第15話 陽子、ルナを疑う
瀬戸陽子は、面倒見がいいと言われる。
本人としては、あまり認めたくない。
ただ、目の前で誰かが転びそうなら手を出す。
練習後に顔色の悪い人がいれば声をかける。
補給を忘れた初心者にはジェルを渡す。
そういうことをしているうちに、周りから勝手に「面倒見がいい」と分類されただけだ。
分類されるのは嫌いではない。
ただし、その分類で自分の感情まで整理されるのは困る。
今の陽子の中には、いくつかのものが混ざっていた。
ルナを放っておけない気持ち。
佐藤健一を心配する気持ち。
健一に対する、長く薄く残っていた好意。
そして、その健一の隣に当たり前みたいに立っているルナへの、少しの嫉妬。
どれも本物だった。
だから、厄介だった。
陽子は駅前の雑貨店で、ルナと待ち合わせていた。
今日は、健一抜きの買い物である。
もちろん、完全に健一抜きではなかった。
集合前、陽子のスマホには健一からメッセージが来ていた。
〈本日はよろしくお願いします。水濡れに注意してください〉
〈雨雲レーダーでは問題ありませんが、念のため折りたたみ傘とタオルを持たせています〉
〈冷たい飲み物の近くでは足元に注意してください〉
〈水たまり、噴水、店先の打ち水を避けてください〉
〈具合が悪そうならすぐ連絡してください〉
〈知らない人に声をかけられた場合も連絡を〉
陽子は画面を見つめた。
「保護者か」
口に出してから、少し苦笑した。
いや、保護者より細かい。
大会前の機材チェックリストに近い。
健一らしいと言えば健一らしいが、対象が人間一人となると、だいぶ異様だ。
それほどルナが危なっかしい、ということなのだろう。
あるいは。
それほど健一が、ルナを大事にしている。
その考えが浮かぶと、陽子の胸に少しだけ苦いものが広がった。
駅前の時計が十時を指す。
少し遅れて、ルナが現れた。
白いブラウスに、淡い青のスカート。
健一が選んだとは思えない。
おそらくルナ自身が選んだか、マリーンだか何だか知らない誰かの影響だろう。
青いヘアゴムで結んだ髪が、歩くたびに揺れている。
歩き方は、まだ少しぎこちない。
でも、前よりずっと自然になっていた。
「陽子」
ルナが手を振った。
「おはよう、ルナさん」
「おはよう、陽子。今日は、女子になります」
陽子は吹き出しそうになった。
「買い物ね。女子になる儀式ではないかな」
「違いますか」
「まあ、近いかもしれない」
ルナは嬉しそうにうなずいた。
その顔を見て、陽子は少しだけ力を抜いた。
可愛い。
やっぱり、可愛い。
腹が立つくらい、悪意がない。
「佐藤さんから、すごい量の注意事項が来たんだけど」
「健一は、心配性です」
「前はあそこまでじゃなかったよ」
「私が、水に弱いので」
ルナはそう言って、少しだけ視線を落とした。
水に弱い。
健一もそう言っていた。
雨が駄目。
水が駄目。
濡れると体調を崩す。
だが、陽子はもう、それを額面通りには受け取っていなかった。
雨の日、健一はルナをコートで包んで走った。
練習場で水の話になった時、健一ははっきり庇った。
ルナの足は「初心者」だという。
濡れることを、ただ嫌がるのではなく、怖がる。
何かある。
陽子はそう思っていた。
もちろん、問い詰めるつもりはない。
少なくとも、今は。
「じゃあ、水のないコースで行こうか」
「水のないコース」
「まず服を見る。次に靴。途中で休憩。カフェはホット系。噴水のある広場は通らない」
ルナは目を輝かせた。
「陽子も、健一みたいです」
「え、やだ」
「やですか」
「いや、嫌ではないけど、複雑」
陽子は笑って歩き出した。
ルナが隣に並ぶ。
健一の袖はない。
その代わり、ルナは自分のショルダーバッグの紐をぎゅっと握っていた。
その仕草を見て、陽子は思った。
この子は、本当に陸に慣れていない。
*
一軒目の服屋で、ルナは完全に固まった。
色とりどりの服。
鏡。
マネキン。
店員の笑顔。
音楽。
試着室のカーテン。
値札。
ハンガー。
ルナは、一つ一つを慎重に見ている。
「すごいです」
「服屋だからね」
「全部、体の服です」
「まあ、そう」
「こんなに種類が必要ですか」
「必要というより、選ぶのが楽しいんだよ」
「選ぶ」
「自分がどう見えたいか、決める感じ」
ルナは首を傾げた。
「どう見えたいか」
「可愛く見えたいとか、大人っぽく見えたいとか、動きやすくしたいとか」
「私は、どう見えますか」
陽子は、ルナを見た。
きれい。
浮世離れしている。
危なっかしい。
守られ慣れていないのに、誰かに見つけられるために来たみたい。
そんな本音を全部言うわけにもいかない。
「今は、ちょっとお姫様っぽい」
ルナは目を丸くした。
「姫」
「嫌?」
「私は、海では姫でした」
陽子は動きを止めた。
「海では?」
ルナも、言ってから気づいた顔をした。
沈黙。
ルナは少し考え、真面目に言い直した。
「海の近くでは、姫のような気持ちでした」
「なるほど」
苦しい。
かなり苦しい。
だが、陽子は流した。
今日の自分は、思ったより大人だ。
「じゃあ、今日は少し街に馴染む服にしよっか」
「街に馴染む」
「そう。佐藤さんが選ぶと、たぶん無難すぎるでしょ」
「はい。健一の服は、安全です」
「安全な服か。悪くないけどね」
陽子は棚から、柔らかい色のカーディガンと、動きやすそうなワンピースを選んだ。
ルナに当ててみる。
似合う。
腹が立つくらい似合う。
店員が近づいてきた。
「ご試着されますか?」
ルナは陽子を見る。
陽子は頷いた。
「着てみよう」
「一人でですか」
「私、外で待ってるから。分からなかったら声かけて」
「服は、前後があります」
「あるね」
「上下もあります」
「あるね」
「防具と違います」
「どこでその理解になったの?」
ルナは真面目な顔で言った。
「健一が、説明しました」
「佐藤さん、何教えてんの」
試着室に入ったルナは、五分後に小さく声を出した。
「陽子」
「どうした?」
「これは、首が二つあります」
陽子はカーテンの外で止まった。
「たぶん、片方は袖」
「袖」
「腕を通すところ」
「分かりました」
さらに三分後。
「陽子」
「今度は?」
「背中が前に来ています」
「自分で気づいたなら偉い」
結局、ルナが着替えを終えるまでに十二分かかった。
カーテンが開く。
陽子は、少し言葉を失った。
似合っていた。
淡い青のワンピースに、白いカーディガン。
海っぽさは残っている。
でも、街の中にいても浮きすぎない。
髪を青いヘアゴムでまとめた姿は、どこか涼しげで、清潔で、そしてやはり普通ではなかった。
普通に近づいているのに、普通から少しだけ光が漏れている。
「……似合う」
陽子は正直に言った。
ルナの顔が明るくなる。
「本当ですか」
「本当。佐藤さんが見たら固まると思う」
「健一が」
ルナの頬が、少し赤くなった。
陽子はそれを見た。
見てしまった。
ああ、と思った。
これは、好意だ。
ルナは健一のことを、かなりはっきり好きだ。
たぶん、本人の中ではまだ整理しきれていない。
恋、嫉妬、一緒にいたい、横がいい。
そういう言葉を一つずつ覚えている途中なのだろう。
でも、向いている先は明らかだった。
健一だ。
陽子は、胸の苦さを飲み込んだ。
「買っちゃいなよ」
「でも、健一のお金です」
「え?」
「私はまだ、お金を持っていません」
陽子はまばたきした。
「佐藤さんが全部出してるの?」
「はい。あとで返したいです」
「働いてないもんね」
「働くとは、陸の民が時間を差し出して、紙や数字をもらうことですか」
「佐藤さん、説明下手すぎない?」
ルナは首を傾げた。
「でも、健一は毎日、私のために紙と数字を使います」
「それが嬉しい?」
「嬉しいです。でも、少し怖いです」
「怖い?」
「私が、健一の荷物になるのは嫌です」
陽子は黙った。
ルナは鏡の中の自分を見ている。
「でも、健一が選ばない色を、陽子が選んでくれました。これを着たら、健一は見ますか」
その言い方に、陽子は少し笑った。
「見るよ。絶対見る」
「では、買います」
迷いが消えた。
理由がまっすぐすぎる。
健一に見てほしい。
それだけ。
陽子は、少しだけ眩しくなった。
*
昼前、二人はカフェに入った。
健一から指定された店だった。
正確には、「水回りが少なく、席間が広く、ホットドリンクが安定しており、床が滑りにくい店」として健一がリストアップしたうちの一つだ。
陽子は、そのメッセージを見た時に軽く引いた。
だが実際、ルナを連れて入ると、その慎重さの意味が少し分かった。
ルナは、アイスドリンクの載ったトレーを持つ客が通るたび、身体を小さく強張らせる。
水滴のついたグラスに視線が行く。
店員がテーブルを拭く濡れ布巾にも反応する。
ただの苦手、ではない。
怖いのだ。
陽子はルナを壁側の席に座らせ、自分が通路側に座った。
無意識に、健一と同じことをしている気がして少し悔しい。
「ホットミルクでいい?」
「はい。白くて温かいもの」
「砂糖は?」
「少し」
「了解」
陽子が注文を済ませて戻ると、ルナは窓の外を見ていた。
店の向こう側に、街路樹が並んでいる。
その先に、細く海へ向かう道が見えた。
遠くに水面は見えない。
だが、方向としてはお台場の海に繋がる。
「海、好き?」
陽子は聞いた。
ルナの肩が少し動いた。
「好きです」
「でも、怖い?」
「はい」
「どうして?」
ルナはすぐには答えなかった。
ホットミルクが運ばれてくる。
ルナは両手でカップを包んだ。
温かさに、少し落ち着いたようだった。
「海は、私の場所でした」
ルナは言った。
「でも今は、戻るのが怖いです」
「戻る?」
「戻ったら、健一の部屋に帰れなくなるかもしれません」
陽子は、カップを持つ手を止めた。
この子は、時々おかしなことを言う。
比喩のようで、比喩ではないようなことを。
「ルナさんって、本当にどこから来たの?」
陽子は、できるだけ軽く聞いた。
ルナは陽子を見た。
深い青の目。
何かを隠している目ではない。
むしろ、隠し方をまだ知らない目だった。
「海です」
ルナは言った。
陽子は笑おうとして、笑えなかった。
「出身地って意味で?」
「はい」
「海沿いの町?」
「海の中です」
沈黙。
カフェの中では、食器の音がしている。
誰かが笑っている。
店員が注文を呼んでいる。
普通の日常の音。
その真ん中で、ルナの言葉だけが少し浮いていた。
陽子は、ゆっくり息を吐いた。
「それ、比喩?」
ルナは少し困った顔をした。
「健一は、外では言わない方がいいと言いました」
「でしょうね」
「でも、陽子は強い手の人です。嘘は、あまり言いたくありません」
陽子はカップを置いた。
鼓動が少し速くなっている。
この子は何を言っているのか。
冗談か。
妄想か。
何らかの事情で、そういう設定を信じているのか。
あるいは。
あるいは、健一が隠しているのは、もっと馬鹿げたことなのか。
「佐藤さんは、それを知ってるの?」
ルナはうなずいた。
「健一は、私が海から来たことを知っています」
「それで、一緒に住んでる?」
「はい」
「どうして?」
「私が、健一に会いたかったからです」
即答だった。
陽子は、胸を刺された。
ルナは続ける。
「健一は、海で沈んでいました。私は助けました。そのあと、健一にもう一度会いたくなりました。だから、陸へ来ました」
「ちょっと待って」
陽子は手を上げた。
「お台場の大会で、佐藤さんを助けたってこと?」
「はい」
「救助スタッフじゃなくて?」
「私は、スタッフではありません」
「でしょうね」
陽子は額に手を当てた。
整理が追いつかない。
お台場の大会で健一が溺れた。
ルナが助けた。
ルナは海から来た。
水が怖い。
足が初心者。
声や言葉が変。
健一はそれを隠している。
普通に考えれば、ありえない。
だが、これまで見てきたルナの反応は、普通では説明しにくかった。
「ルナさん」
「はい」
「水に濡れると、どうなるの?」
ルナはカップを握る手に力を込めた。
答えない。
それが答えだった。
陽子は声をやわらげる。
「ごめん。嫌なら言わなくていい」
「健一に、怒られます」
「佐藤さんに?」
「陽子に負担をかけるな、と言われると思います」
「負担?」
「私のことを知ると、陽子も困ります」
陽子は少し笑った。
強がり半分、本気半分だった。
「もう十分困ってる」
ルナは顔を上げた。
「陽子も、困っていますか」
「うん。だいぶ」
「嫌ですか」
その質問は、あまりにもまっすぐだった。
陽子は、少しだけ返事に迷った。
嫌か。
嫌ではない。
面倒だ。
怖い。
信じきれない。
でも、嫌ではない。
佐藤健一と同じ答えになることが、少し悔しかった。
「嫌ではないよ」
ルナの表情が、少しだけ緩んだ。
「健一と同じです」
「言われると思った」
陽子は苦笑した。
その時、隣の席の子どもが、母親の持っていた水の入ったグラスに手を伸ばした。
グラスが傾く。
陽子は反射的に手を出した。
倒れる寸前で、グラスを支える。
水はこぼれなかった。
母親が慌てて頭を下げる。
「すみません!」
「いえ、大丈夫です」
陽子は笑って返した。
そして、ルナを見た。
ルナは真っ白な顔をしていた。
両手でホットミルクのカップを握ったまま、動けなくなっている。
視線は、グラスに固定されている。
息が浅い。
普通の反応ではなかった。
水が少し倒れかけただけで、この怯え方。
「ルナさん」
陽子は静かに呼んだ。
ルナの目が揺れる。
「大丈夫。こぼれてない」
「……はい」
「足、平気?」
ルナは、はっとしたように自分の足元を見た。
陽子も見た。
スカートの裾の下、足首のあたり。
白い靴下の上に、ほんの一瞬、青銀色の光が見えた。
見間違いかもしれない。
だが、陽子はスポーツで鍛えた目をしている。
フォームの崩れや、筋肉の動きや、足首の角度を見逃さない目だ。
今の光は、見間違いではない。
「……今の」
陽子が言いかけると、ルナが小さく首を横に振った。
その顔には、怯えと懇願があった。
言わないで。
そう言っていた。
陽子は口を閉じた。
代わりに、自分のトートバッグからタオルを取り出した。
健一に言われて持ってきたものだ。
それをルナの膝にそっと置く。
「念のため」
ルナはタオルを見た。
それから陽子を見た。
「ありがとう、陽子」
「どういたしまして」
陽子はカップを持ち、ホットコーヒーを飲んだ。
苦かった。
かなり。
*
買い物の後半、ルナは少し口数が減った。
陽子も無理に聞かなかった。
靴屋で歩きやすいフラットシューズを見る。
ルナはサンダルより安定する靴に驚き、何度も足踏みした。
店員には「最近、ヒールばかりだったので」と陽子が適当に説明した。
自分で言って、かなり雑な説明だと思った。
だが、店員は笑顔で頷いた。
世の中は、雑な説明で通ることがある。
健一にも教えてやりたい。
アクセサリー店では、海の色に似た小さなガラス玉のネックレスを見つけた。
ルナはそれを手に取ったが、しばらくして棚に戻した。
「買わないの?」
「海に似ています。でも、今は健一の部屋のものがほしいです」
「佐藤さんの部屋のもの?」
「小さいカップとか、髪をとめるものとか、書くものとか。私が、そこにいるためのものです」
陽子は、返事が少し遅れた。
そこにいるためのもの。
ルナは健一の部屋に「滞在」しているのではない。
そこを、自分の居場所にしようとしている。
「そっか」
陽子は棚から、小さな青いマグカップを手に取った。
「じゃあ、これは?」
ルナが目を輝かせる。
「私の、白い水の器ですか」
「ホットミルク用ね」
「買います」
「即決」
「健一の部屋で、これを使います」
その言葉には、迷いがなかった。
陽子は、自分の胸の奥にあるものをもう一度確認した。
嫉妬はある。
健一への好意も、まだ消えてはいない。
でも、それだけではもう済まない。
この子を危険なものとして遠ざけることもできない。
健一が変な方向に進んだと笑って終わらせることもできない。
ルナには、何か秘密がある。
それはかなり大きい。
人間の常識から外れている可能性すらある。
そして健一は、それを一人で抱えようとしている。
陽子は、マグカップをレジに持っていくルナの背中を見た。
危なっかしい背中だった。
守りたくなる背中でもあった。
*
夕方、陽子はルナを健一のマンションの近くまで送った。
健一からは「駅までで大丈夫です」と言われていたが、陽子は無視した。
水が危険なら、最後まで送るべきだ。
健一が文句を言うなら、検討中は禁止で返せばいい。
マンションの前で、健一が待っていた。
黒いTシャツにジャージ。
いかにも家から急いで出てきた格好だった。
ルナを見つけた瞬間、表情が明らかに緩む。
陽子は、それを見た。
隠せていない。
健一は自分で思っているより、ずっと分かりやすくなっている。
「瀬戸さん、すみません。送っていただいて」
「いいよ。楽しかったし」
「問題はありませんでしたか」
「問題の定義による」
健一の顔が固まる。
「何かありましたか」
陽子はルナを見た。
ルナも陽子を見ている。
言わないで。
でも、隠しすぎないで。
そんな目だった。
陽子は短く言った。
「カフェで水が倒れそうになった」
健一の顔色が変わった。
「かかりましたか」
「かかってない。私が止めた」
健一は明らかに息を吐いた。
「ありがとうございます」
「でも、ルナさん、かなり怖がってた」
「……そうですか」
「佐藤さん」
陽子は一歩近づいた。
「ちゃんと説明して」
健一は答えなかった。
陽子は続ける。
「全部とは言わない。今すぐじゃなくてもいい。でも、私は今日、見たよ」
健一の目が少し動いた。
「何を」
「足首」
沈黙。
ルナが、小さく息をのむ。
健一はすぐにルナを見る。
責める顔ではなかった。
心配する顔だった。
その顔を見て、陽子の胸がまた少し苦くなる。
「瀬戸さん」
健一は静かに言った。
「それは」
「言わなくていい。ここでは」
陽子は遮った。
「でも、私は馬鹿じゃない。ルナさんが普通じゃないことくらい、もう分かる」
ルナは俯いた。
「陽子、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「私は、隠しました」
「隠す理由があるんでしょ」
陽子は、できるだけ優しく言った。
「でも、危ないなら、知ってる人間は多い方がいい。少なくとも、佐藤さん一人よりは」
健一は、少しだけ目を伏せた。
図星だったのだろう。
「俺も、そう思い始めています」
「遅い」
「すみません」
「明日でもいい。ちゃんと話して」
健一はルナを見た。
ルナは不安そうに、でも小さくうなずいた。
「陽子には、話したいです」
陽子は少し驚いた。
「私に?」
「はい。陽子は、私の水を止めてくれました」
「グラスを支えただけ」
「でも、止めてくれました」
ルナは、買ったばかりの青いマグカップの袋を胸に抱いた。
「それに、私の服を選んでくれました」
「それは、まあ」
「私は、陽子を困らせたくありません。でも、陽子に嘘をつくのも、苦しいです」
陽子は、息を吐いた。
完全に負ける。
この子は、こうやって人の正面に立つ。
不器用で、危なっかしくて、隠すのが下手で、でも誠実だ。
健一が放っておけないのも分かる。
分かってしまうのが、少し悔しい。
「分かった」
陽子は言った。
「じゃあ、明日。ちゃんと聞く」
「はい」
「佐藤さんも、逃げない」
「逃げません」
「検討中も禁止」
「分かっています」
ルナが少し笑った。
健一も、ほんの少し笑った。
その二人の間にある空気を見て、陽子は思った。
これは、もうただの保護ではない。
健一の好意も、表に出かけている。
本人がまだ言葉にしていないだけだ。
陽子は、少しだけ痛む胸を無視して、ルナに手を振った。
「また明日」
「また明日、陽子」
ルナは嬉しそうに返した。
*
帰り道、陽子はスマホを取り出した。
健一からメッセージが来ていた。
〈今日はありがとうございました。明日、説明します〉
短い。
でも、健一にしては踏み込んだメッセージだった。
陽子は少し考えてから返信した。
〈分かった。逃げたら怒る〉
すぐに既読がついた。
返事は少し遅れて来た。
〈逃げません〉
陽子は画面を見て、少し笑った。
「ほんとかな」
その声は、自分でも少し優しかった。
ルナは普通ではない。
健一は何かを隠している。
水に触れた足首は、確かに青銀色に光った。
明日、たぶん陽子の常識は少し壊れる。
それでも、行くつもりだった。
自分が健一を好きだったから。
ルナを放っておけないから。
そして、二人が困っているのに「知らない」で済ませるほど、陽子は器用ではないから。
駅へ向かう途中、空に薄い雲が出ていた。
雨は降らなかった。
それでも陽子は、バッグの中のタオルを一度だけ確かめた。
明日も、持っていこうと思った。




