一は、苦しいですか」
「苦しいです」
「なぜ」
「あなたを海から奪うことになるかもしれないからです」
ルナは、静かに首を横に振った。
「奪うのではありません」
「では」
「私が選びます」
その声は、強かった。
「でも、選ぶために、健一の言葉がほしいです」
健一は、深く息を吸った。
「探します」
「はい」
「大会の日までに」
「はい」
「あなたが、海も姉たちも大切にしたまま、陸を選べる言葉を」
ルナの目が揺れた。
「それは、難しいです」
「はい」
「でも、健一は難しいことを練習します」
「そうですね」
「では、お願いします」
ルナは頭を下げた。
健一は、その姿を見て、胸が痛くなった。
頭を下げてほしいわけではない。
願ってほしいわけでもない。
でも、ルナは今、本当に選ぶために健一の言葉を必要としている。
好きでは足りない。
愛という言葉にも、まだ届かない。
その間にある、健一自身の言葉。
それを探さなければならない。
「ルナ」
「はい」
「俺は、あなたに海を捨ててほしいわけではありません」
ルナは顔を上げた。
「でも、陸に残ってほしいです」
健一は、ゆっくり言った。
「海を捨てるのではなく、帰る場所を増やしてほしい」
ルナの手が、青いマグカップを少し強く握った。
「帰る場所を」
「はい」
「増やす」
「海と、この部屋。どちらかだけではなく」
「それは、できますか」
「分かりません」
健一は正直に言った。
「でも、そうしたいです」
ルナの目に、涙が浮かんだ。
健一はすぐにタオルを取った。
ルナは少し笑った。
「早いです」
「準備しています」
「泣いても、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
ルナは一粒だけ泣いた。
健一は、それを拭いた。
その涙は、今日はあまり海の色をしていなかった。
少しだけ、陸の光を含んでいるように見えた。
*
その夜、ルナは新しい歌を少しだけ歌った。
「海には姉の声がある――
陸にはあなたの朝がある――
どちらも私を呼ぶから――
私は歌で、答えたい――」
健一は、それを聞いた。
歌声は、濁っていなかった。
ただ、少し揺れていた。
迷いがあるからだ。
でも、それもルナの本当だった。
「届きましたか」
歌い終えて、ルナが聞く。
健一はうなずいた。
「届きました」
「受け取りましたか」
「今日の分は」
ルナは少し笑った。
「健一は、少しずつです」
「すみません」
「いいです。少しずつでも、沈まなければ」
その言葉に、健一は苦笑した。
「沈みません」
「大会でも?」
「大会でも」
「海でも?」
「海でも」
ルナは安心したように息を吐いた。
ホワイトボードには、満月まで十二日。
お台場大会まで五日。
そして、新しい一行。
【海を捨てるのではなく、帰る場所を増やす】
ルナが眠ったあと、健一はその文字を見つめ続けた。
それは、まだ答えではない。
でも、答えに近づくための道だった。
海の姉たちは、また来る。
大会の日に。
お台場の海で。
その時、健一は言わなければならない。
ルナを陸に残すためではなく。
海から奪うためでもなく。
彼女が自分で選べるように。
その言葉を。
健一は、消灯する前にホワイトボードの隅へ一行書き足した。
【大会の日、逃げない】
陽子が見たら、たぶん「よし」と言うだろう。
健一はペンを置いた。
窓の外には、満ちかけの月があった。
海は遠い。
だが、もうすぐ戻る。




