第38話 半端者が
非合法の地下闘技場。戦神オルフェアを仲間に引き入れた――そう思われた瞬間、最悪の理不尽がアルスたちの前に吹き荒れた。
「さて……おい、オルクス。てめぇ、何ヘラヘラ生きてやがる、あ゙ぁ゙!?」
言葉の終わりと同時に、オルフェアの容赦のない蹴りがオルクスの巨体を捉えた。
――ドゴォォォォォンッ!!!
「が、はっ……!?」
内臓をぶちまけるような衝撃。オルクスは防護の構えを取る暇すらなく、闘技場の壁まで吹っ飛んで崩れ落ちた。だが、オルフェアの暴挙はそれだけにとどまらない。
「お前、何をしやがる……ッ!」
アルスが黒い左拳を握り、割って入ろうとする。だが、その場に凄まじい「闘気の重圧」が叩きつけられ、満身創痍のアルスたちの足が床に縫い留められた。
ただの気迫だけで、現在の彼らの肉体は容易く制圧されてしまう。
「てめぇらはすっこんでろ! 俺は今、このガキと話し合ってんだよォ!」
オルフェアは倒れたオルクスに歩み寄ると、大剣の腹でその巨軀を何度も叩きつけ、踏みにじり、いたぶり始めた。
バキバキと、オルクスの骨が鳴る生々しい音が響き渡る。
「おい、オルクス! てめぇの誇りはどこへ行ったァ!? その程度のナマクラな肉体で、俺の前に面下げてんじゃねぇぞ、あ゙ぁ゙!?」
「う、ぐ……、あああぁッ……!」
血反吐をぶちまけ、ただ蹂躙されるオルクス。その光景に、廃屋に戻ってからも、仲間たちからの猛烈な批判が巻き起こった。
「なんなのよ、あの男……! 過去に何があったか知らないけど、ただの血に飢えた狂犬じゃない! オルクスをあんなボロボロにして……絶対に仲間になんてしちゃダメよ!」
ルーシェが激昂し、弓を握る指を震わせる。
「アルス、私の千里眼は失われたけど……あの男の周りにある『死の色』は本物よ。あれは、いつ私たちを後ろから刺してもおかしくない」
アルベラも、包帯の巻かれた右目を押さえながら静かに警告した。ヒューガだけは、煙を吐きながら黙ってアルスの出方を見ていた。
アルスは残された左腕の血を拭いながら、ただ一言。
「……まだ、あいつの目は死んじゃいない」
そう呟くだけだった。なぜオルフェアが突然オルクスをいたぶったのか、その時のアルスたちには、本当の理由など知る由もなかった。
その夜、ガイラムのスラム街が寝静まった頃。廃屋の地下室の片隅で、全身に包帯を巻いたオルクスが、痛む身体を引きずりながら外の空気を吸いに出ようとした。
月明かりすら届かない、荒れ果てた裏路地。そこに、巨大な影が佇んでいた。背中に担いだ大鉄塊が、微かな星の光を鈍く反射している。
「……オルフェア」
オルクスが掠れた声で呼ぶと、いかつい巨漢は、ふん、と鼻を鳴らして振り返った。その瞳は、昼間の狂気じみた濁りとは違い、冷徹なまでに冴え渡っている。
「……出てくるのが遅ぇんだよ、オルクス。てめぇの感知能力も、随分と錆びついたもんだなァ、あ゙ぁ?」
「昼間は、手厳しい歓迎をありがとう。おかげで全身の骨にヒビが入ったよ」
オルクスは苦笑しながら、壁に背を預けた。戦神の実力を知っているからこそ、恨む言葉は出てこない。オルフェアは咥えていた煙草の火を、親指の爪で揉み消すと、低いダミ声で本質を切り出した。
「お前には……『死の覚悟』が、決定的に足りねぇんだよ、オルクス」
「……何?」
「昼間、あの隻腕のガキは、俺の刃が首に届いても一歩も退かなかった。本物の地獄を見て、自分の命なんてとっくにチップとして場に張ってやがる。……だが、てめぇはどうだ?」
オルフェアの鋭い視線が、オルクスの胸元を射抜く。
「俺に『やめろ』だと? エルナの生きた証を語って、俺の心に縋り付こうとしたな。てめぇは俺を救おうとした。仲間を死なせたくない、傷つけたくないって、その温いナマクラな精神が、昼間の立ち振る舞いに透けて見えてんだよ」
オルフェガは一歩、オルクスへと近づき、その分厚い胸板を指先で強く小突いた。
「これから戦うのは、世界の、神とやら?その最高戦力だろ。誰も彼もが無傷で、誰も死なさずに勝てると思うか? あ゙ぁ? 仲間を、自分を、いつでも地獄の炎の焚き木にする覚悟のねぇ奴は、戦場じゃただの足手まといなんだよ。てめぇのその甘さが、例の洞窟でアルスの腕を失わせた原因の、一端じゃねぇのか?」
その言葉は、オルクスの胸の奥に、昼間の物理的な暴力よりも深く、鋭く突き刺さった。
――図星だった。
オルクスは、これ以上仲間を失いたくないあまり、無意識のうちに「安全な戦い」を求めていた。命を捨てるほどの覚悟が、アルスに比べて足りていなかった。
「……確かに、………確かにその通りだな。俺は、怖かったんだ。みんながボロボロになっていくのが」
「だったら、その恐怖をへし折ってやる。てめぇが死んでも、その肉体が勝手に動くくらいにな」
オルフェアは背中の大剣を引き抜き、ドスンと地面に突き立てた。
「来い、オルクス。てめぇのそのデカい身体、本物の戦神の肉体にしてやるよ。夜が明けるまで、俺が直々に鍛え直してやる」
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その日から、アルスたちが眠る夜の裏で、オルクスに対するオルフェアの「血の調教」が始まった。
それは、修行という生易しいものではなかった。
――ガギィィィィンッ!!!
「ぐ、おっ……あぁぁッ!!」
ガイラムの郊外、荒涼とした岩山。夜闇の中、オルクスは自身の斧を構えてオルフェアの突撃を受け止めていたが、大鉄塊から伝わる圧倒的な質量の前に、一撃で膝が地面にめり込む。
「声が小せぇんだよォ! 守るんじゃねぇ、肉を斬らせて骨を断つ、その一歩を踏み込めッ!」
オルフェアの容赦のない拳が、オルクスの顔面を捉える。鼻骨が砕ける音が響き、オーガの巨躯が転がった。
「立て! 立てよオルクス! てめぇの誇りはその程度か! 敵はお前の怪我を待ってくれねぇぞ!」
オルクスは口に溜まった血を吐き出し、朦朧とする意識を「執念」だけで繋ぎ止めた。
痛い。死ぬほど痛い。だが、オルフェアの一撃一撃には、昼間の理不尽な暴力とは違う、確かな「重み」があった。
(そうだ……俺はオーガだ。戦場を駆ける、誇り高き戦士だ。……アルスが命を燃やして前を走っているのに、俺がここで立ち止まっていられるか……!)
「おおおおおおおぉぉぉッ!!」
オルクスは恐怖を捨てた。死への怯えを脳内から消去し、ただ目の前の「怪物」を打ち倒すことだけに全神経を集中させる。
大斧が風を切り、オルフェアの首筋へと肉薄する。
「あ゙ぁ゙? ……いいじゃねぇか、その目だ!」
オルフェアは不敵に笑い、大剣の腹でその一撃を弾くと、今度はオルクスの肩口を自らの身体で激しくぶちかました。
骨と骨がぶつかり合う、剥き出しの暴力。
夜が明ける頃には、オルクスは文字通り指一本動かせないほどの満身創痍となっていたが、その肉体からは、かつての「迷い」が完全に消え去っていた。
「……ハァ、ハァ……。クソ、本当に……化け物だな、お前は」
岩山に大の字に寝転がったオルクスが、昇り始めた朝陽を見上げながら呟いた。全身の筋肉が断裂せんばかりに悲鳴を上げている。
オルフェアはその横で、大剣を地面に突き立て、新しい煙草に火を点けていた。
「フン。てめぇの肉、少しは締まってきたじゃねぇか。まだナマクラだがな」
「……ありがとう、オルフェア。お前のおかげで、俺の覚悟が決まった。……神だろうが、俺のこの命、いつでもアルスのための盾として差し出す」
その言葉に、オルフェアは朝陽を見つめたまま、小さく笑った。
「死ぬために盾になるんじゃねぇぞ、馬鹿野郎。生きて、敵を全員肉片にするまで、そのデカい身体を維持しやがれ。……エルナが死んだ時、俺は世界を呪ったが……」
オルフェアは煙を長く吐き出し、懐から、古びた、しかし大切に手入れされた一枚の布切れを取り出した。最愛の妻、エルナの遺品だった。
「あの隻腕のガキを見てたらよ、少しだけ、俺のこの退屈な死に場所に、華が添えられる気がしてきたんだ。……あいつの神への復讐、特等席で見届けさせてもらうぜ」
二人が廃屋の地下室に戻ってきた時、ルーシェたちは早朝からのオルクスのボロボロな姿に驚き、再びオルフェアを睨みつけた。
しかし、オルクスはそれを手で制し、アルスの前へと歩み出た。
「アルス。……俺の準備は、できた。いつでも、次の地獄へ行ける」
その言葉と、オルクスの瞳に宿る、以前とは全く違う「戦士の輝き」を見て、アルスはすべてを察した。
アルスは、黒く変色した左腕で、オルクスの肩をポンと叩いた。
「……ああ。最高の戦神と、最高の戦士が揃った。……行くぞ、晩餐会を喰らいに」
傷だらけの復讐者たちの絆は、狂戦士の荒々しい洗礼を経て、より強固な、決して折れない鉄塊へと鍛え上げられたのだった。




