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18/25

第18話 人魚姫は、海へ帰る

 満月まで、十七日。

 朝、佐藤健一はその数字を書き換えた。

 十八を消し、十七と書く。

 たった一日。

 けれど、ペン先がホワイトボードに触れる音が、いつもより少し重く聞こえた。

 ルナは、テーブルで青いマグカップを両手に包んでいた。

 中にはホットミルクが入っている。

 湯気は細く、白く、朝の光の中でほどけていた。

「十七日」

 ルナが言った。

「はい」

「減りました」

「増えることはないので」

「満月は、待ってくれません」

「そうですね」

 健一はペンのキャップを閉めた。

 契約書は雑だった。

 条件も曖昧だった。

 それでも、期限だけははっきり近づいてくる。

 ルナが自分の言葉で恋を歌う。

 健一がそれを受け取る。

 できなければ、泡になる。

 健一は、その条件を何度もノートに書いた。

 書くたびに分かったことがある。

 これは、対策表だけでは解けない。

 水を避ける。

 雨雲を見る。

 タオルを持つ。

 陽子と情報を共有する。

 歌詞を直す。

 泣いても拭く。

 泡になりかけたら抱きしめる。

 全部、大事だ。

 だが、最後のところで足りない。

 健一自身が、自分の感情から逃げていれば、たぶん届かない。

「健一」

「はい」

「今日は、仕事が忙しいですか」

「少し」

「練習は?」

「夜に短く」

「短く」

「調整です」

 ルナはマグカップを見つめた。

「私がいるから、短いですか」

 健一は、すぐに答えた。

「違います」

 前なら少し考えたかもしれない。

 だが今は、すぐに言えた。

「今は、全部を同じ配分でやる時期ではないだけです」

「それは、私のせいです」

「あなたのためです」

 ルナが顔を上げた。

 健一は少しだけ照れくさくなったが、言い直さなかった。

「せい、と言われると違います。俺がそうすると決めています」

「健一が、決めていますか」

「はい」

 ルナは、しばらく健一を見ていた。

「では、私は嬉しいです」

「はい」

「でも、少し怖いです」

 健一は椅子に座った。

「怖い?」

「健一が、私のために決めることが増えています。私がいなくなったら、その決めたものが全部、空になります」

「いなくならないようにします」

「もし、いなくなったら」

「その話は」

「聞いてください」

 ルナの声は静かだった。

 健一は言葉を止めた。

「もし、私が泡になったら、健一の部屋に私のものが残ります。青いマグカップ。服。メモ帳。ホワイトボードの文字。陽子と買ったもの。健一は、それを見ます」

 ルナは自分のマグカップを撫でた。

「それは、つらいですか」

 健一は答えられなかった。

 想像した。

 ルナがいない部屋。

 残された青いマグカップ。

 使われないスリッパ。

 もう書き足されないホワイトボード。

 歌のルールだけが残り、歌う声はない。

 胸の奥が、冷えた。

「つらいです」

 健一は正直に言った。

 ルナは、小さくうなずいた。

「そうですか」

「だから、そうならないようにします」

「はい」

 ルナは笑った。

 笑ったが、その笑顔は薄かった。

     *

 午前中、健一は仕事をした。

 ルナは、隣の部屋で歌の練習をしていた。

 声は小さい。

 隣人に聞こえない程度。

 けれど、健一にはところどころ届いた。

「白いカップに――

 朝が残って――

 あなたの部屋に――

 私の場所が――」

 健一はキーボードを打つ手を止めた。

 歌は、前よりずっと危なくなくなっていた。

 それが逆に、胸に来る。

 ルナは、ちゃんと自分の言葉を探している。

 HDDの借り物ではなく、自分が見たもの、自分が触れたもの、自分が怖がったもの、自分が嬉しかったものを、歌にしようとしている。

 健一の部屋。

 青いマグカップ。

 雨。

 陽子の手。

 袖。

 プリン。

 ホットミルク。

 健一の声。

 それは全部、ルナが陸で得たものだった。

 健一は、画面に戻った。

 だが、集中できなかった。

 午後、陽子からメッセージが来た。

〈明日、歌の練習見る? 私も聞いた方がいいなら行く〉

 健一は少し考え、ルナに聞いた。

「陽子さんが、明日来てもいいかと」

 ルナは、少しだけ黙った。

「陽子に聞いてほしいです」

「では」

「でも、まだ怖いです」

「無理しなくていいです」

「無理ではありません。怖いだけです」

 健一は、その違いを覚えた。

 ルナはよく怖がる。

 でも、すぐに逃げるわけではない。

 怖いまま、進もうとする。

「では、明日。短く」

「はい」

 健一は陽子に返信した。

〈明日お願いします。ルナさんは聞いてほしいそうです。ただ、無理はしない範囲で〉

 陽子からすぐ返事が来た。

〈了解。水なし、茶化しなし、逃げ道なしで行く〉

 健一は少し笑った。

 逃げ道なし。

 陽子は鋭い。

 その笑いを、ルナが見ていた。

「陽子ですか」

「はい」

「健一は、陽子の言葉で少し笑います」

「そうですか」

「はい」

 ルナは、歌のメモを閉じた。

「陽子は、強いです」

「そうですね」

「陽子がいれば、健一は大丈夫ですか」

 健一はルナを見た。

「どういう意味ですか」

「私がいなくても」

 その言葉だけ、部屋の空気から少し外れた。

 健一は、すぐに答えようとした。

 だが、ルナは立ち上がった。

「ホットミルクを温め直します」

「ルナさん」

「大丈夫です。水には触りません」

 そう言って、キッチンへ行ってしまった。

 健一は、追いかけなかった。

 追いかけるべきだった。

 あとから、そう思うことになる。

     *

 夕方、健一は短いランへ出た。

 迷った。

 ルナを一人にすることが少し不安だった。

 だが、ルナは笑って言った。

「行ってください」

「一時間以内に戻ります」

「はい」

「水には触らない」

「はい」

「誰か来ても出ない」

「はい」

「マリーンから何かあっても」

「開けません」

「陽子さん以外の連絡には」

「健一に聞きます」

 ルナは、完璧に答えた。

 健一は少し安心した。

 安心したのが、二度目の失敗だった。

 外に出ると、空はよく晴れていた。

 雨の気配はない。

 健一はゆっくり走り出した。

 いつもの川沿いではなく、マンション周辺を大きく回るだけの短いコース。

 身体は重かった。

 睡眠が浅い。

 仕事の疲れもある。

 頭の中には、満月まで十七日という数字が残っている。

 それでも、走ると少しだけ整理できた。

 ルナは邪魔ではない。

 それはもう言えた。

 ルナがいなくなるのは嫌だ。

 それも言えた。

 では、その先は何か。

 愛。

 その言葉が浮かぶと、健一の足が少し乱れた。

 愛している、という言葉は重い。

 軽く使えば嘘になる。

 責任で言えば、海が弾く。

 無理に言えば、ルナが気づく。

 だが、言えないままで失うことは、もっと怖い。

 健一は、信号で足を止めた。

 息が上がっている。

 心拍数は高くない。

 なのに胸が苦しい。

 これは練習の負荷ではない。

 ルナがいなくなることを想像すると、苦しい。

 青いマグカップが残る部屋を想像すると、息が詰まる。

 歌声が聞こえない朝を想像すると、身体の奥が冷える。

 彼女の言葉が変でも、危なくても、時々社会的に殺しに来ても。

 もう、その声がない生活に戻りたくない。

 健一は、初めてはっきり認めた。

 責任だけではない。

 自分は、ルナを失いたくない。

 信号が青に変わった。

 健一は走り出した。

 いつもより速かった。

     *

 部屋に戻ると、静かだった。

 玄関の鍵は閉まっていた。

 靴もある。

 ルナのサンダルも、いつもの場所にある。

 健一は少し安心した。

「戻りました」

 返事がない。

 胸が、嫌な音を立てた。

「ルナさん?」

 リビングへ入る。

 いない。

 キッチンにもいない。

 寝室にもいない。

 洗面所にもいない。

 浴室のドアは閉まっている。

 健一は息を止めて開けた。

 誰もいない。

 床も乾いている。

 机の上に、青いマグカップがあった。

 中は空だった。

 その横に、月の柄のメモ帳が置かれている。

 開いていた。

 健一は、ゆっくり近づいた。

 そこには、ルナの字があった。

 たどたどしい。

 ところどころ平仮名が多い。

 漢字は少ない。

 でも、何度も練習した字だった。

健一へ

私は、海へ帰ります。

怒らないでください。

探さないでください。

でも、たぶん健一は探します。

だから、ごめんなさい。

私は、健一に会いたくて陸へ来ました。

健一の部屋で、たくさんのものをもらいました。

鶏の肉。プリン。ホットミルク。青いマグカップ。言葉。歌。陽子。

それから、邪魔ではないという言葉。

私は、とても嬉しかったです。

でも、健一の時間をたくさん使いました。

健一の仕事も、練習も、眠る時間も、私のために変わりました。

健一は、困っても嫌ではないと言いました。

でも、私は、健一が困ることをずっと見ているのが苦しくなりました。

愛されなければ泡になると言われました。

でも、健一が私を愛さなければいけないのは、違うと思いました。

それは、私の恋ではなく、私の呪いです。

私は、健一を呪いたくありません。

海へ戻れば、泡になるかもしれません。

でも、健一の部屋で泡になるよりは、海で泡になる方がいいと思いました。

健一の部屋に、私の泡を残したくありません。

健一。

私は、あなたの横を歩けて嬉しかったです。

あなたの袖は、安全でした。

あなたの声は、岸でした。

私は、あなたの邪魔ではないと言ってもらえて、とても幸せでした。

だから、これ以上、邪魔になりたくありません。

ごめんなさい。

ルナ

 健一は、手紙を持ったまま動けなかった。

 怒りは来なかった。

 最初に来たのは、冷たさだった。

 足元から、部屋全体が水に沈んでいくような感覚。

 ルナがいない。

 その事実だけで、部屋の形が変わった。

 青いマグカップがある。

 スリッパがある。

 服がある。

 ホワイトボードがある。

 でも、ルナがいない。

 健一は、ようやく呼吸をした。

「探さないでください、か」

 声がかすれた。

 ルナは分かっている。

 健一が探すことを。

 分かっていて、そう書いた。

 健一はスマホを取り出した。

 陽子に電話をかける。

 一度目のコールで出た。

『佐藤さん?』

「ルナさんがいません」

 向こうの空気が変わった。

『どういうこと』

「置き手紙がありました。海へ帰ると」

『今どこに行きそう?』

「お台場」

 健一は即答した。

 あそこだ。

 すべてが始まった場所。

 健一が沈み、ルナが助けた海。

 彼女が帰るなら、たぶんそこへ行く。

『私も行く』

「お願いします」

『水は? 雨は?』

「晴れています。でも海です」

『タオル持ってく。佐藤さん、先に行って』

「はい」

『あと』

 陽子の声が強くなった。

『逃げないで』

 健一は、手紙を握った。

「逃げません」

 電話を切る。

 リュックを掴む。

 コート。

 タオル。

 小瓶。

 折りたたみ傘。

 何を入れたか分からないまま詰める。

 靴を履く。

 玄関を開ける。

 その直前、ホワイトボードが目に入った。

【満月まで十七日】

【困ることと、邪魔は違う】

【泣いても、拭けば大丈夫】

【生活に残るもの=陸に残る理由】

【健一は、守ると言った】

 健一は、赤ペンを取った。

 一行、書き足した。

【ルナを探す】

 それだけ書いて、部屋を出た。

     *

 電車の中で、健一は手紙を何度も読んだ。

 読むたびに、胸の奥が締めつけられる。

 私は、健一を呪いたくありません。

 その一文が、一番刺さった。

 ルナは、自分の恋を呪いだと思ってしまった。

 健一が困ること。

 仕事が遅れること。

 練習が短くなること。

 人に説明しなければならないこと。

 満月までに愛さなければならないこと。

 それら全部を、自分が健一にかけている呪いだと思った。

 違う。

 違うのだ。

 確かに困っている。

 生活は変わった。

 予定も壊れた。

 でも、それを呪いだとは思っていない。

 ルナが来たから、健一は朝にホットミルクを作るようになった。

 プリンを半分にするようになった。

 雨の日のチーズケーキを約束した。

 自分の言葉に服を着せることを覚えた。

 人に助けを求めることを少しだけ覚えた。

 歌を聞いて、止めずにいることを覚えた。

 青いマグカップが、部屋にあることを嬉しいと思った。

 それは呪いではない。

 生活だ。

 ルナが入り込んだ、健一の生活だ。

 そして、それを失いたくない。

 健一は、スマホを握った。

 山下からメッセージが来ていた。

〈陽子さんから聞きました。何かあったら言ってください。車出せます〉

 いつもの軽さはなかった。

 健一は返信した。

〈ありがとうございます。今、お台場へ向かっています〉

 すぐに返事が来た。

〈了解。必要なら迎えに行きます。ナイス健一とか言ってる場合じゃないですね〉

 健一は、少しだけ息を吐いた。

 人は、知らないうちに増えている。

 ルナが来る前の健一なら、一人で抱えていただろう。

 今は違う。

 陽子がいる。

 山下もいる。

 管理人や隣人にはまだ言えないが、それでも健一はもう完全に一人ではない。

 それも、ルナが来たからだった。

     *

 お台場の海は、夕暮れに沈みかけていた。

 空は淡いオレンジ色で、レインボーブリッジの輪郭が黒く浮かんでいる。

 海面は静かではない。

 小さな波が寄せては返し、人工の砂浜に白い線を残している。

 健一は走った。

 駅から海辺まで、ほとんど全力だった。

 息が切れる。

 脚が重い。

 それでも止まらない。

 スイムで沈んだあの日の場所。

 ルナが最初に海へ消えた場所。

 夕方の光の中で、砂浜には観光客が何人かいた。

 写真を撮る人。

 ベンチに座るカップル。

 犬を連れた人。

 その中に、ルナはいなかった。

 健一は砂浜へ下りた。

「ルナさん!」

 声が、海に向かって飛んだ。

 返事はない。

 波の音だけが返ってくる。

 健一は浜辺を走った。

 レインボーブリッジ側へ。

 防波堤の方へ。

 ベンチの裏。

 階段の陰。

 人影を一つ一つ確認する。

 いない。

 スマホが震えた。

 陽子からだった。

『着いた?』

「海辺にいます。まだ見つかりません」

『私もあと十分くらい。海に入らないでよ』

「分かっています」

『分かってない声してる』

 陽子の声は震えていた。

『佐藤さん、ルナさんはあなたを困らせたくなくて行ったんでしょ』

「はい」

『じゃあ、あなたが無茶したら、もっと自分を責める』

 健一は、波打ち際で足を止めた。

 靴の先まで、波があと数十センチのところで引いていく。

「分かっています」

 今度は、少しだけ本当に分かっていた。

『見つけたら、まず止めて。責めないで。怒らないで』

「怒りません」

『言うことは決めてる?』

 健一は、海を見た。

 夕暮れの海。

 あの日、自分が沈んだ水。

 ルナが来た場所。

「決めています」

『何を言うの』

 健一は、手紙を握った。

「邪魔じゃない、だけでは足りなかったので」

 陽子は黙った。

「今度は、いてほしいと言います」

 電話の向こうで、陽子が息をのんだ気配がした。

『……うん。それ、言って』

「はい」

『絶対、言って』

 電話を切る。

 健一は、海に向かって歩いた。

 波打ち際ぎりぎりで止まる。

「ルナさん!」

 もう一度、呼ぶ。

 今度は、声が少しだけ裏返った。

「ルナ!」

 初めて、さんをつけずに呼んだ。

 海が揺れた。

 気のせいかもしれない。

 だが、健一は見た。

 少し離れた防波堤の陰。

 波が当たる岩場の近く。

 白い影が、一瞬だけ動いた。

 健一は走った。

 砂が足を取る。

 息が荒れる。

 心拍数は見ない。

 そんなものはどうでもいい。

 岩場の近くに、ルナがいた。

 裸足だった。

 青いワンピースの裾が、少し濡れている。

 髪はほどけ、風に揺れていた。

 足首には、銀青の鱗が浮かび始めている。

 まだ完全には戻っていない。

 だが、海が近い。

 波が一つ来れば、届きそうな距離だった。

 ルナは、海を見ていた。

「ルナ」

 健一が呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。

 驚きはなかった。

 来ると分かっていた顔だった。

「健一」

 その声は、いつもより静かだった。

「探さないでと書きました」

「読みました」

「でも、来ました」

「はい」

「健一は、言うことを聞きません」

「今回は聞けません」

 ルナは、小さく笑った。

 その笑顔が、あまりにも寂しかった。

「困ります」

「困ってください」

 健一は、近づこうとして止まった。

 急に動けば、ルナが後ろへ下がるかもしれない。

 そこは海だ。

 健一は、距離を保ったまま言った。

「手紙を読みました」

「はい」

「怒っていません」

「はい」

「でも、納得していません」

 ルナは、海へ少し視線を戻した。

「私は、健一を呪いたくありません」

「呪いではありません」

「でも、健一は困ります」

「困ります」

 健一は認めた。

「これからも、困ります。たぶん、満月までずっと困るし、そのあとも困るかもしれない」

 ルナの目が揺れた。

「そのあと」

「そのあとです」

 健一は、ゆっくり息を吸った。

「俺は、あなたが満月のあともいる前提で困っています」

 ルナは何も言わなかった。

 波が、岩に当たる。

「あなたがいなくなったあとの部屋を考えました」

 健一は続けた。

「青いマグカップが残って、スリッパが残って、ホワイトボードが残って、歌のルールだけが残る部屋です」

 喉が少し詰まった。

「嫌でした」

 ルナの唇が震える。

「健一」

「責任だけではないです」

 健一は言った。

 初めて、逃げずに。

「あなたがいないのは嫌です。あなたが俺の部屋にいないのは嫌です。朝にホットミルクを作らないことも、プリンを半分にしないことも、雨の日のチーズケーキを食べないことも、あなたの歌が聞こえないことも、全部嫌です」

 ルナの目から、涙が一粒こぼれた。

 海に近い場所で、涙は危険だ。

 足首の鱗が、少し濃くなる。

 健一は一歩踏み出した。

「泣いても大丈夫です」

「ここでは、駄目です」

「大丈夫にします」

「健一は、またそう言います」

「言います」

 健一は手を伸ばした。

「戻ってきてください」

 ルナは動かない。

「私は、健一の横にいていいのですか」

「いてください」

「困ります」

「困ります」

「仕事も、練習も、時間も」

「調整します」

「それは、私のせいです」

「あなたのためです」

 ルナは泣きながら笑った。

「健一は、ずるいです」

「そうかもしれません」

「私は、健一を自由にしたかったのに」

「俺は、あなたがいない自由はいりません」

 言った。

 言ってしまった。

 服を着ているかどうか、もう分からなかった。

 でも、嘘ではない。

 ルナの声が震えた。

「それは、責任ですか」

「違います」

「保護ですか」

「違います」

「同居人だからですか」

「違います」

 ルナは、健一を見る。

「では、何ですか」

 健一は答えようとした。

 愛。

 その言葉が、喉まで来た。

 でも、まだ怖かった。

 軽く言いたくなかった。

 呪いを解くための道具にしたくなかった。

 満月への対策として使いたくなかった。

 健一は、別の言葉を選んだ。

「好きです」

 ルナの目が、大きく開いた。

 健一は続けた。

「たぶん、俺はあなたが好きです」

 たぶん、がついた。

 完璧ではない。

 格好よくもない。

 でも、健一の今の正直だった。

「まだ、愛という言葉をうまく使えるか分かりません。でも、あなたが好きです。あなたにいてほしい。これは、責任だけではありません」

 ルナの頬を、また涙が伝った。

 足首の鱗が、淡く光る。

 今度は、海に引っ張られる光ではなかった。

 健一には、そう見えた。

「健一」

「はい」

「今の言葉は、服を着ていますか」

「分かりません」

「中は、見えますか」

「全部見えていると思います」

 ルナは、泣きながら笑った。

「私は、その中が好きです」

 波が来た。

 大きめの波だった。

 ルナの足元へ届きそうになる。

 健一は反射的に前へ出た。

 濡れることも、砂で滑ることも、周囲の視線も、何も考えなかった。

 ルナを抱きしめた。

 コートもタオルも間に合わない。

 ただ、腕だけが間に合った。

 マリーンの声が頭をよぎる。

 手だけが、間に合うことがある。

 健一は、ルナを強く抱いた。

 波が足元を濡らした。

 健一の靴が濡れた。

 ズボンの裾も濡れた。

 ルナの足にも、少し触れたかもしれない。

 だが、ルナの身体は泡にならなかった。

 彼女は健一の胸に額を押し当てて、震えていた。

「健一」

「はい」

「海が、遠くなりました」

 健一は目を閉じた。

「よかった」

「健一の声が、岸です」

「はい」

「私は、戻りたいです」

「部屋に?」

「はい」

 ルナは、かすれた声で言った。

「健一の部屋に、帰りたいです」

 健一は、腕の力を少しだけ緩めた。

「帰りましょう」

「はい」

 ルナは、健一のシャツを掴んだ。

「でも、歩けません」

「抱えます」

「不審者になります」

「もう慣れました」

 ルナは、少し笑った。

 その笑いが戻っただけで、健一は救われた。

     *

 陽子が到着した時、健一はルナを抱えて砂浜を歩いていた。

 靴もズボンも濡れている。

 ルナは健一の上着に包まれている。

 通行人がちらちら見ている。

 かなり不審だった。

 陽子は駆け寄ってきた。

「ルナさん!」

「陽子」

 ルナが顔を出す。

 陽子は泣きそうな顔で怒った。

「馬鹿! ほんとに馬鹿! 心配した!」

「ごめんなさい」

「謝るなら帰ってから!」

 陽子は健一を見た。

「佐藤さん、言った?」

 健一は少しだけ黙った。

「言いました」

「何を」

「いてほしいと」

「それから?」

 陽子は逃がさなかった。

 健一は、ルナを抱えたまま視線を逸らした。

「好きだと」

 陽子は、深く息を吐いた。

「遅い」

「すみません」

「でも、間に合った」

「はい」

 ルナが小さく言った。

「陽子」

「何」

「健一の言葉は、全部見えました」

 陽子は一瞬固まり、それから笑った。

「よかったね」

「はい」

 ルナも笑った。

 その笑顔を見て、陽子は少しだけ目元を拭いた。

「帰ろう。タクシー呼んでる」

「ありがとうございます」

 健一が言うと、陽子はじろりと見た。

「佐藤さんも濡れてる。帰ったら着替え。ルナさんも足確認。ホワイトボード更新。あと、反省会」

「反省会」

 ルナが繰り返す。

「そう。人魚姫、勝手に海へ帰らない会」

「はい」

「佐藤さん、感情を検討中にしない会」

「はい」

「ついでに、満月対策会議」

「はい」

 健一は素直にうなずいた。

 もう、陽子がいてくれることに抵抗はなかった。

     *

 部屋に戻ると、最初にルナの足を確認した。

 足首には、まだ少し鱗の光が残っていたが、落ち着いていた。

 健一がタオルで丁寧に拭く。

 ルナは椅子に座り、青いマグカップを両手で包んでいる。

 中身はホットミルクだった。

 陽子はキッチンでチーズケーキを皿に出していた。

「途中で買った。雨の日じゃないけど、今日は例外」

「白い山」

 ルナが小さく言う。

「そう。帰還祝い」

「帰還」

「海からの帰還」

 ルナは、少し恥ずかしそうに笑った。

 健一は着替えを済ませてから、ホワイトボードの前に立った。

【満月まで十七日】

【ルナを探す】

 その下に、何を書くべきか迷う。

 ペンを持ったまま立っていると、ルナが近づいてきた。

「私が書きます」

 健一はペンを渡した。

 ルナは、ゆっくり書いた。

【海へ帰ろうとした】

【健一が来た】

【探さないでと書いても、来た】

【私は呪いではないと言われた】

【健一は、私がいない自由はいらないと言った】

【健一は、好きと言った】

 陽子が後ろで小さく言った。

「そこ、太字にしたいね」

「ホワイトボードに太字はありません」

 健一が言う。

「赤で囲めば?」

「やめてください」

 ルナは、最後の行を見つめていた。

 それから、もう一行書いた。

【私は、健一の部屋に帰りたいと言った】

 健一は、その文字を見た。

 帰りたい。

 ルナにとって、この部屋はもう、ただの避難場所ではない。

 帰る場所になりかけている。

 健一は赤ペンを取った。

 迷わず、横に書いた。

【帰ってきた】

 ルナがそれを見る。

 目が潤んだ。

「泣いてもいいですか」

「いいです」

「拭きますか」

「拭きます」

 ルナは少し泣いた。

 健一はタオルで拭いた。

 陽子は何も言わず、チーズケーキを三つに切った。

     *

 その夜、ルナは歌った。

 陽子もいた。

 健一もいた。

 水はなかった。

 タオルは近くにあった。

 青いマグカップは、テーブルの上にあった。

 ルナは、小さく歌った。

「海へ帰る道の途中で――

 あなたの声が、私を呼んだ――

 探さないでと書いた文字を――

 あなたは濡れた靴で越えた――」

 健一は黙って聞いた。

 陽子も黙っていた。

「困ることと、邪魔なことは――

 同じではないと、あなたは言った――

 呪いではないと、抱きしめられて――

 私は岸へ、帰ってきた――」

 ルナの声は、濁っていなかった。

 健一には、それが分かった。

 借り物ではない。

 HDDの言葉ではない。

 ルナ自身が見たもの、聞いたもの、泣いたもの、選んだものから出ている声だった。

 最後に、ルナは健一を見た。

「青いカップのある部屋へ――

 白い山を三つに分けて――

 私はここに、帰ってきた――

 あなたが、いてほしいと言ったから――」

 歌が終わった。

 部屋は静かだった。

 健一は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 これが、受け取るということに近いのかもしれない。

 まだ全部ではない。

 でも、逃げてはいない。

「届きました」

 健一は言った。

 ルナの目が揺れる。

「受け取りましたか」

 健一は、今度はすぐに答えなかった。

 だが、逃げなかった。

「少しではなく、かなり」

 ルナは、泣きながら笑った。

 陽子が横で言った。

「よし。今日はそれで合格」

「合格ですか」

 ルナが聞く。

「うん。満月対策、少し前進」

 健一も頷いた。

「かなり前進です」

 ホワイトボードの満月まで十七日という文字は、まだそこにある。

 期限は消えていない。

 契約も終わっていない。

 ルナが泡になる可能性も、まだなくなっていない。

 だが、この日、健一は初めて自分の感情を認めた。

 責任ではなく。

 保護ではなく。

 同居の事情でもなく。

 好きだと。

 そしてルナは、海へ帰る道から、健一の部屋へ帰ってきた。

 その夜、ホワイトボードの一番下には、三人で決めた新しいルールが書き足された。

【勝手に海へ帰らない】

【探さないでと書いても、探す】

【好きは検討中にしない】

 健一は最後の一行を見て、少しだけ困った顔をした。

 ルナは嬉しそうに笑った。

 陽子は腕を組んで言った。

「異議なし」

 健一は、赤ペンを置いた。

「異議なしです」

 窓の外には、まだ満ちきらない月があった。

 海は遠い。

 けれど、今夜のルナは、陸にいた。

 青いマグカップのある部屋に。

 白いチーズケーキを三つに分けたテーブルのそばに。

 健一の言葉が、まだ少しだけ震えて残っている場所に。


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