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episode2 六番地の家を見てはいけない

船から最初に見えた光景は昔と変わらなかった。鬱蒼と生い茂る森に青い海。

「着きましたよ」

「行こうか」

二人で船から降りる。「ようこそ!烏島へ!」と大々的に旗が掲げられている。スロープを降りてキョロキョロしていると優しそうなメガネの男性がやってきた。チケットのチェックだろうか。メガネの男性はチケットを見てこう言う。

「君津沙織さんと、杉崎カオルさんね。あ、目が見えないんだね。こんにちは。私は島民代表、夢原と申します。烏島生活、楽しんでくださいね」

島の長、夢原はニコリとして一度お辞儀をした。私もそれに合わせてお辞儀する。

船を離れて、数歩進んでから教授は大きく息を吐いて、吸った。

「潮風の匂いがするねぇ。あと森の匂い。近くに山があるのかな?」

「はい。島の中央に山があって、その周りに集落があります。それで、民宿ってどこですか?」

「あぁ、ここだよ」

教授が準備した音声アシストの通りに進んでいくと、とても懐かしい気分になった。お小遣いを握りしめて通った駄菓子屋、優しい村長の家、前を通るのが怖かった犬小屋。そんな思いを馳せていると目的地に着いた。古民家のようになっていて、入口の門をくぐり抜けた。

「こんにちは。お電話ありがとうございました。杉崎様ですか?」

「はい」

「お待ちしておりました。さぁ、中へどうぞ。長旅、ご苦労様でした」

「ありがとうございます」

お辞儀をして中に上がる。靴を脱ぐ場所で立ち止まった。

「教授、足元に段差があります。あと、三時の方向に靴箱があります」

「わかった。ありがとう」

教授は靴を脱いで、靴箱に触れる。手を滑らせて扉を開けた。私も同じように靴を入れて、教授の隣に立つ。赤い絨毯が敷かれた廊下を歩いて手前から三つ目の部屋に入った。部屋の入り口で島のパンフレットを渡された。

「お部屋はこちらです。何かご不明な点があればなんなりと」

「えぇ、ありがとうございました」

ふすまが閉まる。教授は私の肘から手を離した。そして壁に沿って部屋をぐるりと一周した。それから部屋の中を往復する。これは教授のルーティンだ。新しい場所や知らない場所に着いた時、教授は部屋の構造を完璧に理解しようとする。実際に教授は“見えない”けれど“見えて”いる。少しの間、部屋を歩き回り、教授は満足そうに座布団の上に座った。一時間ほど何もせずにただぼうっとテレビを見ていると、教授が突然立ち上がり、廊下の方へ出る。慌てて追いかけると、立ち止まって、くるりと私の方を向いた。

「君津くん」

「急にどこ行くんですか、びっくりしましたよ」

「この島を案内してくれる?」

「え?……まぁ、いいですけど……本当に何にもない島ですよ」

「あるじゃない。ノケモノが」

教授は靴を履いて準備万端だ。私も部屋から鞄を持ってきて民宿の外に出た。金木犀の匂いがする。教授の隣に立ち、島に一つしかない売店や昔通った小学校へ向かって、一通り説明した後、教授が不思議なことを言った。

「ここの島の空き家は手入れされているのかい?」

「え?いや、空き家なんてないですよ」

教授が一軒の家に指を差した。

その人差し指が示すそれはパンフレットに明記されている、六番地の家。触れても中を覗いても入ってもいけない、神聖で穢れた場所。

「じゃあ、あれは?家があるのはわかる。でもさっきから生活音が聞こえない。果物の匂いがするから食べ物もある。それなのに人が住んでいるとは到底思えない」

「あ、あれは……」

なかなか答えられない私に痺れを切らしたのか、教授は私の手を離して六番地の家にずんずんと進む。止めようとして息を吸うと急に大きな声が聞こえた。

「そこの坊や!そこは入っちゃいかんよ!」

「え、坊や……?」

思わず口にしてしまったが、今はそんなことを言っている場合ではない。走って教授の横に並ぶ。止められた教授は不思議そうに声の主の方を向く。

「坊やじゃないな、お兄さんだな。そこは“神様の家”じゃから入っちゃいかんよ……ってあれ、まぁ!沙織ちゃんじゃあないの!元気しとった!?」

そう言って私の背中をバンバンと叩くのは、私が通っていた小学校の目の前の家に住んでいる梅子ばあちゃんだった。梅子ばあちゃんは目をキラキラさせて私を見る。

「う、梅子ばあちゃん……叩くの、やめて、」

「あぁ!ごめんよぉ」

「……ッコホ……久しぶり。梅子ばあちゃん」

「どうしたの、沙織ちゃん……ってあら!やだ!もしかしてフィアンセかなんかかい!?」

「え、いや、そういうわけじゃ」

梅子ばあちゃんに詰め寄られ、困っていると教授が冷静に自己紹介をする。

「申し遅れました。小説家の杉崎カオルと言います。君津くんとは仕事仲間です」

「なぁに、結婚報告かと思ったじゃないの。それにしても、お兄さん、沙織ちゃんと一緒になしてこんなとこさ来た?」

「ノケモノについて知りたかったからです」

「そりゃ知っちゃないよ。ノケモノは私たちにもわからないんだよ」

梅子ばあちゃんは手を振ってイヤイヤ、という動きをした。

「それに」

梅子ばあちゃんは一つため息をついて呟いた。

「この島でノケモノについて調べない方がいいよ。ほら、ナギサちゃんのこともあったんだからさぁ」

心臓がひゅっと音を立て、私は即座にその話を止める。

「梅子……ばあちゃん……その話は、」

「ナギサちゃん……?」

教授は不思議そうに繰り返す。早めに話を終わらせて宿に帰ろうと、私は早口で梅子ばあちゃんにお礼をした。

「ありがとう、梅子ばあちゃん。ほら、教授そろそろ夕食の時間じゃないですか?戻りましょうよ」

教授は少し頬を膨らませてから頷いた。



「君津くん、僕に隠し事してるね?」

「えっ」

「あの捲し立てようはそうだとしか思えないよ」

鍋を突っつきながら教授はそう言った。やはり教授の勘は鋭い。

あの後、宿に帰り、部屋で夕食を食べていた。宿に帰ってきた教授は少し不満げだったが、温泉に入り、夕食の匂いがしてくると機嫌が良くなったようで、パソコンで小説家として活動していた。

「それで、誰なんだい?『ナギサちゃん』って」

「……鍋、冷めちゃいますよ。ほら、教授食べないんですか?」

「ネギは熱いから最後にしておくよ」

しばしの沈黙。部屋には鍋がぐつぐつと煮える音しか響いていない。教授は静かに溶き卵を追加する。

「神様の家だっけ。あの……梅子さんが言っていたのは」

「……はい」

「僕が推察するに、あの家は誰も住んでいないけれど、なんらかの理由で清潔に保たないといけない。そして人間——つまり現世の者は入ってはいけない。これでどうだい?」

「ほぼその通りです。あの家は私が小さい頃から神様の家と言われていて誰も入っちゃいけないんです。入れるのはごく一部の人間……神の使いと呼ばれる人達だけです。神の使いは掃除をしたり、果物をお供えしたり、あの家を綺麗に——まるで人が住んでいるみたいに保たなきゃいけないんです」

「その神の使いとやらはどうやって決めるんだい?」

「昔から決まってるんです。でも、誰も神の使いを見たことがないんです。神の使いとなる人は島民代表の夢原さんしか知らないみたいで」

「ふぅん……じゃあ、誰が神の使いかはわからないんだ」

「えぇ。夢原さん以外、誰にも知られていません」

その答えに教授は頷いてネギを箸で掴む。追加した溶き卵に浸して口に運んだ。具材もいよいよ少なくなってきてそろそろ締めのうどんを入れた。一煮立ちさせて取り分けようとしたら教授が慌てて私を止めた。

「あぁ、もう少し煮詰めないと」

「え、煮詰めちゃったら味濃くなりますよ」

「この前、すき焼きの締めを焼きうどん風にアレンジする方法を編集部の前園さんに聞いたんだよ。それを試してみたいんだ」

「へぇ……」

いつも教授の食の貪欲さには負けてしまう。話を聞くだけで美味しそうだなんて、いくらなんでもずるい。グッと胸の中で握り拳を作って水分を少し飛ばす。

「そろそろだね。取り分けてみよう」

「熱いので私がやります。教授は座っててください」

「……まさかだけど、僕の分少なくとかしないよね」

「……はい」

私の幼稚な作戦はバレてしまった。教授を前にすると何もかもお見通しだ。争いが起きないようにきちんと等分して教授に渡した。水分を飛ばしたうどんはカピカピになるのではないかと心配していたが、実際食べてみるとそうでもなく、味が濃くなって美味しい。あっという間に食べ終わってしまい、後ろ髪をひかれつつ下げられる鍋を見送った。

夕食を終え、布団を敷いてから各々仕事をしていると教授が手を止めてこう言った。

「君津くん、お風呂入ったら?」

「先いいんですか?」

「うん。僕、空間把握してから入りたいから」

「じゃあ先に把握してください。床が滑って転んでしまうので」

「うん」

教授は立ち上がって風呂場へ足を向けた。初めての場所はこちらも心配なので隣に立ち、腕を握らせて、一緒に風呂場に入った。風呂場にはシャワーと備え付けの椅子、大きめのバスタブ、ガラス張りのドアの先には露天風呂があった。

「ここは露天風呂がついていると聞いたけど、このドアの先かな?」

「はい。十二時の方向にドアがあってその先に露天風呂があります」

「ありがとう、助かったよ。じゃ、僕は原稿を書くから」

「はい」

教授は手を振りながら部屋に戻っていった。

私は身体を洗い、露天風呂まで楽しんでほかほかの状態で部屋に入る。温まった身体に先ほど外に出た時に買って冷蔵庫で冷やしていたサイダーを流し込む。半分ほど飲み干してふと気がついた。

教授がいないのだ。

まさか、ノケモノの禁忌に触れて消されてしまった?

そんな一抹の不安が私の脳裏をよぎる。そう思ってしまうくらい、私にとってノケモノとは恐ろしいものだった。慌てて部屋を出てあたりを見回す。するとフロントの方で教授の声がした。急いで足を動かしてそちらまで向かう。足音に気がついた教授がこちらを見る。

「あれ、君津くんお風呂出たの?」

息も絶え絶えに私は教授に質問する。

「教授……よかった……何……されてる……んですか……?」

「コーヒー牛乳買おうと思って。フロントで売ってるって聞いたから」

「それなら……よかったです……」

「あぁ、ごめんね。心配した?」

「えぇ、少し」

「それは悪かった。君津くんの分も買っておいたから」

「戻りましょう」

「うん」

教授が私の左肘の上を握る。ゆっくりと部屋に戻って、教授の風呂上がりを待ち、一緒にコーヒー牛乳で乾杯した。

「いやぁ、幾つになってもコーヒー牛乳は美味しいね」

「教授って、何歳なんですか?」

「想像に任せるよ。少なくとも君津くんよりは上だよ」

「教授も年齢気にするんですね」

「まぁね。気にしてないって言ったら嘘になるよ」

「あ、そうだ。教授、この島のルール知りませんよね。読み上げるので聞いていてください」

「よろしく」

私は宿に着いた時に渡されたパンフレットを読み上げる。

「この島での決り

一、絶対に山には入ってはいけない。

二、やむを得ず、山に入ることがあれば鈴を身につけること。

三、山の中では上を見てはいけない。

四、六番地の家には触れてはいけない。中に入ってはいけない。覗いてはいけない。

五、深夜二時〜三時までは外を出歩いてはいけない。

です。教授、本当にこれは守ってくださいね」

「うん。わかったよ。そもそも僕は一人で行動できない。君津くんがいないとこの島の地理がわからないから」

「えぇ、特に夜は絶対に私のそばを離れないでください。今みたいに」

「わかった。夜は部屋で大人しくしておくよ」

案外あっさりと教授はこの島のルールを受け入れた。何かといちゃもんをつけられるかと構えていたのが馬鹿らしい。

「明日も取材をしたいからもう寝るね。おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

教授は布団でまもなく眠りについた。教授の安らかな寝息を聞きながら編集者として働く。パソコンのキーボードを打つ音が心地よかった。そろそろ寝ようかとパソコンを閉じた。



「実、そちらはどう?」

「問題ない。電波は届いている」

「いやぁ、離島から電話なんて今時だね」

「そんなこと言ってる場合か?今は明日の朝ごはんを考えることのほうが大事だ」

僕——杉崎カオルは古くからの知り合いのジャーナリストである古里実と電話をしていた。君津くんが寝静まった後に。

「あー聞いたよ。あの話。フィギュアが壊れたんだって?画像見たけどありゃ治せないよ」

「そうだよね。諦めるよ。で、明日の朝ごはんは?」

「そうだな……まず白米を炊くだろう?その上に納豆をかける」

「おぉ、いいね。それ採用」

「俺は眠いから寝るぞ。おやすみ。カオル」

「おやすみ。実」

君津くんにこのことを話すのは、もう少ししてからにしよう。まだ、不確定なことが多い。実の調査を待とう。

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