第40話 崩壊する街の中で
ガイラムを離れてから数週間、彼らの旅路は過酷を極めた。崩災都市エルデブラへ向かう道中、大気は徐々に乾燥し、植物は枯れ果て、大地は不気味な赤茶色の砂漠へと変貌していった。
エルデブラ――そこは数百年前、神あるいは何らかの巨大な災厄によって、一晩にして文明ごと叩き潰されたとされる、呪われた廃墟都市だった。
現在では強力な変異魔獣や、異界の瘴気が噴き出す危険地帯として、いかなる国家も領有を放棄した「世界の傷痕」である。
「砂が、目に染みるわね……。魔力の流れも、完全に狂っているわ」
アルベラが包帯の上から目を押さえ、顔をしかめる。彼女の持つ魔障の感知能力が、前方の空間から漂う異常な歪みを捉えていた。
「ハァ、ハァ……アルス、大丈夫? 傷が……」
ルーシェが心配そうにアルスの左腕を見る。ナルクから簒奪した『腐敗の結晶』が、アルスの体内で暴れ狂っているのだろう。
時折、彼の左腕の黒い皮膚がひび割れ、そこから銀色の光と共に、不快な腐敗の煙が立ち上っていた。
「気にするな。……俺の肉体が崩れるのが先か、晩餐会を滅ぼすのが先か、それだけの話だ」
アルスは感情の消えた声で答え、一歩一歩、砂を噛み締めるように進む。そんな彼の無骨な背中を、オルクスは黙って見守っていた。オルフェアとの夜の特訓を経て、オルクスの身体からは無駄な動きが一切消え、砂漠の過酷な環境にあっても、その呼吸は完全に一定に保たれていた。
「おい、そろそろ見えてきたぜ。……あの爺さんが言ってた、本当の地獄ってやつがな」
先頭を歩くヒューガが、筆で前方の砂嵐を切り裂くように術式を放った。
霧散した砂煙の向こう側――そこに、その異常な都市は姿を現した。巨万の富を誇ったがため建てられたであろう古代の超高層建造物が、まるでもぎ取られたかのように中ほどから破断し、斜めに傾いたまま大地上に無数に突き刺さっている。
地表には巨大なクレーターが幾重にも広がり、そこから紫色の不気味な結晶が、大地の骨のように剥き出しになって生えていた。
大気には、呼吸するだけで喉が灼けるような、濃密な瘴気が満ちている。
ここが、崩災都市エルデブラ。
「? 随分と豪快にぶっ壊したもんだなァ。……少しは、俺の退屈を紛らわせるバケモノがいりゃあいいがよ」
オルフェアが大剣を地面にドスンと置き、禍々しい笑顔を浮かべた。
だが、アルスの【神簒者】の回路が、その瞬間、決定的な「天敵の気配」を察知して激しく咆哮した。
「……来る」
アルスが左拳を握り、構える。
廃墟の街並みを満たす紫色の瘴気が、一箇所へと急速に集束し、空間がガラスのようにひび割れていく。
割れた空間の裂け目から、ゆっくりと「それ」は降り立ってきた。崩壊した古代の尖塔の頂点に、贅を尽くした豪奢な椅子が空中に出現し、そこに気だるげに腰掛ける一人の男。
「やれやれ……。本当に辺境のネズミというのは、どこまで行っても小汚いな。こんな死人のゴミ溜めまで、わざわざ僕たちに殺されにやってくるとは」
男の名はエルファテス・ルイ・ヌーヴァ。
狂信教団『晩餐会』が誇る最高戦力、聖の一席。その左顔面を覆う龍の鱗のような不気味な皮膚が、エルデブラの紫色の大気の中で怪しく明滅している。
閉ざされた細い瞳の奥からは、この世の全ての理を支配しているという、絶対的な「傲慢」が漏れ出していた。
そして、その椅子の背後から、銀色のドラゴンのような美しい翼を羽ばたかせながら、もう一人の少女が飛び出してきた。
「エルファ! やっと見つけたわ、あの隻腕のおもちゃ! ねえ、早く私の『ジャッジ』で、あの汚い左腕ごと、消し炭にしていいでしょ!?」
聖の玉席、ルルカ・エルテ。
一本の禍々しい漆黒の角、右目に巻かれた包帯。可憐な容姿とは裏腹に、彼女の周囲の大気は、絶対的な光の魔力によって物理的に圧砕され、周囲の瓦礫が自重で粉砕されていく。
「晩餐会の……『聖』……ッ!!」
ルーシェが絶叫し、即座に矢を番えて放った。魔力を解体した必殺の矢。
しかし――。
矢がエルファテスの眼前に届く直前、何の一動もなく、矢はただの不発の木切れのように、その場にボトリと落ちた。
「無駄だよ、エルフの娘」
エルファテスが、細い目を僅かに開いた。
「僕の『ジャッジ』――【防御を禁ず】の領域内では、あらゆる術式、あらゆる抵抗の意思そのものが『無防備』として処理される。攻撃も防御の一つだ。君たちがどれほど命を燃やそうが、僕がそれを『許さない』と言えば、その瞬間にすべての因果は停止するんだ」
圧倒的な、神の特権。
ルルカが空中で不敵に笑い、その小さな手のひらをアルスたちへと向けた。
「さあ、神様を退屈させた罪を、その安い命で償いなさい。――【極光】【竜王】!!」
瞬間、エルデブラの鉛色の空が、太陽をも凌駕する絶対的な銀色の閃光で埋め尽くされた。
世界の理そのものが、満身創痍の復讐者たちを地上から完全に消滅させるために、容赦なく振り下ろされた。
「……チッ、本物の化け物が。アルス、俺の後ろに隠れな!」
ヒューガが血の筆を構える。
だが、その極光のブレスがアルスたちを飲み込もうとしたその刹那、彼らの前に、岩石のような巨躯が立ち塞がった。
「あ゙ぁ゙? ……理だの審判だの、さっきからうるせぇんだよ、このガキどもがァ!!」
戦神オルフェアが、背中の大鉄塊を両手で握り締め、朝陽を遮るようにして、その極光の奔流へと真っ直ぐに、大剣を振り下ろした。
魔力ではない。
世界の法則さえも力任せにねじ伏せる、人間の限界を超えた「純粋な暴力」が、聖の審判と正面から激突した。
――ドゴォォォォォォンッ!!!
エルデブラの崩壊した街並みが、衝撃波によってさらに数キロメートルにわたって消し飛んだ。紫色の結晶が粉々に砕け散り、大気が激しく加熱されて白い水蒸気の爆煙が立ち込める。
「……あら? 防御できないはずなのに、なんで生きてるの?」
空中で、ルルカが不満そうに頬を膨らませた。爆煙が晴れた中心部――そこには、大剣を地面に深く突き立て、全身から猛烈な蒸気を吹き出しながら、不敵にニヤつくオルフェアの姿があった。
彼の頑強な肉体は、極光の熱によって激しく焼け焦げていたが、その骨の一本さえも、折れてはいなかった。
「フン……。防御を禁ずる、だァ? ……俺は最初から、防御なんて小賢しい真似はしてねぇよ。ただの、力比べをしてぇ。てめぇらの変な光より、俺のこの大鉄塊の方が、ほんの少し強かった……それだけの話だろ、あ゙ぁ?」
オルフェアの声が、廃墟都市に響き渡る。
エルファテスは、椅子に座ったまま、その細い瞳の奥に、初めて明確な「不快感」を宿らせた。
「……なるほど。術式による防御ではなく、純粋な肉体の質量と運動エネルギーだけで、ルルカの極光を相殺したか。人間の分際で、随分と歪な進化を遂げた化け物がいたものだ」
「おい、オルクス、隻腕のガキ!」
オルフェアが、背後のアルスたちに向かって叫ぶ。
「こいつらは本物だ。俺一人じゃ、あの浮いてるガキどもを全員肉片にするには、少しばかり手が足りねぇ。……てめぇらのその、絶望ってやつ、ここで全部ぶち撒けやがれ!」
「……言われなくても、そうする」
アルスが、一歩前に出た。
彼の黒く変色した左腕から、銀色の術式と、ナルクの『絶対腐敗』の瘴気が、螺旋を描きながら噴き出していく。
「オルクス、ルーシェ、アルベラ、ヒューガ。……これ以上の出し惜しみはなしだ。俺たちの因縁を、ここでこの『聖』の奴らに叩きつける」
オルクスが、迷いのない瞳で大斧を構え、オルフェアの隣へと並び立つ。
「私の矢で……あの傲慢な目を、射抜いてみせる!」
ルーシェが、全身の血管を浮かび上がらせながら、限界を超えた魔力解体の術式を弓に固定する。
アルベラが、包帯の奥から溢れ出る紫黒の混沌の魔力を、大気中に網目状に展開していく。
「やれやれ……。あの爺さんの遺言を果たしてやる」
ヒューガが巨大な巻物を完全に広げ、自らの血を筆に含ませて、神代の術式を描き殴り始めた。
崩災都市エルデブラの廃墟の中で、満身創痍の復讐者たちと、世界を統べる『晩餐会』の最高戦力たる二人の『聖』。
世界の運命を書き換える、真の死闘の幕が、今ここに、完全に切って落とされた。




