第39話 王家の者
交易都市『ガイラム』の地下、血と硝煙が泥に溶ける最底辺の吹き溜まり。夜明け前の薄暗いスラムの路地裏で、アルスたちは身支度を整えていた。
かつて数多の戦場をその巨軀で蹂躙したオーガの戦士、オルクスの肉体からは、昨日までの迷いや怯えが完全に削ぎ落とされていた。全身を覆う包帯の隙間から覗く肌は、戦神オルフェアの「血の洗礼」によって無数の赤紫色の戦痕を刻まれていたが、その瞳だけは、暗闇の中で獅子のように獰猛に据わっている。
「……行くぞ」
アルスが短く告げた。右腕を肩の根元から失い、残された左腕も肘から先がナルクの呪いで黒く変色したその姿は、およそ一国の王族や神に挑む者のそれではない。
しかし、ボロボロの外套の下に隠された【神簒者】の回路は、絶望の泥を燃料にしてかつてないほどに静かに、そして禍々しく脈打っていた。
「おいおい、そんな死人みたいな面して歩くんじゃねぇよ、隻腕のガキ」
背後から、大鉄塊のような大剣を肩に担いだ巨漢――オルフェアが、地面を揺らすような足取りでついてくる。
口に咥えた煙草の煙を、いかつい顎を揺らしながら吐き出す。彼の合流によって、一行の旅路は「逃亡」から「進撃」へとその性質を変えつつあった。
「ふん……相変わらず口の悪い男ね。でも、オルフェアの目が死んでいないことだけは、認めてあげるわ」
アルベラが、白布の巻かれた右目――かつての千里眼の跡をそっと指先でなぞりながら、冷ややかに笑う。
ルーシェは何も言わず、ただ愛用の弓の弦を強く引き絞り、異常がないかを確かめていた。新入りの方術士ヒューガは、背中の巨大な巻物を揺らしながら、筆を耳に挟んで欠伸を噛み殺している。
彼らはガイラムの腐った汚水を這い出し、スラムを覆う防護結界を静かに解いて、光の差す地上、すなわち富裕層と権力者たちが住まう『上層都市』へと向かう中央階段を上り始めた。
石造りの階段を上り詰めた先には、スラムの陰惨な風景とは一変した、豪奢な白亜の街並みが広がっていた。大理石で舗装された美しい大通り、行き交う煌びやかな衣装を纏った貴族たち、そして彼らを護衛する格式高い聖騎士の隊列。
スラムの住人が一人でも紛れ込めば、それだけで即座に捕縛され、奴隷へと落とされるような絶対的な階級社会の象徴。
アルスたちは、ヒューガが施した「認識阻害の方術」によって、ただの旅の傭兵崩れとして、人混みの端を静かに進んでいた。
だが、上層都市の中央広場へと差し掛かったその時、周囲の貴族たちが一斉に道を空け、地面に跪き始めた。
「――退け、退け! 偉大なるガイラムの守護者、第一皇子・レオンハルト殿下のご巡幸である!」
聖騎士たちの鋭い怒号が響き渡る。
広場の中心を突き抜けるように進んできたのは、純白の馬に跨った、金糸の刺繍が施された真紅の外套を纏う一人の若い男だった。
レオンハルト・フォン・ガイラム。
この交易都市を支配する王族の血を引き、若くして軍の全権を握る気鋭の武人。
その傲慢なまでに整った顔立ちには、他者を虫ケラとしか見做さない特権階級の冷徹さが張り付いていた。
「……チッ、面倒な奴が出てきやがったな」
ヒューガが筆を強く握り、術式の出力を上げる。レオンハルトは周囲の跪く豚どもには一瞥もくれず、ただ傲然と馬を進めていた。
――しかし。
馬の足が、アルスたちの真横を通り過ぎようとした、まさにその瞬間だった。レオンハルトの手綱を握る手が、ピタリと止まった。
「……?」
王族の鋭い双眸が、認識阻害の術式を強引に突き破るかのように、アルスたちの列の最後尾を歩く巨漢――オルフェアの姿を捉えた。
レオンハルトの瞳の奥に、激しい動揺と、底知れない侮蔑、そして僅かな「恐怖」の色が混ざり合う、複雑な光が明滅する。
オルフェアは、王族の視線に気づきながらも、歩みを止めず、ただ咥え煙草のまま、いかつい顔を少しだけ傾けた。
あ゙ぁ? とでも言いたげな、完全に王権を舐め腐った態度。
「……お前は」
レオンハルトが、掠れた声で呟く。
かつて国を一つ一夜にして肉片に変え、滅ぼしたという不敗の戦神。その怪物の顔を、王族である彼が知らぬはずがなかった。
かつて己の父たちが、オルフェアの強さを恐れ、その妻をなぶり殺しにするという卑劣な暴挙を裏で黙認した――その因果の記憶が、レオンハルトの脳裏を過ったのかもしれない。
聖騎士たちが、主君のただならぬ様子に気づき、一斉に腰の剣に手をかける。広場の空気が、一瞬にして爆発寸前の臨界点へと達した。
「殿下、いかがなされましたか? 何か不審な者でも……」
側近の問いかけに、レオンハルトは数秒間、生唾を飲み込むようにして喉を鳴らした。彼の額から、一筋の冷や汗が流れ落ちる。
オルフェアの背負う大鉄塊――そこから漏れ出る、何千、何万人を屠ってきた剥き出しの殺気が、レオンハルトの乗る軍馬の脚をガタガタと震えさせていたのだ。
「……いや。何でもない。ただの、野良犬の群れだ」
レオンハルトは強引に視線を逸らし、馬の腹を強く蹴った。足早に去っていく王族の隊列。その背中を見送りながら、オルフェアは盛大にペッと地面に唾を吐き捨てた。
「フン……。どいつもこいつも、腐った身内の臭いがプンプンしやがる。あ゙んな温室で育ったガキの首なんて、一秒もいらねぇなァ」
「過去の因縁か?」
アルスが尋ねる。
「関係ね゙ぇよ、隻腕。俺らの敵はァ、あんな小物の血筋じゃねぇ。もっとデカい、世界そのものだろ」
「ああ、そうだ。先を急ぐぞ」
王族との不穏な一瞬の交錯を置き去りにし、アルス一行はガイラムの巨大な城門をくぐり、光の差す荒野へと再びその一歩を踏み出した。彼らの目指す目的地は、この大陸の果て、世界の終わりの残骸が眠るという地獄――『崩災都市エルデブラ』である。




