第17話 私は、あなたの邪魔ですか
満月まで、十八日。
その数字を、健一はホワイトボードの隅に書き直した。
昨日までは十九日だった。
一日減っただけだ。
ただの数字だ。
だが、黒いペンで書かれた「十八」は、部屋の空気を少しだけ重くした。
ルナは、それを見ていた。
健一の部屋には、以前より物が増えていた。
青いマグカップ。
ルナ用のスリッパ。
月の柄のメモ帳。
陽子が選んでくれた服の紙袋。
防水ポーチ。
タオル。
マリーンから渡された小瓶。
ホワイトボードには、水の注意、歌のルール、満月までの予定、陽子との共有事項がびっしり書かれている。
最初に来た夜とは、部屋が違っていた。
健一の部屋に、自分のものが増えている。
それは、うれしい。
うれしいはずだった。
だが、ルナは最近、そのたびに少し苦しくなる。
健一はキッチンで朝食を準備していた。
鶏胸肉。
卵。
味噌汁。
昨日買った野菜。
以前より、皿の数が増えた。
食卓の色も増えた。
健一は「栄養バランスのため」と言う。
けれど、ルナには少し違って見える。
自分が来たからだ。
健一は、変わっている。
朝の練習時間が短くなった。
仕事中も、時々ルナの様子を見に来る。
雨雲レーダーを見る回数が増えた。
買い物に行くと、まず水場を確認する。
陽子や山下に説明しなければならなくなった。
マリーンの店へ行き、契約のことで頭を悩ませている。
ホワイトボードには、自分のための注意ばかりが増えていく。
健一の生活に、ルナが入り込んだ。
入り込んで、場所を取り、予定を変え、心配を増やし、危険を持ち込んだ。
ルナは、自分の青いマグカップを両手で包んだ。
中にはホットミルクが入っている。
温かい。
白くて、やさしい。
好きな味だ。
でも今日は、その温かさが少し苦しかった。
「ルナさん」
健一が声をかける。
「はい」
「食べられますか」
「食べます」
ルナは笑おうとした。
たぶん、うまく笑えなかった。
健一は皿を置く手を止める。
「具合が悪いですか」
「悪くありません」
「足は?」
「大丈夫です」
「喉は?」
「大丈夫です」
「水に触りましたか」
「触っていません」
健一は少し眉を寄せた。
「では、どうしました」
ルナは答えられなかった。
胸の中にあるものは、嫉妬の泡とは違う。
もっと重い。
泡というより、濡れた布が胸の奥に沈んでいるようだった。
「分かりません」
そう答えるしかなかった。
健一は何か言いかけた。
だが、結局言わずに椅子へ座った。
「食べながらでいいです。言葉になったら、教えてください」
その言い方が、やさしかった。
やさしいから、余計につらかった。
*
その日は、健一が在宅勤務の日だった。
リビングの机にノートパソコンを置き、オンライン会議に参加している。
ルナは少し離れたソファに座り、メモ帳で日本語の練習をしていた。
声を出してはいけない時間。
画面の向こうに、健一の仕事の人たちがいる時間。
ルナは、静かにしていた。
健一の声は、ルナに話す時と少し違う。
「その件は午後までに確認します」
「仕様としては、既存の処理に寄せた方が安全です」
「そこは一度、リスクを切り分けましょう」
「はい。こちらで対応します」
短い。
速い。
余分な言葉がない。
健一は、仕事の中ではこういう声をしているのだ。
ルナはメモ帳に書いた。
【健一の仕事の声=乾いている】
書いてから、少し首を傾げる。
乾いている。
でも、冷たいわけではない。
ただ、無駄な波がない。
その声が、会議の途中で少し乱れた。
画面の向こうから誰かが言った。
『佐藤さん、最近ちょっと稼働落ちてます? 例のレビュー、前なら昨日中に返ってたと思うんですが』
健一は一瞬だけ黙った。
「すみません。こちらの確認が遅れました。今日中に戻します」
『いや、責めてるわけじゃないんですけど。何かあれば調整しますよ』
「問題ありません。対応します」
問題ありません。
ルナは、その言葉を知っている。
健一がよく使う言葉だ。
大丈夫。
問題ない。
対応します。
検討します。
でも、問題はある。
ルナは見ている。
健一は、昨日の夜も遅くまで契約条件を整理していた。
ルナの歌詞を直し、マリーンの言葉をノートに書き、満月までの日数を確認していた。
仕事の画面を開いたまま、何度もホワイトボードを見ていた。
睡眠時間も、前より短い。
練習も、短い。
仕事も、遅れている。
自分のせいだ。
そう思った瞬間、胸の中の濡れた布が、さらに重くなった。
健一は、いつも重いものを一人で踏む人だった。
ローラー台の上でも、仕事の画面の前でも、困っていない顔で少しだけ肩を固くする。
軽くすればいい場面で、軽くしない。
誰かに頼ればいいところで、自分の中で処理しようとする。
ルナは、それを見ていた。
回転が落ちても、呼吸が重くなっても、健一は「問題ありません」と言う。
重いギアのまま、もう一度踏む。
そういう人なのだと、少しずつ分かってきた。
なら、自分は何なのだろう。
健一のギアを軽くするものではなく、さらに重くしているものではないのか。
そう思った瞬間、胸の中の濡れた布は、もっと深く沈んだ。
会議が終わった。
健一は画面を閉じ、目元を押さえた。
疲れている顔だった。
ほんの数秒だけ、誰にも見せない顔になった。
ルナは、その顔を見てしまった。
健一がこちらを向く前に、彼女はメモ帳へ視線を落とした。
気づかないふりをした。
「ルナさん」
「はい」
「静かにしてくれて、ありがとうございます」
「私は、邪魔をしませんでしたか」
「していません」
健一はすぐに答えた。
だが、ルナの胸は軽くならなかった。
今、この時間は邪魔をしなかった。
でも、自分がいることそのものはどうなのか。
その質問が、喉の奥に引っかかった。
*
午後、陽子からメッセージが来た。
健一のスマホがテーブルで震える。
画面に表示された名前を見て、ルナは少しだけ胸が小さく揺れた。
嫉妬ではない。
少し違う。
陽子は、昨日から協力者になった。
水鉄砲のことは怖かった。
けれど、陽子は謝ってくれた。
タオルを持ってくれた。
ルナを守ると言ってくれた。
だから、陽子を嫌いではない。
健一が画面を見る。
メッセージは短かった。
〈昨日のこと、改めてごめん。今日ルナさん大丈夫?〉
健一はすぐに返信した。
〈大丈夫です。足の変化も落ち着いています〉
少しして、またメッセージ。
〈佐藤さんも大丈夫? 仕事とか練習とか無理してない?〉
健一の指が止まった。
ルナは、見ていないふりをした。
でも、見えてしまった。
健一は少し考えてから返信した。
〈問題ありません〉
また、その言葉。
問題ありません。
ルナは、自分の手を握った。
陽子は気づいている。
健一が無理をしていることに。
ルナも気づいている。
気づいているのに、何もできていない。
むしろ、原因でいる。
「健一」
「はい」
「陽子は、健一を心配しています」
「そうですね」
「私は、健一を心配させています」
健一はスマホを伏せた。
「あなたが悪いわけではありません」
「でも、健一は前より忙しいです」
「多少は」
「練習も短いです」
「調整しています」
「仕事も、遅れています」
健一は黙った。
ルナは、その沈黙で分かった。
当たっている。
当たってほしくなかった。
「私が来たからです」
「違います」
「違いません」
ルナの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「私は、健一に会いたくて陸へ来ました。健一に助けてほしくて、この部屋へ来ました。声を戻すために、健一の大切な箱を開けました。水を怖がるので、健一はいつも準備します。雨が降ると、健一は濡れます。陽子も困ります。山下も、管理人も、隣の人も、みんな健一を見ます」
言葉が、止まらなかった。
でも、今日は裸ではなかった。
むしろ、きちんと服を着すぎていて、重かった。
「満月のことも、私のことです。健一は、私を泡にしないために考えています。歌も、恋も、契約も、本当は健一の生活にはなかったものです」
健一は、何も言わない。
ルナは顔を上げた。
「私は、あなたの邪魔ですか」
部屋の音が消えた。
ノートパソコンのファンの音。
外を走る車の音。
冷蔵庫の低い音。
全部が遠くなった。
健一は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、ルナの胸を深く沈めた。
違うなら、すぐ言ってほしかった。
でも、健一は嘘が下手だ。
だから、考えている。
正しい答えを探している。
それは、ルナが本当に邪魔だからかもしれない。
ルナは、自分の膝の上で手を握った。
「無理に、違うと言わなくていいです」
「ルナさん」
「私は、健一に無理をしてほしくありません」
その言葉は、前にも言った。
けれど、今日はもっと深く出てきた。
「愛されなければ泡になると言われました。でも、健一が私を愛さなければいけないのは、怖いです。健一が責任で私を守るのも、うれしいです。でも、その責任で健一の生活が壊れるのは、もっと怖いです」
視界が少し揺れた。
泣きそうになっているのだと気づいた。
泣くと、海に近づく。
マリーンが言っていた。
ルナは、必死に目を閉じた。
「泣きません」
小さく言った。
健一が立ち上がる音がした。
「我慢しないでください」
「駄目です。泣くと、泡を呼びます」
「呼ばせません」
「どうやって」
「考えます」
「また、健一が考えます」
ルナは目を開けた。
涙はまだ落ちていない。
でも、もう近い。
「健一は、いつも考えます。私のために。水のこと、足のこと、言葉のこと、歌のこと、満月のこと。私は、健一に考えさせてばかりです」
健一は、ルナの前に膝をついた。
目線が同じ高さになる。
「聞いてください」
声が、いつもより低かった。
「あなたが来てから、俺の生活は変わりました」
ルナの胸が痛んだ。
「はい」
「予定は狂っています。仕事にも影響は出ています。練習も前と同じではありません。人に説明しなければいけないことも増えました」
「はい」
「正直、困っています」
その言葉は、刺さった。
でも、嘘ではない。
だから、ルナは逃げなかった。
健一は続けた。
「でも、邪魔ではありません」
ルナは、顔を上げた。
「困ることと、邪魔なことは違います」
健一は、ゆっくり言った。
「あなたが来てから、俺は困っています。考えることが増えました。怖いことも増えました。予定も崩れました。でも、あなたがいない方がいいとは思っていません」
ルナの目に、涙が溜まる。
「本当ですか」
「本当です」
「健一は、無理をしていませんか」
「しています」
健一は正直に言った。
ルナは息を止めた。
「でも、無理をしたくない相手に、俺はここまでしません」
その言葉は、部屋に静かに落ちた。
ルナの涙が、一粒こぼれた。
頬を伝う前に、健一がタオルを差し出した。
いつの間に取ったのか分からない。
たぶん、最初から近くに置いていたのだ。
マリーンの言葉を受けて、泣いても大丈夫な方法を考えていたのだろう。
「拭きます」
健一が言った。
ルナは、小さくうなずいた。
健一の手が、そっと涙を拭いた。
タオルに触れた涙が、かすかに光った。
水ではない。
真珠にもならない。
ただ、淡い海の色だけが、繊維に少し残った。
ルナは震えた。
「泡になりますか」
「なりません」
「どうして分かるのですか」
「俺が、そうさせないので」
根拠はない。
でも、その言葉は欲しかった。
ルナは、もう一粒泣いた。
健一は、それも拭いた。
丁寧に。
慌てずに。
まるで、初めからそのために待っていたみたいに。
「ルナさん」
「はい」
「俺も、まだうまく言えません」
「はい」
「愛という言葉も、受け取るということも、分かっていない部分が多いです」
「はい」
「でも、あなたがこの部屋にいることを、なかったことにしたくありません」
ルナは、息を止めた。
「あなたのマグカップがあることも、ホワイトボードに変なルールが増えたことも、プリンを半分にすることも、雨の日にチーズケーキを食べる約束も、俺はもう消したくありません」
健一は少しだけ視線を落とした。
「これは、責任だけではないと思います」
ルナの胸の奥で、何かがほどけた。
濡れた布が、少し軽くなる。
「健一」
「はい」
「今の言葉は、服を着ていますか」
「着ています」
「中は、見えますか」
「かなり」
ルナは、泣きながら少し笑った。
「私は、その中が好きです」
言ってから、彼女は両手で口を押さえた。
「これは」
「薄着です」
健一が静かに言った。
「でも、嫌ではありません」
ルナは、もう一度泣いた。
今度は、怖い涙ではなかった。
健一はまた拭いた。
*
その日の夕方、健一は仕事を早めに切り上げた。
その代わり、翌朝少し早く起きると言った。
ルナは反対したが、健一は「調整です」と答えた。
検討中ではなく、調整。
少しだけ強い言葉だった。
夕食は、鶏胸肉ではなかった。
鮭だった。
「魚です」
ルナは皿を見て言った。
「嫌ですか」
「いいえ。魚は、海の民です」
「食べづらいですか」
「少し複雑です」
「やめますか」
ルナは真剣に考えた。
「食べます。陸に来たので」
「無理しないでください」
「無理ではありません。鮭は、川を上ります。私も、陸を歩きます」
「急に壮大ですね」
「命に感謝します」
「朝の歌みたいにならなければ大丈夫です」
ルナは少し笑った。
笑えるようになっていた。
食後、二人はホワイトボードの前に座った。
健一は「満月まで十八日」の下に、新しい欄を作った。
【今日分かったこと】
ルナがペンを持つ。
少し考えて、書いた。
【困ることと、邪魔は違う】
健一がうなずく。
「いいですね」
ルナは次を書いた。
【泣いても、拭けば大丈夫】
「拭くだけではないですが」
「健一が拭きます」
「必要なら」
「必要なら、は禁止です」
「……拭きます」
ルナは小さく笑って、さらに書いた。
【健一は、私のマグカップを消したくない】
健一は少しだけ耳を赤くした。
「そこを書きますか」
「大事です」
「大事ですか」
「はい。私は、マグカップから陸に残ります」
「意味は分かるような、分からないような」
「私は分かります」
「ならいいです」
健一は赤ペンで、その横に書き足した。
【生活に残るもの=陸に残る理由】
ルナはその文字をじっと見た。
「陸に残る理由」
「はい」
「健一は、私の理由です」
健一は止まった。
ルナも、自分の言葉に少し驚いた顔をした。
だが、取り消さなかった。
「私は、海から来ました。健一に会いたくて来ました。でも今は、健一だけではありません。マグカップも、陽子も、プリンも、服も、ホットミルクも、歌もあります」
ルナは胸に手を当てた。
「でも、最初の理由は健一です」
健一は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かりました」
「受け取りましたか」
その問いに、健一はすぐには答えなかった。
だが、逃げなかった。
「少し」
ルナは目を見開いた。
「少し?」
「はい。全部ではないかもしれません。でも、少し受け取りました」
ルナは、胸を押さえた。
「今、声が沈みませんでした」
「そうですか」
「はい」
彼女は小さく、歌うように言った。
「健一は、少し受け取った」
その声は、たしかに澄んでいた。
濁っていなかった。
*
夜、陽子からメッセージが来た。
〈今日ルナさん大丈夫? 昨日のこと引きずってない?〉
健一は返信しようとして、少し考えた。
それから、ルナにスマホを見せた。
「返信しますか」
「私が?」
「はい」
ルナは驚いた顔をした。
それから、少し緊張しながらスマホを受け取った。
文字入力はまだ遅い。
健一が横で教えながら、ルナは一文字ずつ打った。
〈陽子、私は大丈夫です。今日は泣きました。でも、健一が拭きました。邪魔ではないと言われました〉
健一は画面を見た。
「少し情報が」
「駄目ですか」
「駄目ではないですが、陽子さんが驚くかもしれません」
「陽子には、嘘をつきたくありません」
「分かりました」
送信。
すぐに既読がついた。
しばらく返事がなかった。
それから。
〈よかった。泣けたならよかった。佐藤さん、ちゃんと拭いたんだね〉
続けて。
〈ルナさんは邪魔じゃないよ。少なくとも私は、いてくれてよかったと思ってる〉
ルナはその文字を何度も読んだ。
「陽子も、邪魔ではないと言いました」
「はい」
「私は、二人の邪魔ではありませんか」
健一は答えた。
「違います」
今度は、すぐに。
ルナは安心したように笑った。
その夜、ルナは少しだけ歌った。
小さな声で。
健一だけに聞こえる声で。
「困る日も、あるけれど――
邪魔じゃないと、あなたは言った――
白いカップに、朝が残って――
私は少し、ここにいる――」
健一は止めなかった。
歌詞はまだ少し不器用だった。
でも、危険ではなかった。
そして、たしかにルナ自身の言葉だった。
ホワイトボードの隅には、満月まで十八日と書かれている。
数字は減っていく。
けれど、今日増えたものもある。
邪魔ではないという言葉。
泣いても戻れる方法。
少し受け取った、という事実。
ルナは歌い終えて、健一を見た。
「健一」
「はい」
「私は、ここにいていいですか」
健一は、迷わず答えた。
「いてください」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの声は、もう一度だけ小さく震えた。
今度は、沈む震えではなかった。
陸に残るための震えだった。




