第25話 人魚姫と走る朝
数ヶ月後。
お台場の朝は、まだ少し冷たかった。
海沿いの遊歩道に、薄い光が差している。
レインボーブリッジは朝靄の向こうで白くぼやけ、東京湾の水面は静かに揺れていた。
観光客はまだ少ない。
犬の散歩をする人。
早朝ランの人。
ベンチで缶コーヒーを飲む人。
そのくらいだった。
佐藤健一は、腕時計を確認した。
心拍、安定。
ペース、かなりゆっくり。
距離、二キロを少し過ぎたところ。
隣では、ルナが走っていた。
正確には、走っているというより、走る練習をしている。
フォームはまだ少しぎこちない。
腕の振りは小さく、足の運びも慎重だ。
けれど、もう以前のように一歩ごとに不安定になることはない。
サンダルではなく、陽子と選んだランニングシューズを履いている。
青いヘアゴムで結んだ髪が、朝の風で揺れていた。
「健一」
「はい」
「私は、走っています」
「走っていますね」
「前より、速いです」
「かなり速くなりました」
「陽子に勝てますか」
「まだ無理です」
「山下には」
「距離によります」
「健一には」
「だいぶ先です」
ルナは少しだけ悔しそうにした。
「人魚なのに」
「陸上競技では、人間の方が有利です」
「水では、私が勝ちます」
「水で勝負する予定はありません」
「いつか、泳ぎますか」
健一は少し黙った。
以前なら、その話題だけで身体が強張った。
今も完全に平気ではない。
水は、まだ怖い。
ルナにとっても、健一にとっても。
ただ、怖いままでも話せるようになった。
「いつか」
健一は言った。
「安全な場所で。陽子さんと山下さんもいて。マリーンに余計なことをされない条件で」
「マリーンは余計なことをします」
「確実にしますね」
「では、呼ばない方がいいです」
「そうしましょう」
ルナは満足そうにうなずいた。
それから、少しだけペースを上げた。
健一も合わせる。
お台場の海が、横にある。
あの日、健一が沈んだ海。
ルナが健一を助けた海。
ルナが帰ろうとした海。
大会の日に、ゲリラ豪雨が降った海。
満月の夜、泡が止まった海。
今では、朝のジョギングコースになっている。
それが、不思議だった。
恐怖が消えたわけではない。
けれど、恐怖だけの場所ではなくなった。
「海が、今日は静かです」
ルナが言った。
「そうですね」
「姉さまたちも、静かです」
「見ていますか」
「たぶん」
「怒っていますか」
「緑の姉さまは、少し」
「まだ?」
「健一のことを、変な男と言います」
「正確です」
「でも、悪い男とは言いません」
「それは助かります」
ルナは少し笑った。
満月の夜以降、ルナの姉たちは何度か姿を見せた。
最初は、遠くの海面から。
次は、夕方の浜辺で。
その次は、マリーン映像館の店内で。
海の姉たちは、まだ陸に慣れていない。
健一も、姉たちに慣れていない。
緑の髪の姉は相変わらず健一を見る目が厳しい。
青い髪の姉は静かに観察する。
白い髪の姉は、ルナが青いマグカップを大事にしている話を聞いて少し泣いた。
海と陸の距離は、まだ近くない。
でも、完全に断たれてもいない。
ルナは、帰る場所を増やした。
その言葉通りになりつつある。
*
陽子は、今でもよく来る。
最初は「保護者二人体制」という名目だった。
今は「女子の買い物」「ラン練習」「佐藤さんの言葉チェック」「ルナさんの社会化監修」など、名目が増えすぎて、もはや何でもありになっている。
陽子は、ルナに服を選び、靴を選び、スマホの使い方を教えた。
ルナのスマホには、最初に三人だけ登録された。
健一。
陽子。
山下。
マリーンは勝手に登録されていた。
しかも名前が「海の魔女・返品不可」になっていた。
誰が登録したかは明らかだった。
健一は削除しようとしたが、マリーンからすぐにメッセージが来た。
〈消しても浮かぶわよ〉
削除は諦めた。
陽子はその画面を見て、腹を抱えて笑った。
「怪異も連絡先時代なんだ」
山下は「グループチャット作ります?」と言った。
健一は全力で止めた。
結局、グループチャットは作られた。
名前は、陽子がつけた。
【保護者二人体制+ナイス山下】
山下は喜んだ。
健一は抗議した。
ルナは「よい名前です」と言った。
マリーンは翌日、勝手に参加していた。
どこから入ったのか分からない。
その後、グループ名はマリーンによって変更された。
【泡にならない会】
陽子が怒った。
健一も抗議した。
ルナは少し笑った。
山下は「縁起は悪いけど忘れないですね」と言った。
最終的に、現在の名前はこうなっている。
【ナイス全員】
それで落ち着いた。
*
マリーン映像館は、まだ商店街の外れにある。
店内は相変わらず薄暗く、潮の匂いがして、棚には古いDVDやVHSが並んでいる。
貼り紙も相変わらずおかしい。
【恋愛映画三枚五百円】
【あなたの黒歴史、買い取ります】
【人魚姫相談可】
【フロントディレイラー記念日フェア】
最後の紙を見た時、健一は本気で剥がそうとした。
マリーンに止められた。
「あら、大事な記念日でしょう」
「商売に使わないでください」
「いいじゃない。現代の人魚姫は、王子様の変速機になりたいのよ。名コピーだわ」
「名コピーではありません」
「泣いたくせに」
「それは別です」
ルナは、少し恥ずかしそうにその貼り紙を見ていた。
「健一」
「はい」
「私は、やはり変でしたか」
「変です」
「でも?」
「最高です」
マリーンは「はい、ごちそうさま」と言った。
健一は何も買わずに店を出た。
その後、山下がこっそりそのフェアのDVDを三枚買っていたことが判明した。
健一は問い詰めたが、山下は「資料です」と言い張った。
資料ではない。
*
契約が終わったあと、ルナの身体がどうなったのか。
健一は、最初かなり慎重に確認した。
慎重に、というより、ほとんど実験計画書だった。
マリーン映像館で、健一はノートを開き、マリーンに質問した。
「結局、ルナは完全に人間になったんですか」
マリーンは棚の奥から古い恋愛映画のDVDを引っ張り出しながら、面倒くさそうに答えた。
「完全、という言葉は雑ね」
「あなたに雑と言われるのは納得できません」
「泡にならない。声は自分のもの。陸の脚も安定している。そこは安心していいわ」
健一はペンを走らせる。
【泡にはならない】
【声はルナ本人のもの】
【脚は安定】
「でも、人魚だったことが消えるわけじゃない」
マリーンは続けた。
「海の歌は聞こえる。姉たちとも繋がっている。水に触れれば、身体より先に心が覚えている。雨が怖い日もあるでしょうね」
「つまり?」
「もう泡にはならない。でも、雨の日に無理をすれば普通に冷えるし、怖くもなるし、風邪もひく。人間と同じように濡れて、人魚だった記憶で少し震える。それだけ」
「それだけ、ですか」
「ええ。それだけ」
マリーンは笑った。
「それだけで済むようになったのよ」
健一は、その言葉をノートに書いた。
【水=危険ではなく、怖いもの】
【泡にはならない】
【濡れたら拭く。冷えたら温める】
【怖い時は一緒にいる】
ルナは、その文字を横から見ていた。
「私は、まだ水が怖いですか」
「怖い日もあるわ」
マリーンが言う。
「でも、それは呪いじゃない。記憶よ」
「記憶」
「海を忘れていない証拠」
ルナは、少しだけ目を伏せた。
悲しそうではなかった。
寂しそうで、でも少し安心した顔だった。
「では、私はまだ人魚ですか」
マリーンは肩をすくめた。
「人魚でもあり、人間でもある。陸で暮らす人魚姫。面倒くさいけど、悪くない肩書きでしょう?」
健一は言った。
「肩書きとしては、各種手続きがかなり面倒です」
「そこは人間側で頑張りなさい」
「雑ですね」
「恋の後始末は、だいたい雑なのよ」
ルナは、健一の袖を少しだけ引いた。
「健一」
「はい」
「私は、泡にはなりませんか」
「なりません」
「雨でも?」
「雨でも」
「泣いても?」
「泣いても」
「マグカップを洗って、水が跳ねても?」
「跳ねたら拭きます」
「健一が?」
「自分でも拭けます。でも、必要なら俺も拭きます」
ルナは、少し笑った。
「では、怖い時は?」
健一は、ノートに一行書き足した。
【怖い時は、手を握る】
「こうします」
ルナはその文字をじっと見た。
「これは、ルールですか」
「はい」
「ホワイトボードにも書きますか」
「書きます」
「では、大丈夫です」
ルナはそう言って、健一の手を握った。
マリーンは、にやにやしながらDVDのケースを叩いた。
「はいはい。店内で青春しない」
「あなたが説明したんでしょう」
「説明料として、恋愛映画三本借りていきなさい」
「借りません」
結局、山下が後日借りた。
資料だと言っていた。
資料ではない。
*
最初の雨の日は、小雨だった。
朝から空が灰色で、窓ガラスに細い雨粒がついていた。
以前なら、その時点で健一の部屋は警戒態勢に入っていた。
タオル。
コート。
雨雲レーダー。
移動中止。
水場回避。
ルナを絶対に濡らさないための、ほとんど災害対策のような準備。
だが、その日の健一は、玄関で傘を二本出した。
一本は黒。
もう一本は、陽子が選んだ淡い青の傘だった。
ルナは、青い傘を見て目を丸くした。
「これは、私の傘ですか」
「はい」
「青いです」
「陽子さんが選びました」
「陽子は、私に青を着せます」
「似合うので」
ルナは少し照れた。
それから、窓の外を見る。
雨粒が落ちている。
泡にはならない。
そう分かっていても、身体は少し強張る。
海を思い出す。
足がほどける感覚を思い出す。
ゲリラ豪雨の日の冷たさを思い出す。
満月の夜、泡の音が止まったことも思い出す。
「怖いです」
ルナは正直に言った。
健一はうなずいた。
「はい」
「でも、泡にはなりません」
「なりません」
「濡れたら?」
「拭きます」
「冷えたら?」
「温めます」
「怖くなったら?」
健一は、傘を持っていない方の手を差し出した。
「手を握ります」
ルナは、その手を見た。
あの日、海に引かれて血がにじんだ手。
今はもう傷はほとんど残っていない。
でも、ルナは覚えている。
その手が、岸だったことを。
ルナは、そっと手を重ねた。
「では、行きます」
「はい」
二人は玄関を出た。
マンションのエントランスを抜けると、雨の匂いがした。
健一が黒い傘を開く。
ルナが青い傘を開こうとして、少し手間取る。
「ここを押します」
「はい」
ぱん、と傘が開いた。
ルナは驚いて、少しだけ後ろへ下がった。
「攻撃的です」
「傘です」
「陸の道具は急に広がります」
「気をつけましょう」
二本の傘が並んだ。
黒と青。
雨粒が、布を叩く。
ぽつぽつ、という小さな音。
ルナは、その音を聞いて少し肩をすくめた。
健一は、何も言わず手を握った。
ルナの指は少し冷たい。
でも、泡にはならない。
足もほどけない。
ただ、怖いだけ。
怖いだけなら、一緒に歩ける。
「健一」
「はい」
「私は、雨の中にいます」
「はい」
「泡になっていません」
「はい」
「少し怖いです」
「はい」
「でも、健一の手があります」
「あります」
ルナは、ゆっくり一歩を出した。
水たまりを避ける。
次の一歩。
また一歩。
傘の下で、二人の肩が近づく。
それでも、ルナは自分の足で歩いている。
健一が引っ張るのではない。
守られるだけでもない。
一緒に、雨の中を歩いている。
ルナは、小さく笑った。
「雨は、少し音楽みたいです」
「怖くないですか」
「怖いです」
「でも?」
「でも、今日は、歌えそうです」
ルナは、傘の下で小さく歌った。
「泡にはならない雨の下――
青い傘と、黒い傘――
怖い音でも、手を握れば――
陸の道は、続いていく――」
健一は黙って聞いた。
雨の音に混じる、小さな歌。
それは、海へ帰る歌ではなかった。
泡を止めるための歌でもなかった。
ただ、雨の日に二人で歩くための歌だった。
「届きましたか」
ルナが聞く。
「届きました」
「受け取りましたか」
「受け取りました」
ルナは嬉しそうに笑った。
その瞬間、青い傘が少し傾き、雨粒が健一の肩にかかった。
「すみません」
「大丈夫です」
「濡れました」
「普通に濡れました」
「普通」
「はい。普通です」
ルナは、その言葉を何度か口の中で転がした。
「普通に濡れる」
「はい」
「普通に拭く」
「はい」
「普通に風邪をひかないように、帰ったら温まる」
「そうです」
ルナは、また少し笑った。
「普通は、すごいです」
「そうですね」
健一は、手を握り直した。
雨はまだ降っている。
でも、もう空が壊れたようには見えなかった。
ただの雨だった。
少し怖くて、少し冷たくて、傘の下で手を握る理由になる雨。
泡にはならない。
でも、怖さは残る。
だから、一緒に傘を差して歩く。
たぶん、それでいい。
その日、帰宅後にルナはホワイトボードへ書いた。
【雨=まだ怖い】
【でも、泡ではない】
【怖い時は、手を握る】
【傘=少し強い】
【普通は、すごい】
健一は、その下に赤ペンで書き足した。
【濡れたら拭く。冷えたら温める】
ルナはそれを見て、満足そうにうなずいた。
「これで、雨の日のルールです」
「はい」
「健一」
「はい」
「次の雨の日も、一緒に歩きますか」
「歩きます」
「青い傘と、黒い傘で」
「はい」
「手を握って?」
「はい」
ルナは、少しだけ照れたように笑った。
「では、雨も少しだけ好きになれるかもしれません」
*
お台場の朝ランは、今日で三回目だった。
最初は歩くだけ。
二回目は、歩きと軽いジョグを交互に。
今日は、ゆっくりだが一キロ以上続けて走っている。
ルナは、息を少し弾ませながらも楽しそうだった。
「健一」
「はい」
「胸の太鼓が速いです」
「自分の心拍ですか」
「はい」
「いいことです」
「健一の胸の太鼓は?」
「かなり低めです」
「余裕ですか」
「今のペースなら」
「悔しいです」
「張り合わなくていいです」
「私は、健一の相棒です」
「はい」
「相棒は、隣で進みます」
「そうですね」
ルナは、さらに少しだけピッチを上げた。
健一は苦笑しながら合わせる。
朝の光が、二人の影を遊歩道に伸ばしている。
海は横にある。
怖い。
でも、きれいだ。
ルナは、それを両方とも認められるようになった。
「今日は、姉さまたちに報告します」
「何を」
「一キロ走れました、と」
「いいですね」
「緑の姉さまは、何と言うでしょう」
「人間の真似をして何が楽しいの、とか」
「言いそうです」
「青い姉さんは?」
「無理をするな、と」
「白い姉さんは?」
「泣きます」
「でしょうね」
ルナは笑った。
その笑い声が、朝の海辺に軽く響いた。
数ヶ月前、この声は健一のHDDから借りた言葉で壊れていた。
今も時々壊れる。
だが、それはもう借り物だからではない。
ルナらしいからだ。
「健一」
「はい」
「今日、帰ったら青いマグカップを洗います」
「一緒に」
「はい。一緒に」
「水量は少なめで」
「はい」
「袖をまくらないと濡れます」
「分かっています」
「洗剤は少しで」
「健一」
「はい」
「私は、もう少しできます」
健一は、横を見る。
ルナは前を見ていた。
少し息を弾ませながらも、ちゃんと自分の足で走っている。
「そうですね」
健一は言った。
「任せます」
ルナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、健一は今でも少し驚く。
彼女がここにいることに。
泡にならず、海へ消えず、健一の隣で朝の遊歩道を走っていることに。
それは奇跡のようだが、毎朝のように少しずつ日常になっていく。
奇跡が日常になる。
たぶん、幸福とはそういうものなのかもしれない。
*
折り返し地点で、陽子が待っていた。
腕を組み、ランニングウェア姿で、二人を見ている。
「遅い」
「ルナさんのペースなので」
健一が言うと、ルナがすぐに反論した。
「私は、速くなっています」
「速くなってるよ」
陽子は笑った。
「でも、フォームはまだ肩に力入りすぎ。足元見すぎ。呼吸も浅い」
「陽子は厳しいです」
「強い手の人だからね」
「強い言葉の人でもあります」
「それはルナさんが勝手に言ってる」
ルナは少し誇らしげにうなずいた。
陽子は健一を見る。
「佐藤さん、甘やかしてない?」
「段階的に」
「便利な言葉」
「本当に段階です」
「まあ、いいけど」
陽子はルナの横に並んだ。
「帰りは三人で軽く走ろうか」
「はい」
「無理しない」
「怖いだけなら進みます」
「それ、便利だけど乱用しない」
「はい」
健一は、二人のやり取りを見て少し笑った。
陽子は、今でもルナに厳しい。
でも、それは距離が近くなった証拠だった。
ルナも、陽子の厳しさを怖がらない。
陽子は健一に向かって言った。
「そういえば、山下さんから連絡来てたよ」
「何ですか」
「今度のチーム練習で、ルナさんに応援歌を歌ってほしいって」
「却下です」
「私もそう言った」
ルナが少し残念そうにした。
「歌ってはいけませんか」
「歌うのはいい。でも、歌詞チェックしてから」
陽子が言う。
「健一応援歌は?」
「内容によります」
健一が言う。
「フロントディレイラーの歌は?」
「非公開です」
「内輪だけです」
ルナは少し考えた。
「では、ナイス全員の歌を作ります」
陽子が笑った。
「それは聞きたい」
「やめましょう」
健一は言ったが、たぶん止まらないと分かっていた。
*
三人で走り出す。
陽子は少し前。
健一は真ん中。
ルナは健一の横。
ルナのペースに合わせ、二人が自然に速度を落とす。
だが、以前のように「守るためだけ」の遅さではない。
並んで進むためのペースだった。
海風が吹く。
ルナの髪が揺れる。
青いヘアゴムが光る。
「健一」
「はい」
「私は、前より陸に慣れましたか」
「かなり」
「人間らしいですか」
「かなり」
「人魚らしさは、減りましたか」
健一は少し考えた。
「減っていません」
「そうですか」
「増えたものがあるだけです」
ルナは、その言葉を嬉しそうに受け取った。
「帰る場所が増えたから」
「はい」
「走る場所も増えました」
「はい」
「歌う場所も」
「はい」
「雨の日の傘も」
「はい」
陽子が前から言った。
「そして、変な言葉も増えた」
「それは元からです」
健一が言うと、ルナは少し不満そうにした。
「私は、かなり改善しました」
「しました」
「では、今日は普通に応援できます」
「本当ですか」
「はい」
健一は少しだけ嫌な予感がした。
ルナは、得意げに胸を張った。
「健一、いいペースです」
「はい」
「陽子、フォームがきれいです」
「ありがとう」
「私は、足の歌が安定しています」
「それは少し詩的ですが、まあいいです」
健一は安心しかけた。
その瞬間、ルナが少しペースを上げた。
「もっとピッチを上げるのです!」
「ルナさん?」
「ギアを入れ替えて、私を回して……!」
「公道でその言い方はやめろ!」
健一の声が、お台場の朝に響いた。
陽子が前で吹き出した。
ルナは楽しそうに笑いながら、少しだけ速く走った。
海は静かに光っていた。
泡の足音は、もう聞こえなかった。




