第16話 水鉄砲は、人魚姫に撃ってはいけない
瀬戸陽子は、悪戯のつもりだった。
少なくとも、最初は。
翌日の午後、陽子は健一のマンション近くにある小さな公園にいた。
健一からは、事前にこう言われている。
〈話すなら外より部屋の方が安全です〉
陽子は断った。
外がよかった。
密室で「実はルナは普通ではありません」と言われるより、空が見える場所の方がいい。
逃げるためではない。
自分の常識が壊れた時、せめて風くらい通っていてほしかった。
公園には、遊具が少しだけある。
滑り台。
ブランコ。
小さな砂場。
水飲み場。
その水飲み場を見た瞬間、健一の顔が明らかに険しくなった。
「場所を変えましょう」
「佐藤さん、まだ何も起きてない」
「水場があります」
「あるね」
「リスクです」
「公園に水飲み場があるのは普通」
「普通が一番危険なこともあります」
健一の声は本気だった。
陽子はそれを見て、胸の中に小さな棘を感じた。
心配性、という言葉では済まない。
ルナは、健一の少し後ろに立っている。
今日は薄いカーディガンに、昨日買った青いワンピースを着ていた。
似合っている。
似合いすぎている。
健一も、さっきから何度か見ている。
自分では気づいていないだろうが、視線が服のところで止まっている。
ルナは、それに気づいて少し嬉しそうだった。
陽子は、それを見て少し苦かった。
「ここでいいです」
ルナが言った。
「陽子に、話したいです」
健一はルナを見る。
「無理しなくていいです」
「無理ではありません」
「でも」
「健一」
ルナは静かに言った。
「陽子は、水を止めてくれました」
健一は黙った。
「だから、私は話したいです」
健一は少し息を吐いた。
「分かりました。ただし、水飲み場には近づかない」
「はい」
「砂場も濡れている可能性があるので近づかない」
「はい」
「子どもが来たら距離を取る」
「はい」
陽子は手を上げた。
「子どももリスク?」
「水鉄砲を持っている可能性があります」
「そんな偶然」
言いかけて、陽子はやめた。
公園の隅に、バケツと小さなプラスチック製の水鉄砲が落ちていた。
たぶん、誰かの忘れ物だ。
透明な青色。
子ども用の安いもの。
中に水が少し残っているのか、持ち手のあたりが光っている。
健一は即座にそれを見つけた。
「移動します」
「待って」
陽子は思わず言った。
「それ、そんなに危ないの?」
「危ないです」
「本当に?」
その一言に、空気が変わった。
健一が陽子を見た。
「瀬戸さん」
「ごめん。でも、私はまだちゃんと分かってない」
陽子は、自分でも声が硬くなっているのが分かった。
「ルナさんが普通じゃないのは分かる。水が怖いのも分かる。足首が光ったのも見た。でも、何がどこまで本当なのか、分からない」
「だから、説明します」
「説明だけで、信じられるかどうか分からない」
言った瞬間、ルナの顔が少し曇った。
陽子は胸が痛んだ。
違う。
ルナを責めたいわけじゃない。
「ルナさんを疑ってるんじゃない。いや、疑ってるのかもしれないけど、悪い意味じゃなくて」
「陽子」
ルナが小さく言った。
「私は、疑われても仕方ないです」
「そういう言い方しないで」
「でも、私は海から来ました」
陽子は息を止めた。
ルナは続ける。
「人間ではありません。水に濡れると、脚が戻ります。声は、健一の大切な箱で戻りました。満月までに、私が自分の言葉で恋を歌って、健一が受け取らないと、私は泡になります」
一息で言った。
陽子は、何も言えなかった。
情報量が多すぎる。
海から来た。
人間ではない。
水で脚が戻る。
健一の大切な箱。
満月。
恋を歌う。
泡になる。
どこから突っ込めばいいのか分からない。
いや、一つだけ分かる。
「佐藤さんの大切な箱って何」
「そこは重要ではありません」
健一が即答した。
「重要じゃない顔じゃないけど」
「今は水の話です」
陽子は深く息を吐いた。
笑ってしまいそうだった。
だが、笑えなかった。
ルナの顔は、本気だった。
健一の顔も、本気だった。
狂っている。
でも、二人とも本気だ。
陽子は、公園の隅の水鉄砲を見た。
軽いプラスチックの玩具。
水が少しだけ入っている。
もし本当なら、危険。
もし嘘なら、何も起きない。
もしルナが何かの病気や妄想を抱えているなら、確認行動は傷つける。
分かっていた。
分かっていたのに、陽子の中の「確かめたい」が、ほんの少し勝った。
それが悪かった。
「じゃあ」
陽子は水鉄砲を拾った。
健一の表情が変わった。
「瀬戸さん、置いてください」
「撃たない。撃たないけど、少しだけ」
「置いてください」
声が強かった。
陽子は、一瞬むっとした。
自分だけが何も知らないまま、二人の秘密の外に置かれている。
健一はルナを守る側にいて、陽子には「信じろ」と言う。
それは正しいのかもしれない。
でも、苦しかった。
「佐藤さん、私は子どもじゃない」
「分かっています。だから置いてください」
「じゃあ、ちゃんと見せてよ」
「見せ物ではありません」
「そういうことじゃない!」
陽子の声が少し大きくなった。
ルナがびくりとする。
陽子はすぐに後悔した。
でも、手は止まらなかった。
「私は心配してるの。佐藤さんのことも、ルナさんのことも。でも、何も分からない。分からないまま、危ない危ないって言われても、どうすればいいの」
「説明します」
「説明じゃなくて、現実が見たい」
陽子は水鉄砲を持ち上げた。
ルナに向けたつもりはなかった。
少し横。
足元から離れた場所。
ただ、水が飛ぶとどうなるのか、反応を見るだけ。
本当に、軽い確認のつもりだった。
だが、健一は動いた。
速かった。
陽子が引き金に指をかけた瞬間、健一がルナの前に入った。
ほとんど反射だった。
トライアスロンのスタートで前に出る時より速く、雨の日にルナを抱えた時より迷いがない。
水が飛んだ。
細い水流が、健一の胸に当たった。
ルナには届かなかった。
陽子は固まった。
健一のTシャツに、小さな濡れ跡ができている。
それだけだった。
だが、ルナの顔から血の気が引いた。
「健一!」
ルナが叫んだ。
その声は、公園の中をまっすぐ切った。
健一は振り返る。
「大丈夫です。俺は濡れても戻りません」
「でも」
「大丈夫」
ルナは健一の胸元を見ている。
濡れた布。
そこに水がある。
それだけで、彼女の呼吸が浅くなっている。
陽子は、水鉄砲を持ったまま動けなかった。
「……ごめん」
声が出た。
小さすぎた。
健一が陽子を見る。
その顔に、怒りがあった。
陽子は初めて、健一に本気で怒られたと思った。
「瀬戸さん」
健一の声は低かった。
「今のは、駄目です」
「ごめん」
「軽い確認のつもりでも、駄目です」
「分かってる」
「分かっていたなら、やらないでください」
正論だった。
だから痛かった。
陽子は水鉄砲を地面に置いた。
置いたというより、落とした。
「本当に、ごめん」
ルナは震えていた。
健一の背中に隠れるように、彼のシャツの裾を握っている。
顔色が悪い。
足元を見ると、靴下の上、足首のあたりに青銀色の光がにじんでいた。
水は当たっていない。
それでも、反応している。
恐怖だけで、変わりかけている。
陽子は息をのんだ。
「ルナさん、足」
健一が即座に屈んだ。
ルナの足首を確認する。
鱗のような光が、肌の下で揺れていた。
「濡れていないのに」
陽子が呟く。
健一はリュックからタオルを取り出し、ルナの足元にかけた。
水を拭くためではない。
隠すためだ。
「恐怖でも引っ張られるんです」
健一は言った。
その声には、まだ怒りが残っていた。
「水そのものだけじゃない。海を思い出すだけで、戻りかけることがある」
陽子は何も言えなかった。
これが、現実。
見たかった現実。
そして、見たいなどと言うべきではなかった現実。
ルナは健一の腕を掴んだ。
「健一、濡れました」
「俺は大丈夫です」
「でも、私のせいで」
「違います」
健一はすぐに言った。
「あなたのせいではありません」
その言葉に、陽子はさらに傷ついた。
そうだ。
ルナのせいではない。
自分のせいだ。
ルナは小さく首を横に振る。
「私が水に弱いから、健一が濡れます」
「ルナさん」
「私が怖がるから、陽子も困ります」
「違います」
陽子は思わず言った。
ルナがこちらを見る。
陽子は一歩近づきかけて、止まった。
今は、急に近づくべきではない。
「違う。今のは私が悪い。完全に私が悪い」
声が震えた。
「確認したかった。信じたいのに信じきれなくて、でも置いていかれるのも嫌で、馬鹿なことをした」
陽子は、ルナを見る。
「ごめん。ルナさんを怖がらせた」
ルナは、健一の後ろから陽子を見ていた。
怖がっている。
でも、拒絶はしていない。
「陽子は、私を知りたかったですか」
「うん」
「私は、陽子に知ってほしかったです。でも、水は怖いです」
「うん。分かった。もうしない」
陽子はしゃがみ、水鉄砲を拾った。
今度は持ち手ではなく、先端を下にして、完全に水を抜いた。
地面の隅に水が落ちる。
ルナから遠い場所だった。
さらに、空の水鉄砲をゴミ箱横の忘れ物置き場に戻した。
「もう、持たない」
陽子は言った。
健一は黙って見ていた。
その沈黙が痛い。
けれど、仕方がない。
*
公園から移動することになった。
健一はルナをすぐ部屋へ戻そうとしたが、ルナが首を横に振った。
「少し、ベンチに座りたいです」
「でも」
「健一、私は逃げたくありません」
健一は何か言いかけて、やめた。
公園の水飲み場から一番遠いベンチ。
地面は乾いている。
健一が確認し、タオルを敷いた。
ルナはそこに座った。
健一は隣に座る。
陽子は少し離れて立っていたが、ルナが小さく言った。
「陽子も、座ってください」
陽子は迷った。
「いいの?」
「はい」
陽子は、少し距離を空けて座った。
沈黙。
子どもはいない。
公園の木が風で揺れている。
水飲み場からは、もう音はしない。
健一のTシャツの濡れた跡は、少しずつ乾き始めていた。
ルナはそれを見つめている。
「健一」
「はい」
「私は、濡れていないのに戻りかけました」
「はい」
「怖かったから」
「そうだと思います」
「では、満月の時も、怖いだけで泡になりますか」
健一の顔が強張った。
陽子は、初めてその言葉を正面から聞いた気がした。
泡になる。
冗談ではない。
二人にとって、本当の期限だ。
「そうならないようにします」
健一は言った。
「でも、今日の私は、水が来る前に戻りかけました」
「今日のことは、対策できます」
「対策」
「恐怖で引っ張られるなら、怖くなった時に戻れる場所を作る。陸にいる理由を確認する。手を握る。声をかける。必要なら、抱きしめる」
最後の言葉で、陽子は健一を見た。
ルナも見た。
健一は少し気まずそうに咳払いした。
「マリーンが言っていました。泡になりかけた時は、手だけが間に合うことがある、と」
「魔女が?」
陽子が聞く。
健一は陽子を見た。
今度は逃げなかった。
「はい。マダム・マリーンという、海の魔女です」
「海の魔女」
「中古ビデオショップの店主でもあります」
「情報が渋滞してる」
「俺もそう思います」
陽子は額に手を当てた。
現実が、完全に壊れ始めている。
だが、今さら疑う気にはなれなかった。
ルナの足首の光を見た。
水に向けられただけで震える姿を見た。
健一が反射的に守るところを見た。
これは本当だ。
信じるしかない。
「満月まで、あと何日?」
陽子が聞いた。
「十九日です」
健一が答える。
すぐに出た。
数えているのだろう。
陽子は息を吐いた。
「十九日で、ルナさんが自分の言葉で恋を歌って、佐藤さんが受け取る」
「そうです」
「受け取るって?」
「俺もまだ完全には分かっていません」
「そこ一番大事じゃない?」
「そうです」
「契約書、雑すぎない?」
「第十四話のタイトルみたいなことを言わないでください」
「何それ」
「いえ、何でもありません」
健一は咳払いした。
ルナが少しだけ笑った。
陽子も、つられて少し笑った。
笑える空気ではない。
だが、笑わないと立っていられない時もある。
「私にできることは?」
陽子は聞いた。
健一は少し驚いた顔をした。
「手伝ってくれるんですか」
「さっき水鉄砲向けた人間が言うのも最低だけど、手伝わせて」
陽子はルナを見る。
「怖がらせた分、ちゃんと返したい」
ルナは少し黙った。
それから、小さくうなずいた。
「陽子に、いてほしいです」
その一言で、陽子の胸が詰まった。
「ありがとう」
「でも、水鉄砲は、もう嫌です」
「絶対しない」
「水鉄砲は、人魚姫に撃ってはいけません」
「うん。標語にする」
ルナは真面目にうなずいた。
健一がノートを取り出した。
陽子は驚いた。
「今?」
「必要なので」
「佐藤さん、ほんとそういうところ」
健一はノートに書いた。
【新規判明事項】
・水そのものでなく、恐怖でも変化が進む
・水鉄砲、霧吹き、噴水、打ち水等は厳禁
・第三者が水リスクを理解している必要あり
・陽子さん協力者化
・ルナが怖がった時の戻り方を練習する
陽子は「協力者化」の文字を見て、少し苦笑した。
「私、化け物みたい」
「すみません。仕事のメモ癖です」
「でも、協力者でいいよ」
陽子はルナに向き直った。
「ルナさん。次から怖くなったら、佐藤さんだけじゃなくて私にも言って。水を避ける。人を止める。店員に説明する。そういうのは、たぶん私もできる」
「陽子も、私を守りますか」
「うん」
言ってから、陽子は少しだけ照れた。
「まあ、佐藤さんみたいにお姫様抱っこで爆走は無理だけど」
「陽子は強い手です」
「それは気に入ってるの?」
「はい」
ルナは、少しだけ笑った。
健一がそれを見て、明らかに安心した顔をした。
陽子は、その顔を見て思った。
健一は、もう完全にルナ側だ。
いや、ルナ側というより、ルナの隣にいる。
それを自分が寂しいと思うことと、二人を助けたいと思うことは、矛盾しないのかもしれない。
胸は痛い。
でも、動ける。
それなら今は、動く方を選ぶ。
*
その後、三人は健一の部屋へ移動した。
陽子にとっては、初めての健一の部屋だった。
驚くほど物が少ない。
ローラー台。
整然と並んだシューズ。
プロテイン。
補給食。
大きなモニター。
机。
ホワイトボード。
そして、そのホワイトボードには、とんでもない文字が並んでいた。
【満月まで十九日】
【自分の言葉で恋を歌う】
【健一が受け取る】
【責任だけでは足りない】
【泣いても大丈夫な方法を考える】
【恋の練習=裸】
【一緒に言葉を探す練習=服あり】
【契約書は雑】
陽子は、しばらく黙った。
「佐藤さん」
「はい」
「これ、他人に見られたらかなり終わるよ」
「分かっています」
「でも、分かりやすい」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
ルナはホワイトボードの前に立った。
「今日のことも、書きます」
健一がペンを渡す。
ルナはゆっくり書いた。
【水鉄砲=とても危険】
【怖いだけでも、海に引っ張られる】
【健一は、私の前に立った】
【陽子は、ごめんと言った】
【陽子も守ってくれる】
【水鉄砲は、人魚姫に撃ってはいけない】
陽子は最後の一行を見て、顔を覆った。
「ほんと、ごめん」
「もう怒っていません」
ルナは言った。
「でも、怖かったです」
「うん」
「だから、覚えていてください」
「覚える」
陽子はまっすぐ答えた。
「絶対、覚える」
健一は、ホワイトボードの隅に赤ペンで書き足した。
【陽子さんにも共有済み】
陽子はそれを見て言った。
「共有済みって書かれると、社内資料みたい」
「整理は大事です」
「恋と呪いと人魚姫を社内資料にしないで」
健一は少し考えた。
「では、チーム資料」
「もっと嫌」
ルナは小さく笑った。
その笑い声を聞いて、部屋の空気がようやく少し戻った。
陽子は椅子に座り、健一とルナを見た。
「で、歌っていうのは?」
健一が少し警戒した顔をする。
「まだ調整中です」
「危険なの?」
「歌声は美しいです。歌詞が危険です」
「そこは予想通り」
「陽子にも、いつか聞いてほしいです」
ルナが言った。
陽子は少し驚いた。
「私に?」
「はい。健一に向ける歌ですが、陽子にもいてほしいです」
健一がルナを見る。
ルナは続けた。
「陽子は、私が嘘をつきたくない人です」
陽子は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
今日、自分は失敗した。
最低に近い確認をした。
それでも、ルナは自分をそこから完全には追い出さない。
「分かった」
陽子は言った。
「聞く。怖くなったら止める。水が来たら止める。佐藤さんが逃げたら止める」
「俺もですか」
「一番逃げそうだから」
健一は否定しなかった。
ルナは笑った。
その日の終わり、陽子が帰る時、健一は玄関まで送った。
「瀬戸さん」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
「水鉄砲向けた相手に言う?」
「その後、戻ってきてくれたので」
陽子は少しだけ視線を逸らした。
「佐藤さん、ルナさんのこと、好きでしょ」
健一が固まった。
陽子は笑わなかった。
「答えなくていい。今は」
「……」
「でも、満月まで十九日なんでしょ。検討中は、あんまり長く使えないよ」
健一は、静かにうなずいた。
「分かっています」
「ならいい」
陽子はドアの外へ出る。
「あと、今度から危ないことがあったら、私にも言って。勝手に一人で抱えない」
「はい」
「保護者二人体制で」
「瀬戸さんまで保護者に?」
「嫌?」
「助かります」
陽子は少し笑った。
「なら、助ける」
ドアが閉まった。
健一がリビングへ戻ると、ルナがホワイトボードの前にいた。
一番下に、新しい一行が増えていた。
【保護者二人体制】
健一はしばらくそれを見た。
「それは、少し違う気がします」
「陽子が言いました」
「言いましたが」
「健一と陽子がいると、私は水が少し怖くありません」
健一は黙った。
それなら、消せなかった。
ルナは振り返る。
「健一」
「はい」
「今日は、健一が濡れました」
「少しだけです」
「私は、怖かったです」
「はい」
「でも、健一が前に立った時、陸に戻れました」
ルナは自分の足元を見る。
「抱きしめなくても、戻れました」
健一は、胸の奥を押された。
マリーンの言葉。
手だけが、間に合うことがある。
今日、健一は抱きしめてはいない。
ただ前に立った。
水を受けた。
それだけで、ルナは少し陸に戻った。
「では、次はもっと早く前に立ちます」
健一は言った。
ルナは首を横に振った。
「違います」
「違う?」
「次は、水が来ないようにします。健一が濡れなくていいように」
健一は言葉を失った。
ルナは、少し困ったように笑った。
「私も、健一を守りたいです」
その言葉は、裸ではなかった。
薄着でもない。
ちゃんと服を着て、まっすぐ立っていた。
健一は、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
窓の外は、もう暗くなっていた。
満月まで、十九日。
契約は雑で、魔女は面白がり、水鉄砲ですら危険で、陽子には秘密の一部が知られた。
それでも、今日、協力者が一人増えた。
失敗から始まった一日だった。
だが、終わり方まで失敗にする必要はない。
健一はホワイトボードの一番下に、赤ペンで一行書き足した。
【水は避ける。怖さは共有する】
ルナはそれを読んで、ゆっくりうなずいた。




