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第14話 愛されなければ泡になるらしい。契約書は雑だった

 佐藤健一は、契約書を読みたい人間だった。

 契約には条件がある。

 期限がある。

 義務がある。

 違反時の扱いがある。

 曖昧な言葉は定義され、責任の範囲は明文化されるべきだ。

 少なくとも、人間社会ではそうだ。

 だから、海の魔女から聞かされた契約内容は、健一の常識を激しく踏み抜いていた。

 次の満月までに、ルナが自分の言葉で恋を歌う。

 健一がその歌を受け取る。

 受け取れなければ、ルナは泡になる。

 雑だった。

 あまりにも雑だった。

 健一は、自宅のテーブルにノートパソコンを開き、月齢カレンダーを表示していた。

 画面には、次の満月の日付が出ている。

 あと二十日。

 彼はその数字をノートに書いた。

【期限:満月まで残り二十日】

 次に、前話で聞いた条件を整理する。

【条件】

一、ルナが自分の言葉で恋を歌う

二、健一がその歌を受け取る

三、できなければ泡になる

 書いた瞬間、健一はペンを置いた。

「駄目だ」

 ルナは向かいの椅子に座っていた。

 マダム・マリーンから渡された古いDVDを膝の上に置いている。

 恋愛映画らしいが、まだ見ていない。

 健一が安全確認をすると言ったまま、契約条件の整理に入ってしまったからだ。

「何が駄目ですか」

「全部です」

「全部」

「まず、“自分の言葉”の定義が曖昧です。どこまでが自分の言葉で、どこからがHDD由来なのか不明です」

「健一の大切な箱の言葉は、駄目ですか」

「完全に駄目とは言い切れませんが、危険度が高い」

「では、私が覚えた言葉は、私のものではありませんか」

 健一は答えに詰まった。

 ルナは責めているわけではない。

 本当に分からない顔をしている。

「覚えた言葉は、あなたのものです。ただ、使い方が問題です」

「服の問題」

「そうです」

 健一はノートに書き足した。

【自分の言葉=覚えた言葉を、自分の感情で使う?】

 疑問符がつく。

 次。

「“恋”の定義も曖昧です」

「恋」

「はい。好意なのか、愛情なのか、独占欲なのか、責任感なのか。どの程度で成立するのか不明です」

「嫉妬は、恋ですか」

「場合によります」

「一緒にいたいは?」

「かなり近いです」

「健一の横がいいは?」

「薄着ですが、近いです」

「好きな程度に保護者は?」

「服を着せ直しましょう」

 健一はノートに書く。

【恋=一緒にいたい、いなくなるのが嫌、相手を守りたい、など?】

 また疑問符。

 次。

「最大の問題は、“受け取る”です」

「歌を聞くことではありませんか」

「マリーンは、聴くことではないと言っていました」

「では、受け取るとは?」

「そこが不明です」

 健一はペンを握ったまま、眉を寄せた。

 聞く。

 理解する。

 認める。

 応える。

 愛する。

 どれだ。

 もし最後なら、かなり重い。

 いや、条件全体からして、おそらく最後に近い。

 だが、愛しているかどうかを、どう判定する。

 魔女が判定するのか。

 海が判定するのか。

 契約書が自動的に光るのか。

 ルナの足が安定するのか。

 泡が出なくなるのか。

 何も分からない。

「マリーンに確認します」

 健一は立ち上がった。

 ルナも立ち上がる。

「私も行きます」

「いえ、今日は俺だけで」

「私の契約です」

「そうですが」

「健一だけで行くと、マリーンにからかわれます」

 健一は反論できなかった。

 前回も十分からかわれた。

 今回は一人で行けば、さらに深く刺される可能性が高い。

「分かりました。行きましょう」

「はい」

 ルナはDVDをテーブルに置いた。

 そのジャケットの男女が、夕焼けの中で見つめ合っている。

 健一はそれをちらりと見た。

 恋愛映画の方が、契約書よりまだ具体的に見えた。

     *

 マリーン映像館は、今日も商店街の外れに沈んでいた。

 曇っているわけではない。

 だが、その店の前だけ光が薄い。

 そして、前より目立っていた。

 ガラス戸の貼り紙が増えている。

【恋愛映画フェア】

【あなたの初恋、巻き戻せます】

【契約相談、返品不可】

【泡になる前にご来店ください】

 ここまでは昨日と同じ方向性だった。

 問題は、店先に新しく立てられた手書き看板だった。

【愛されなければ泡になりますフェア開催中】

 健一は足を止めた。

 ルナも止まった。

 通行人の中年女性が、看板を見て首を傾げた。

「泡になります……?」

 健一は即座に看板の前に立った。

「ルナさん、見ないでください」

「もう見ました」

「見なかったことに」

「健一、私はフェアですか」

「違います」

「愛されなければ泡になりますフェア」

「読み上げない」

「返品不可ですか」

「絶対に違います」

 通行人の女性が、さらにこちらを見た。

 健一は無理やり笑顔を作った。

「映画のキャンペーンです」

「映画?」

「そうです。古い恋愛映画の」

「変わった宣伝ね」

「店主がかなり変わっています」

「聞こえてるわよ」

 店の中から、マダム・マリーンの声がした。

 健一はガラス戸の向こうを睨んだ。

 マリーンはカウンターの奥で、優雅に手を振っている。

 ルナは看板をじっと見つめた。

「健一」

「はい」

「泡になります、は事実ですか」

「今は店の前です」

「外では言わない?」

「はい」

「でも、私は怖いです」

 健一は、返す言葉を一瞬失った。

 ルナの声は静かだった。

 騒ぐでも、泣くでもない。

 ただ、怖いと認めていた。

 健一は看板を掴んだ。

「撤去します」

「やめなさい。備品よ」

 マリーンが店の中から言った。

「備品ならもっと悪いです」

「集客になるの」

「人魚の生命危機を販促に使わないでください」

「人間だって恋愛映画で泣きながらポップコーン売ってるじゃない」

「比較が雑です」

 ルナは小さく言った。

「契約も雑です」

「その通りです」

 健一は看板を店の壁側へ裏返した。

 裏面には、また別の文字が書いてあった。

【片想い・呪い・延滞料金 ご相談ください】

「裏も駄目だった」

「健一」

「見ない」

「延滞料金とは」

「契約に関係しないことを祈ります」

     *

 店へ入る前に、さらに事故が起きた。

 店先にワゴンが出ていた。

 古いDVDが並んでいる。

 どれも恋愛映画らしい。

 タイトルはやけに濃い。

【君を濡らした夜に】

【満月のキスは返品不可】

【涙の海で抱きしめて】

【泡になるほど愛してる】

【隣の保護者は恋を知らない】

 最後だけ、明らかに健一へ向いていた。

 健一はDVDを手に取った。

「これは何ですか」

 マリーンが店内から答える。

「恋愛映画フェアよ」

「嫌がらせでは」

「販促よ」

「このタイトル、俺たちを見てから作っていませんか」

「失礼ね。昨日の夜に作っただけよ」

「作ってるじゃないですか」

 ルナが【泡になるほど愛してる】を手に取った。

「健一」

「置いてください」

「これは教材ですか」

「危険教材です」

「泡になるほど愛していると、泡になりますか」

「なりません。いや、あなたの場合は分かりませんが、少なくともこの映画は見ません」

「では、これは?」

 ルナは【隣の保護者は恋を知らない】を持ち上げた。

「置いてください」

「保護者が恋を知らない話です」

「偶然の一致です」

 マリーンが笑っている。

 健一はワゴンごと押し戻したい衝動をこらえた。

 通りかかった高校生らしき二人組が、タイトルを見て笑った。

「なにこれ、やば」

「泡になるほど愛してる、逆に見たい」

 健一はルナを自分の背で隠した。

「店内に入りましょう」

「健一」

「はい」

「人間は、怖いことを笑いますか」

 健一は答えに詰まった。

 通行人は、ルナの事情を知らない。

 知らないから笑える。

 それは悪意とは限らない。

 だが、ルナには刺さる。

「知らないことは、笑いに見えることがあります」

「知ると、怖いですか」

「怖いです」

「では、健一は怖いですか」

「はい」

「でも、笑いますか」

「たぶん、時々」

「なぜ」

「笑わないと、進みにくい時があるので」

 ルナはその言葉を少し考えた。

「では、私は今、少し笑います」

「無理しなくていいです」

「無理ではありません」

 ルナは、ほんの少しだけ笑った。

「契約書は雑です」

 健一は、短く息を吐いた。

「はい。かなり」

 その小さな笑いを抱えて、二人はマリーン映像館へ入った。

     *

 からん、と鈴が鳴る。

 店内には、昨日と同じ潮の匂いが漂っていた。

 古い映像メディアの匂いと混じって、奇妙に湿っている。

 棚の奥では、ブラウン管テレビに青いノイズが流れていた。

 カウンターの向こうで、マダム・マリーンが雑誌を読んでいた。

 表紙には大きく「懐かしの恋愛映画大全」とある。

「あら、早かったわね」

「確認したいことがあります」

「でしょうね。顔に“契約書を読ませろ”って書いてあるもの」

「その前に、店先の看板を撤去してください」

「嫌よ」

「なぜですか」

「作ったから」

「理由が幼稚です」

「愛されなければ泡になりますフェア、悪くないでしょう」

「最悪です」

 ルナが小さく手を上げた。

「私は、フェアではありません」

 マリーンは目を細めた。

「もちろん。あなたは目玉商品よ」

「さらに悪化しました」

 健一が即座に言った。

 ルナは少し考えた。

「目玉は、怖いです」

「そういう問題ではないです」

 マリーンは楽しそうに笑った。

「いいじゃない。少しは外で恥をかいた方が、契約の重さが分かるわ」

「恥で理解したくありません」

「恋なんて、だいたい恥で理解するものよ」

「名言風に雑なことを言わないでください」

 健一はノートを取り出した。

「契約書を読ませてください」

「嫌よ」

 即答だった。

 健一は止まった。

「なぜですか」

「読んでも分からないから」

「それでも読ませてください」

「海の契約書よ。人間の目で読むと、だいたい酔うわ」

「酔う?」

「三半規管と倫理観に来るの」

「後半が嫌ですね」

 マリーンは雑誌を閉じた。

「それで、何を聞きたいの?」

 健一はノートを開いた。

 事前に整理した質問リストがある。

 こういう時、紙は強い。

 相手が海の魔女でも、論点を見失わないためには有効だ。

 マリーンはそれを見て、楽しそうに笑った。

「持ってきたの? 質問票」

「はい」

「本当に面白い男ね」

「面白がらなくていいので、答えてください」

「いいわ。できる範囲で」

「まず、期限は次の満月。あと二十日で合っていますか」

「だいたい合っているわ」

「だいたい?」

「月は雲に隠れることもあるし、海から見える月と陸から見える月は少し違うもの」

「天文学的にですか、呪術的にですか」

「恋愛的に」

「その分類をやめてください」

 健一はノートに書く。

【期限:満月。ただし魔女曰く“だいたい”】

 嫌な文字列だった。

「次。“自分の言葉で恋を歌う”とは何ですか」

「そのままよ」

「そのままでは困るから聞いています」

「彼女が、借り物ではない言葉で、自分の気持ちを歌うこと」

「借り物ではない言葉の判定は?」

「彼女の声が濁らなければ」

「濁る?」

 マリーンはルナを見た。

「歌ってみれば分かるわ。あなたの中にない言葉を飾りだけで使うと、声が少し沈む。海はそういう嘘に敏感なの」

 ルナは喉に手を当てた。

「では、健一の大切な箱の言葉は、すべて駄目ですか」

「いいえ。あなたが本当にそう思うなら、使えるわ」

 健一は嫌な予感がした。

「つまり、フロントディレイラーも?」

「彼女が本気なら」

「やめてください」

「私じゃなくて彼女に言いなさい」

 ルナは真剣な顔で言う。

「健一、私はまだフロントディレイラーの気持ちを理解しきれていません」

「理解しなくていいです」

「でも、健一の青春です」

「青春の処分場です」

 マリーンが笑った。

「ほら、十分いい素材じゃない。恥ずかしいものほど、恋にはよく燃える」

「燃やす予定はありません」

「もう焦げ始めているわよ」

 健一はノートを閉じかけたが、耐えた。

 まだ本題が残っている。

「次。“受け取る”とは何ですか」

 店内の空気が、少しだけ変わった。

 マリーンの笑みは消えなかった。

 だが、目の奥が冷えた。

「それを人に聞いているうちは、受け取れないわね」

「禅問答をしに来たわけではありません」

「恋の契約は、だいたい禅問答よ」

「雑すぎます」

「あなたは、何でも定義したがる」

「命がかかっているので」

「そうね」

 マリーンは、少しだけ真面目な声になった。

「受け取る、というのは、彼女の歌を“自分に向けられたもの”として認めることよ」

 健一は黙った。

「ただ聴くだけでは駄目。感動したふりでも駄目。責任感で頷くのも駄目。彼女があなたに向けて歌う恋を、あなたが自分のこととして受ける。それだけ」

「それだけ、と言われても」

「難しい?」

「はい」

「だから契約になるのよ。簡単なら呪いにならない」

 健一はノートに書こうとして、手が止まった。

【受け取る=自分に向けられた恋として認める】

 文字にすると、さらに重い。

 ルナはその言葉を読んでいた。

「健一に向けて、歌う」

 小さく言う。

 健一は彼女を見る。

 ルナは、不安そうではあるが、逃げてはいなかった。

 むしろ逃げたいのは健一の方だった。

「では、俺が恋愛感情を持たなければ駄目ということですか」

「あなた、そういうところ本当に人間が下手ね」

 マリーンは呆れた顔をした。

「質問が、試験問題みたい」

「答えてください」

「愛されなければ泡になる、と言ったでしょう」

「愛の定義は」

「ないわ」

「契約として終わっています」

「恋として始まっているの」

 健一は額に手を当てた。

 ルナが心配そうに言う。

「健一、頭が痛いですか」

「少し」

「私のせいですか」

「違います。契約書のせいです」

「契約書は雑です」

「その通りです」

 マリーンは嬉しそうにカウンターの下から湯呑みを取り出した。

 中身はお茶ではなく、なぜか青い液体だった。

 健一は見なかったことにした。

「愛に定義はない。でも、兆候はある」

「兆候?」

「いなくなると困る、では弱い。守りたい、だけでも足りない。責任を感じる、ではなおさら足りない」

「では何ならいいんですか」

「その子が笑った時、自分の予定が少し狂ってもいいと思うこと」

 健一は動きを止めた。

 マリーンは続ける。

「その子が泣く前に、理由を探してしまうこと。自分の恥ずかしい部分を見られても、逃げきれないこと。損を計算して、それでも横に立つ方を選ぶこと」

 店の奥のブラウン管に、青い波が映った。

「そういうものが積もると、人間はそれを愛と呼ぶことがあるわね」

 健一は、ノートを見た。

 数字も、箇条書きも、急に頼りなく見えた。

 この数日、自分は何をしていたか。

 ルナの足に合うサンダルを選んだ。

 水を避けるルートを調べた。

 カフェで水を拭いた。

 雨の中で抱えて走った。

 彼女の歌を聴いた。

 危険な歌詞を止めた。

 髪を結んだ。

 ホワイトボードに禁止語を書いた。

 陽子や山下への説明に困った。

 店先の看板を隠した。

 泡になるほど愛してる、という映画を全力で回避した。

 予定は狂いっぱなしだ。

 それなのに、以前の生活に戻りたいとは、もうあまり思っていない。

 健一は、それを言葉にしなかった。

 マリーンは、言葉にしなかったものを見たように笑った。

「焦ってきた?」

「焦っています」

「素直でよろしい」

「面白がっていますね」

「もちろん」

 マリーンは青い液体を一口飲んだ。

「魔女の楽しみは、人間が自分の気持ちに追いつけず慌てるところを見ることなの」

「最低です」

「職業倫理よ」

「最低の職業倫理です」

 ルナが小さく手を上げた。

「質問があります」

「どうぞ、小さな姫」

「健一が私を愛せなければ、私は泡になりますか」

 店内が静かになった。

 健一の呼吸も止まる。

 マリーンはルナを見た。

 さっきまでのからかうような顔ではない。

「そうね」

 短く言った。

 ルナはその答えを受け止めた。

「では、健一が無理に愛そうとした場合は?」

 健一はルナを見た。

 彼女はまっすぐマリーンを見ている。

「それは、受け取ることになりますか」

「ならないわ」

「そうですか」

 ルナは少しだけ俯いた。

「私は、健一に無理をしてほしくありません」

 健一の胸が詰まった。

「ルナさん」

「でも、泡になるのは怖いです」

 その声は、小さかった。

 いつもの誤学習の言葉ではない。

 歌でもない。

 ただの本音だった。

「海の泡は、きれいです。でも、私は泡になりたいわけではありません。健一の部屋に戻りたいです。プリンを食べたいです。陽子と買い物に行きたいです。健一の横を、もっと上手に歩きたいです」

 ルナは、自分の胸に手を当てた。

「でも、健一が私を愛さなければいけない、というのは、少し怖いです」

 健一は何も言えなかった。

 マリーンも、少しの間、黙っていた。

 それから、いつもの調子に戻すように肩をすくめた。

「本当に、損な子」

「私は、損ですか」

「ええ。恋をするには、優しすぎる」

「優しいと、駄目ですか」

「駄目じゃないわ。ただ、痛いのよ」

 マリーンはカウンターに手を置いた。

「でも、安心しなさい。無理に愛された歌は、海が弾く。あなたも分かるはずよ。声が沈むから」

「声が」

「そう。だから、嘘は効かない。責任だけのキスも、義務だけの抱擁も、たぶん泡を少し遅らせるだけ」

「キス?」

 ルナが首を傾げた。

 健一は即座に反応した。

「今のは聞き流しましょう」

「でも、重要そうです」

「重要ではありません」

「魔女が言いました」

「魔女の言うことを全部聞かない」

 マリーンは楽しそうに笑う。

「キスが必要とは言っていないわよ。昔話はすぐキスに頼るけど、契約としてはもっと根深いの」

「根深い?」

「触れるだけなら誰でもできる。歌を受け取るのは、逃げ場がない」

 健一は沈黙した。

 ルナはその横顔を見ていた。

「次の質問です」

 健一は無理やり話を戻した。

「泡になり始めた場合、止める方法は抱きしめること、と言いましたね」

「言ったわ」

「それは一時的な停止ですか。それとも条件達成ですか」

「場合による」

「またですか」

「だって場合によるもの」

「具体的に」

 マリーンは指を一本立てた。

「彼女が不安で揺らいでいるだけなら、抱きしめることで陸に戻れる」

 もう一本。

「でも、期限が来て、歌が届かなかった時は、抱きしめるだけでは足りない」

 三本目。

「ただし、その抱擁が“受け取ること”そのものになれば、話は別」

 健一は頭を抱えた。

「結局、全部そこへ戻るんですね」

「恋だから」

「便利すぎます、その言葉」

「あなたの“責任”ほどではないわ」

 刺さった。

 健一はノートに書く。

【泡化初期:抱きしめると戻せる可能性】

【期限時:歌を受け取れなければ不可】

【抱擁=受け取りになる場合あり?】

 疑問符が多すぎる。

 もはや契約書というより、恋愛メモだった。

「他にリスクはありますか」

「水」

「それは分かっています」

「雨、海、川、涙」

 健一は顔を上げた。

「涙?」

 ルナも驚いた顔をした。

 マリーンは穏やかに言った。

「人魚の涙は、ただの水ではないわ。真珠になることもあるし、泡を呼ぶこともある。泣きすぎると、海に近づく」

 健一はノートに書こうとして、手が止まった。

 ルナを泣かせない。

 それは、項目として書くにはあまりにも乱暴だった。

 人は泣く。

 人魚も、たぶん泣く。

 泣かせない、と決めて守れるものではない。

「健一」

 ルナが静かに言った。

「私は、泣かないようにします」

「それは違います」

 健一は即座に言った。

 自分でも驚くほど早かった。

「泣くのを我慢する必要はありません」

「でも、泡が」

「泣いても大丈夫な方法を考えます」

「方法」

「タオルを用意するとか、すぐ拭くとか、陸に戻る理由を確認するとか」

 言いながら、健一は自分がまた対策リストに逃げていることに気づいた。

 だが、今回は悪くないと思った。

 泣くな、ではない。

 泣いても大丈夫にする。

 それなら、少しは健一らしい。

 マリーンは、意外そうに健一を見た。

「いいじゃない」

「何がですか」

「今のは、責任だけより少しまし」

 健一は顔をしかめた。

「評価ありがとうございます」

「素直じゃないわね」

「魔女に褒められて喜ぶほど単純ではありません」

「でも、少し嬉しいでしょう」

「検討中です」

 ルナが小さく言った。

「検討中、禁止」

 健一は黙った。

 マリーンが笑った。

     *

 店を出る前に、マリーンは紙袋を健一に渡した。

「何ですか」

「契約対策グッズ」

「急に通販みたいな言い方をしないでください」

「中身は、乾いた貝殻、月光を記録した古いフィルム、人魚の涙を受ける小瓶、それから割引券」

「最後」

「恋愛映画三本で千円」

「いりません」

「いるわよ。あなたには教材が必要」

「教材は慎重に選びます」

「あなたが選ぶと、また黒歴史になるわ」

「否定しきれないのが腹立たしいです」

 ルナは紙袋を覗き込んだ。

「小瓶」

「涙を入れるのよ。泣いた時に」

「泣いたら、健一が拭きます」

 ルナは自然に言った。

 健一は固まった。

 マリーンが「あら」と笑う。

「いいじゃない。役割が決まったわね」

「今のは、そういう意味では」

「健一は、泣いても大丈夫な方法を考えると言いました」

 ルナはまっすぐ見てくる。

「だから、泣いたら、健一が拭いてください」

 その言葉は、服を着ている。

 着ているのに、妙に近い。

 健一は少しだけ視線を逸らした。

「……必要なら」

「必要なら」

「はい」

 マリーンが頬杖をついた。

「いいわね。曖昧な男と、曖昧な契約。相性がいい」

「相性がいいと言われたくないです」

「大丈夫。最終的には、曖昧なものしか残らないから」

「不安になる締め方をしないでください」

 健一は紙袋を受け取り、ルナと店を出た。

     *

 帰ろうとしたところで、マリーンが店の外まで出てきた。

 手には、さっきのワゴンから抜いたDVDを一枚持っている。

「待ちなさい。せっかくだから、一本だけ持っていきなさい」

「いりません」

「拒否が早いわね」

「学習しました」

「これは比較的安全よ」

 マリーンが差し出したDVDのタイトルは、

【初恋は雨上がりに乾く】

 だった。

 健一はジャケットを見る。

 夕焼け。

 傘。

 濡れた男女。

 やはり不安しかない。

「雨が入っています」

「最後には乾くわ」

「そこではありません」

 ルナが興味深そうに見る。

「雨上がりに乾く恋」

「文学的に聞こえますが、教材としては危険です」

 マリーンはもう一枚出した。

【契約結婚は満月のあとで】

「駄目」

「早い」

「タイトルが駄目です」

「じゃあ、これ」

【保護者失格、恋人未満】

 健一は黙ってマリーンを見た。

「何よ」

「完全にこちら向けですね」

「売れると思うの」

「売らないでください」

 通りかかった老人が、棚のタイトルを見て言った。

「最近の映画は、ずいぶん説明的だねえ」

「そうなんです」

 マリーンがにこやかに答える。

「分かりやすさは大事ですから」

 健一は頭を抱えたくなった。

 ルナは老人に向かって丁寧に頭を下げた。

「私は、保護者失格ではありません」

 老人は目を瞬かせた。

「そうかい」

「恋人未満でもありません」

「ルナさん」

 健一が止める。

「では、何ですか」

 ルナは健一を見た。

「私は、何ですか」

 商店街の風が、少しだけ止まった。

 老人はよく分からないまま去っていった。

 マリーンは楽しそうに黙っている。

 健一は、すぐには答えられなかった。

 同居人。

 保護対象。

 命の恩人。

 人魚姫。

 契約相手。

 困るけど嫌ではない存在。

 どれも足りない。

「今は」

 健一は言った。

「一緒に、言葉を探している人です」

 ルナは静かにそれを聞いた。

「一緒に」

「はい」

「言葉を探している人」

「はい」

 ルナは少しだけ笑った。

「それは、服があります」

「ありますか」

「でも、中が少し見えます」

 健一は視線を逸らした。

「なら、今はそれで」

 マリーンが後ろで拍手した。

「成長したわね」

「黙ってください」

「はいはい。教材はまた今度」

「永遠に不要です」

「そのうち要るわよ」

 健一は紙袋を持ち直し、ルナと商店街を歩き出した。

     *

 帰り道、商店街には夕方の光が差していた。

 古いアーケードの隙間から、細い光が入る。

 閉まった店のシャッターに、斜めの線が伸びている。

 ルナは、黙って歩いていた。

 健一の袖は掴んでいる。

 だが、その指先はいつもより静かだった。

「ルナさん」

「はい」

「怖いですか」

「怖いです」

 ルナはすぐに答えた。

「泡になるのも怖いです。でも、健一が無理をするのも怖いです」

「俺は」

 無理ではない。

 そう言いかけて、やめた。

 まだ分からない。

 無理なのか、無理ではないのか。

 責任なのか、それ以上なのか。

 ただ、分かっていることはある。

「あなたが泡になるのは、嫌です」

「はい」

「これは、無理に言っているわけではありません」

 ルナが顔を上げる。

「本当ですか」

「本当です」

「責任ですか」

「責任もあります」

「他には」

 健一は、商店街の出口を見た。

 夕方の空がある。

 水の匂いはない。

 しかし、満月までの日数は確実に減っている。

「まだ、うまく言えません」

 ルナは少し黙った。

 健一は続けた。

「でも、うまく言えるようにします」

「満月までに?」

「はい」

「健一も、言葉を練習しますか」

「そうなりますね」

 ルナは少しだけ笑った。

「私と同じです」

「そうですね」

「では、二人で練習です」

「はい」

「恋の練習」

 健一は足を止めかけた。

「その言い方は」

「裸ですか」

「かなり」

「では、言い直します」

 ルナは少し考えた。

「一緒に、言葉を探す練習」

 健一はうなずいた。

「それなら大丈夫です」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、健一の胸の奥が少しだけ軽くなった。

 焦りは消えない。

 満月まで二十日。

 契約は雑で、魔女は面白がり、条件は曖昧すぎる。

 店先には悪質なフェア看板まである。

 それでも、できることはある。

 言葉を探す。

 歌を直す。

 泣いたら拭く。

 泡になりそうなら抱きしめる。

 そして、彼女が自分に向けるものから逃げない。

 それは、健一の人生で一番難しい練習になるかもしれない。

 トライアスロンより難しい。

 少なくとも、心拍数では管理できない。

     *

 帰宅後、ルナはホワイトボードに今日の記録を書いた。

【満月まで二十日】

【自分の言葉で恋を歌う】

【健一が受け取る】

【責任だけでは足りない】

【泣いても大丈夫な方法を考える】

【恋の練習=裸】

【一緒に言葉を探す練習=服あり】

【私はフェアではない】

【保護者失格、恋人未満=外で読まない】

 健一はその横に、新しい項目を書いた。

【健一の練習】

・逃げ道の言葉を減らす

・ルナの歌を自分に向けられたものとして聞く

・分からない時は、分からないと言う

・でも、逃げない

 ルナはそれを読んだ。

「健一も、ホワイトボードに書きました」

「必要なので」

「逃げない」

「はい」

「難しいですか」

「かなり」

「では、ナイス健一」

「今それを言われると、少し効きます」

 ルナは笑った。

 健一も少しだけ笑った。

 ホワイトボードの一番上には、満月まで二十日という文字がある。

 それは、どうしても消えない。

 だが、その下に書かれた文字は、少しだけ違った。

 二人で練習する。

 一緒に言葉を探す。

 泡になる怖さを、笑い飛ばすのではなく、抱えたまま進む。

 契約書は雑だった。

 魔女は最低だった。

 恋は定義不能だった。

 それでも、ルナは健一の部屋にいる。

 青いヘアゴムを外し、マリーンから渡された小瓶をテーブルに置き、少し不安そうに、それでも笑っている。

 健一は、その笑顔を見た。

 予定は狂う。

 練習時間も減る。

 説明不能なことは増える。

 それでも。

 この笑顔が消えるよりは、ずっといい。

 そう思った瞬間、スマホが震えた。

 山下からだった。

〈佐藤さん、商店街で“愛されなければ泡になりますフェア”って看板の前にいたって聞いたんですけど、何の競技ですか?〉

 健一は、静かに目を閉じた。

 噂は泳ぎが速い。

 魔女の販促は、もっと速い。

 ルナが横から覗き込む。

「山下ですか」

「はい」

「フェアのことですか」

「はい」

「私はフェアではありません」

「その通りです」

 健一は返信した。

〈競技ではありません。絶対に触れないでください〉

 すぐ返事が来た。

〈ナイス健一。満月までに仕上げてください〉

 健一はスマホを伏せた。

「……なぜ満月まで知っている」

 ルナが首を傾げる。

「山下は、海の魔女ですか」

「ただの噂好きです」

「噂好きは、魔女より速いです」

「否定できません」

 ホワイトボードの満月まで二十日という文字を、健一はもう一度見た。

 期限は減っていく。

 でも、今日からはただ待つだけではない。

 練習する。

 歌う。

 受け取る。

 言葉を探す。

 そして、逃げない。

 健一はペンを取り、ホワイトボードの最後に一行だけ書き足した。

【満月まで、逃げない】

 ルナはそれを見て、静かに笑った。

「はい、健一」

 その声は、まだ少し不安で、でも確かに部屋の中に残った。


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