episode1 好奇心旺盛な教授とノケモノとの出会い
「ふぅん、そういう風な噂は初めて聞いたよ」
安楽椅子の上で目を閉じながら彼はそう呟く。長い足を組み、私を第三の目で見ている。
「まぁ、僕が興味のある話ではあるけどねぇ。あぁ、そうだ。君津くん、紅茶淹れたよね」
「あ、はい!」
二つのティーカップを運び、彼——杉崎カオルに手渡した。受け取った彼はニコリと笑って紅茶を飲む。
ここはとあるアパートの一室。またの名を彼——教授の住処。
そして教授の“興味のある話”というのは、
「で、どこにいるんだい?そのバケモノは」
——バケモノだ。
彼は世界中のありとあらゆるバケモノと呼ばれる奇異な空想上の生物を研究している。人々が何を恐れ、何を信じたのか、その研究に明け暮れている。彼の職業はバケモノ好きな小説家だ。ただ、昔に大学教授をしていたから私が勝手に教授と呼んでいるだけだ。
「よくわからないです。それはバケモノと呼ばれる類ではないみたいです。山の中にいるのは聞きました」
「おっと、これは失礼。ノケモノねぇ……あくまでバケモノではないんだね」
「はい。山の怪異と教えられました」
私が住んでいた島には不思議なルールがあった。そして教授が興味を示してやまない“ノケモノ”と呼ばれる言い伝え。
ノケモノは山に入った人間の中で気に入った人間を攫ってしまう。ノケモノは自分がノケモノだと人間にわからせないために人間になりきる。目を見て話してしまうと、ノケモノの餌食になってしまう。
と、なんともホラーチックな言い伝えだが幼い頃の私はあまり信じていなかった。だが、そんな私でもその言い伝えを信じてしまう出来事があった。
通っていた中学校で行方不明者が出たのだ。十五年経った今でもまだ遺体は見つかっていない。その時、私は初めてノケモノを信じた。ノケモノにより、彼女は失われたのだと。
その話を教授にすると大変興味を持って熱心に話を聞いていた。
「君津くん、ちょっと手を貸して」
「えぇ」
君津沙織。それが私の名前だ。私は教授の専属編集者として働いている。しかし、ほとんどが雑用で、編集者として働くことは少ない。
教授は手に待っていた伸縮性の白杖を伸ばし、そして私の右隣に立ち、肘の上を握る。
「どこに行くんですか?」
「図書館に行こうと思うんだ。お願いしてもいいかな?」
「はい」
教授は目が見えない。明暗しかわからない世界で生きている。私はこうして教授の行きたい場所までサポートするという仕事も請け負っている。
「教授は私のことなんだと思ってるんですか」
「とても優秀な助手だと思っているよ」
「雑用においてじゃないですか」
「それはそれ、これはこれだよ」
教授は嬉しそうに鼻歌を歌いながら図書館まで歩いた。自動ドアをくぐって真っ直ぐ点字の図書コーナーに向かう。
「着きましたよ」
「どうもありがとう。えーっと……」
白杖で棚の位置を確認する。教授は慣れた手つきで本を棚から取り出し、パラパラとページをめくる。そして紙の上に指を滑らせ、納得したような顔をして本を閉じた。
「見つかりました?」
「うん。おかげさまで。じゃあ戻ろうか」
「え、借りなくていいんですか?」
「大体は読めたから」
教授はくるりと方向転換して私の腕を掴む。図書館を出てアパートに戻る。教授は安楽椅子にまた座り、手を組んだ。残りの紅茶のチェックをしていると教授が突然こんなことを言った。
「君津くん、僕を君の地元に連れていってくれないか?」
「え、わ、私の地元に?」
「うん。ノケモノについて知りたいんだ」
「いいですけど……へんぴな場所にあるのでかなり時間かかりますよ」
「構わないよ。そこに行けば、いいアイディアが思い浮かびそうなんだ」
教授は人差し指をコツコツと机に打ち付けてニコリとした。
「……原稿から逃げてません?」
「小説家なんて現地調査という名の逃避行を繰り返すだけだよ」
「世界中の小説家を敵に回しますよ、それ」
「ふふっ、君津くんよく言うねぇ。僕は安心したよ」
「え?」
「いやぁ、僕の下に島流しにあった君は覇気がなかったからねぇ。それに比べると生気が伺えるよ」
「……昔の話ですよ。今は違います」
教授の言う通りだ。教授の担当になった編集者はことごとく一年以内に辞めてしまうので、教授の担当は通称島流しと言われていた……らしい。初めての担当が教授だったので、それは後から聞いた話だ。教授とは三年ほどの付き合いの先輩からは「よく続いているね」と感心されている。
教授は目が見えないが、音声アシストなどのツールを使い、スマートフォンやパソコンを私より使いこなす。一時期「目の見えない小説家」としてプチブレイクしたが、教授の書く独特の世界観はいまだに世間からは受け容れられていない。
「昔の君は言いたいこともほとんど言えず、世間のペースに飲まれてしまっていたようだからねぇ」
しみじみと教授はそう言う。
教授との出会いは衝撃的なものだった。以前勤めていた会社でパワハラを受け、自ら命を絶とうとして歩道橋の手すりに足をかけていたところ、教授に声をかけられた。教授の持っていた白杖が私の足に当たったらしい。
「これはすみません」
「いえ、大丈夫です」
邪魔が入った。と当時の私は思った。教授の姿が見えなくなるまで待ち、今度こそ飛び降りようとした。するとどこからともなく教授が現れ、すぐさまこう言ったのだ。
「この高さからでは死ねませんよ」
「え……?」
見えないはずの教授が私のことを見ている。真っ直ぐと目を閉じて見つめていた。
「目が、見えないのに、」
「どうして?って聞きたいようだねぇ。白杖が当たった時、左足にしか当たった感触がなかった。つまり右足は手すりにかけている。では何故手すりにかけているか。それは飛び降りるためだろう?」
「あ……えっと……そう……はい、そうです……」
論理的な教授になすすべもなく、私はその場にへなへなと座り込んだ。コツコツと白杖の地面に叩く音が近づいてくる。顔を上げると教授が白いハンカチを持って私の目の前でしゃがみ込んでいた。
「僕と働いてよ。きっといいバディになる。とりあえず、涙を拭いたら?」
「……は、い」
しゃくりあげながら私は教授が差し出したハンカチで涙を拭く。しばらくして私が立ち上がると、同じように教授は立ち上がり、私の右隣に移動した。そして私の肘の上を握る。
「な、なんですか」
「視覚障害者の誘導は初めて?」
「えぇ……まぁ」
「では、今からお願いしたい。僕はあなたの右隣に立ちます。そして肘の上を握るので、あなたは僕のペースに合わせて歩く。それだけ」
「は、はい」
教授に腕を握られて違和感だらけだが、一歩踏み出した。
「そうそう。どうもありがとう。助かったよ」
「どうも……」
これが私と教授の出会いだ。教授の勧めで今勤めている出版社に入社し、教授からのご指名があり、ニ年前から教授のもとで働いている。
私が淹れた紅茶を飲む目の前の教授はきっとそれを覚えているのだろう。教授の記憶力はバケモノ並に良い。ある意味、教授の方がバケモノではないのだろうか。こんなことを言ったら怒られてしまうのでそこは黙っておくが。
「君津くん」
「はい」
「君の地元に行く話だけど、どうやって行くのが一番時間がかかるかい?」
「え?一番時間がかかる方法ですか?」
「うん。旅は長い方がいいからねぇ」
「調べます。少し待っててください」
「うん」
教授は満足そうに頷いて人差し指をコツコツと机に打ち付ける。これは教授の癖だ。嬉しくなったり、期待が大きくなると頻繁に指をコツコツと鳴らす。
スマートフォンで私の地元——烏島までの行き方を調べる。烏島は人口三百人ほどの小さな島だ。自転車で一時間ほどで島を一周できる。大型のフェリーがその先の島に行くので経由地として人気だ。学校は小中学校しかなく、高校に行くためには島を出ないといけない。私は東京の高校に行くために家族で島を出て、長らく島には帰っていない。
「烏島は……船でしか行けませんね」
「船のチケットを取ってよ。明日、出発しよう」
「あ、明日ですか!?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。そんな私を眺める教授はとても落ち着いていて、静かに一度頷いた。
「取れることには取れますけど……」
「じゃ、決まりだね。交通費は経費で落ちるだろう」
「……わかりました」
後は野となれ山となれ。と心の中で呟いて二人分の船のチケットを取った。
「足元はしっかりしたものを履いてきてください。明日の二十二時に出発です」
「わかったよ。僕の方も準備をするよ」
「では、失礼します」
「また後で」
教授の部屋を出て自宅に向かう。全く教授は本当に突拍子がない。帰宅して部屋の電気をつけると荒れ散らかった私の住処があらわになった。冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを引く。
「ふぅ〜」
大きく息を吐いて酔いが回るのを待つ。ソファーに深く座り込んで烏島のことを思い出していた。
ノケモノ、それに喰われたあの子のこと。
嫌な記憶が蘇ってきて缶ビールを一気に飲み干す。ベランダに出て、ちょうどよい夜風に当たり、眠りについた。
*
約束の二十二時。私は港までスーツケースといつもの鞄を引っ張ってきた。教授の姿が見えて声をかける。教授は古風なトランク片手に海の方を見ている。
「すみません、お待たせしました」
「大丈夫だよ。今晩は海が穏やかだそうだ。海に落ちてもなんとかなりそうだよ」
「落ちたら洒落にならないので私の腕を掴んでください」
「ふふっ、ありがとう」
教授が私の肘の上を握る。ゆっくりとフェリーの乗り場まで歩いていく。
「九時の方向にスロープがあります。少し段差があるので気をつけてください」
「わかった」
船に乗り込み、部屋に入った。二段ベッドのようになっていて、危ないので教授は下、私が上の段に寝ることになった。窓がついていて景色が楽しめそうだ。
「君津くん、晩ご飯食べた?」
「え、食べてないですけど……」
「じゃあ、食堂にでも行こうよ。カレーの匂いがした」
「地獄耳ならぬ地獄鼻ですね。確かに食堂はありました」
「よし、今夜はカレーだね」
教授は人差し指をコツコツと白杖に打ち付けてニコニコとしている。そんなにカレーが食べたいなんて子供のようだ。と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、食堂に向かった。
「はい、教授」
「どうもありがとう。これは海軍カレーの匂いに似ているね」
「そんなことわかるんですか?」
「匂いには自信があるからねぇ」
教授は優雅にカレーをパクパクと食べる。私は醤油ラーメンをすする。向かい合って食べていると急に教授がこんなことを言った。
「そう言えば、宿はどうするんだい?」
「あっ……」
考えていなかった。教授はふふっと笑い出して安心させるようにこう言った。
「こんなこともあろうかと、破格の民宿があったんだ。四泊五日、取っておいたよ」
「ありがとうございます」
私は深々とお辞儀をした。今回ばかりは教授に頭が上がらない。食事を終えて、部屋でのんびりとしていた。窓の外を横目で見る。夜の海は真っ黒で少し不気味だと感じた。
「寝る時言ってください。電気消すので」
「君津くんのタイミングでいいよ。僕明るくても寝られるから」
教授は私に背を向けて横になる。しばらく沈黙が続いた。
「教授」
「なんだい?」
「教授は色はわかるんですか?」
「わからないよ。でも林檎が赤なのは知っている。常識的な物の色なら盲学校で習ったよ」
「……そうですか」
「海が黒くて、不安なのかい?」
「え、なんで、」
心の中を見透かされたようで私は目を丸くした。教授は寝返りを打って私の方を向く。
「僕には海が何色かなんてわからないよ。でも、物語に書いてあったんだ。『海は何色にでもなれる』って。とても怯えた声だったから、黒色だった、と思ったんだよ」
「すごいですね」
「よく考えればわかることだよ」
その言葉を最後に教授は眠ってしまった。教授にブランケットをかけて部屋の電気を消した。梯子を登って上の段に寝転がる。目を閉じて眠りについた。




