スピンオフ ヒューガ・ミナト
大気さえもが血と硝煙の臭いに凝縮され、呼吸するたびに肺を灼く。
かつて、世界の均衡を陰から支えると称された『方術御三家』その栄華の結末が、この凄惨な泥濘だった。
「……あ、……が、はっ……」
泥と血に塗れた小さな手が、無数の骸の山から突き出された。
少年――ヒューガ・ミナトは、死体の重みに押し潰されながら、辛うじて現世の空気を吸い込んでいた。
彼の周囲に広がっているのは、かつて「家族」であり「師」であり「友」であった者たちの、物言わぬ肉塊だ。
方術とは、世界の歪みを数式と術理でせき止める調和の技。しかし、強大すぎる異国の軍勢を前に、御三家が築き上げた幾重もの金色の結界は、まるで薄いガラス細工のように容易く粉砕された。
生き残った者は、誰もいない。
術式を編むための指をへし折られ、魂の回路を焼き切られ、誇り高き方術士たちは泥に塗れて果てた。
「……なんで、俺だけ……」
ヒューガは、肉体の痛みさえも麻痺した頭で、ただ茫然と曇天を見上げた。彼には才能がなかった。
御三家の神童たちのように、一瞬で複雑な陣を描く器用さもなければ、膨大な魔力を維持する器もない。
だからこそ、最前線に立たされることもなく、骸の山の最下層で、奇跡的に生き延びてしまった。
生き残ったのではない。「死に損なった」のだ。最後の意志を継ぐ者。そんな大層な資格など、この震える両手のどこにもありはしない。
遠くから、ペタ、ペタ、と泥を踏みしめる足音が近づいてくる。
敵の残党か、それとも死体を漁る野盗か。ヒューガは抵抗する気力もなく、ただ静かに目を閉じた。
ここで死ねるなら、それもまた、一族の元へ行けるという救いかもしれない。
だが、届いたのは、酷く低く、煤けた煙のように枯れた老人の声だった。
「――やれやれ。御三家の生き残りがいると聞いて来てみれば、随分と小汚いネズミが一匹だけか」
ヒューガが辛うじて薄目を開けると、そこには使い古された外套を羽織り、背中に巨大な巻物を背負った一人の老人が立っていた。
白髪交じりの短髪、無精髭を生やし、口には葉巻を咥えている。その佇まいは、厳格だった御三家の長たちとはあまりにもかけ離れた、世捨て人のそれだった。
「お前、は……」
「俺の名はアベル。……まぁ、お前の死んだ爺さんたちとは、昔ちょっとした貸し借りがあった身だ」
アベルと呼ばれた老人は、泥の中からヒューガの小さな身体を片手で引き抜くと、荷物でも担ぐように肩へと乗せた。
「……放せ。俺も、みんなのところで……死ぬ……」
「死にたきゃ勝手に死ね。だが、御三家の術式を一つも残さず現世から消すのは、あの世の爺どもへの義理が立たん。お前が最後の一個だ、ネズミ。泣き言は俺の庵に着いてからにしろ」
それが、後にアルスたちの前に現れる方術士『ヒューガ』と、彼の生涯唯一の師範『アベル』との出会いだった。
アベルの隠れ家は、人里離れた岩山の荒野にあった。運ばれたヒューガは、数日間の高熱の果てにようやく一命を取り留めたものの、その瞳からは完全に「生気」が失われていた。
「おい、ネズミ。飯だ。食わねぇならそのまま干からびろ」
アベルが床に放り投げたのは、硬い干し肉と、薄いスープ。ヒューガはそれを睨みつけたまま、動こうとしない。
「……なんで、俺なんだ。俺には、方術の才能なんてない。御三家の秘術なんて、一つも覚えてないんだ……!」
「知っている。お前の血脈の回路は細く、歪だ。普通の方術士なら、半人前にもなれずに自滅するレベルだな」
アベルは葉巻の煙を燻らせながら、冷酷に事実を告げた。
「だがな、ヒューガ。才能ってのは、術式の綺麗さや魔力の量だけで決まるもんじゃねぇ。……お前は、あの地獄の中で、最後まで『生きよう』として泥を掴んだ。その執念だけは、死んだ神童どもの誰よりも深い」
アベルは背中から、あの巨大な巻物をドスンと床に置いた。
「御三家の術式が消えたなら、新しく作ればいい。正統な方術が駄目なら、泥水をすすってでも発動する『外法』を教えてやる。……立て、ヒューガ。お前が背負ったのは、死者の呪いじゃない。未来へ繋ぐための、最後の残響だ」
◇◆◇
翌日から始まった修行は、文字通りの地獄だった。アベルの指導には、優しさなど微塵もなかった。
「遅い! 方術は数式だ! 空間の座標を脳内で一瞬にして計算しろ! 零点一秒の遅れが、お前の首を飛ばすと思え!」
荒野の岩肌に、ヒューガは一本の筆で術式を描き続ける。だが、細い回路のせいで魔力が上手く伝わらず、術式は途中で火花を散らして霧散する。
そのたびに、アベルの容赦のない拳がヒューガの身体を吹き飛ばした。
「がはっ……、う、ぅ……!」
「立ち上がれ! 魔力が足りないなら、自分の血を混ぜろ! 魂の輪郭を削ってでも、大気の中にある世界の理を無理やり引き摺り下ろすんだよ!」
ヒューガの指先は、術式の描きすぎで爪が割れ、常に血に染まっていた。しかし、何度も泥を舐め、岩に頭を打ち付けながらも、ヒューガの瞳の奥に、かつての戦場で失いかけた「光」が灯り始めていた。
(死ねない。……俺がここで諦めたら、あの戦場で死んだみんなの生きた証が、本当にこの世界から消えてしまう……!)
ある日、修行の最中に、荒野の肉食魔獣である『岩裂きの大狼』の群れが庵を襲撃した。
アベルはあえて動かず、酒瓶を片手に岩の上から見下ろしている。
「おい、ヒューガ。お前の『九頭龍』を見せてみろ。失敗すれば、お前はあいつらの今日の晩飯だ」
数十頭の飢えた狼が、鋭い牙を剥いてヒューガへと飛びかかる。魔力は、もう枯渇寸前だった。視界はブレ、足元はおぼつかない。普通の方術士なら、ここで絶望し、喰い殺されるのを待つだけだろう。
だが、ヒューガは笑った。
――あの日見た地獄に比べれば、こんな狼の牙など、ただの微風に過ぎない。
「……魔力が足りないなら、これでどうだッ!!」
ヒューガは自らの右腕の皮膚を筆の先で深く切り裂き、溢れ出た鮮血を墨の代わりに虚空へとぶち撒けた。
血の術式が、彼の歪な回路を強引に繋ぐ。大気中の魔素が、ヒューガの「生への執念」に呼応して、猛烈な熱量を持って凝縮されていく。
「【方術・九頭龍神葬陣】――ッ!!」
轟音と共に、ヒューガの描いた血の陣から、不完全ながらも三頭の光龍が具現化した。光龍は咆哮を上げ、迫り来る狼の群れを一瞬にして消滅させ、荒野の岩山ごと大地を消し飛ばした。
術式を発動し終えたヒューガは、その場に前のめりに倒れ込んだ。全身の血管が破裂しそうなほどの激痛。だが、その顔には、確かな充実感の笑みが浮かんでいた。
パチ、パチ、と、岩の上から乾いた拍手が聞こえる。アベルは静かに降りてくると、倒れたヒューガの頭を、大きな手で乱暴に撫で回した。
「よくやった……。三頭か。上出来だ、ネズミ。お前は今、御三家の歴史を超えた、お前だけの方術の第一歩を踏み出したんだ」
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数年の月日が流れ、ヒューガの背中には、アベルと同じ巨大な巻物が背負われるようになっていた。彼の身体には、血の術式を編み続けた代償として、無数の刺青のような術痕が刻まれている。
しかし、別れの時は、唐突に、そして静かに訪れた。もともと、アベルの肉体は、かつて世界の理と戦った際の「呪い」によって、内側から限界を迎えていた。
ヒューガの修行を終えさせるためだけに、彼は自らの命を魔法で無理やり繋ぎ止めていたに過ぎなかったのだ。
月の綺麗な夜、庵の裏手で、アベルは静かに横たわっていた。その肌は、かつての頑強さを失い、まるで枯れ木のように乾いている。
「……ヒューガ。俺の授業は、これで終わりだ」
「師匠……。お前、その身体……」
「気にするな。俺は十分生きた。……お前に、最後に一つだけ、伝えておくことがある」
アベルは細く目を開け、かつて泥の中から拾い上げた少年の、立派になった体躯を見つめた。
「世界は、これからさらに壊れていく。神を自称するガキや、世界の終わりを告げる魔人が現れ、理をひっくり返そうとするだろう。……お前がその方術で、世界を救う必要はねぇ。そんな大層な義務は、死んだ御三家と一緒に泥に埋めておけ」
アベルは震える手で、ヒューガの胸元を強く叩いた。
「だがな……もし、お前と同じように、絶望の泥の中で、それでも『生きたい』と足掻いているバケモノに出会ったら。……その時は、お前のその泥臭い方術で、そいつの進む道を、一瞬だけでも照らしてやれ」
「……師匠……」
「行くがいい、ヒューガ。お前はもう、俺の自慢の門下生だ」
その言葉を最後に、アベルは再び荒野を彷徨い続けた。夜風の中に消えていった。庵の後に残されたのは、静寂と、ヒューガの頬を伝う一筋の涙だけだった。
◇◆◇
灰の荒野に、一人の男が立っていた。
使い古された外套を揺らし、背中には巨大な巻物。その手には、師匠の遺志が刻まれた一本の筆が握られている。
「……さあて。爺さんの遺言通り、少しばかり世界を覗きに行ってみるか」
ヒューガ・ミナトは、自らの名前を心の中で反芻する。かつて凄惨な戦争で全てを失った少年は、偏屈な師範アベルとの出会いを経て、世界の因果をせき止める『守護者』へと成長を遂げていた。
彼が歩む旅路の先には、後に、右腕を失い、自らの寿命を燃やして戦う一人の復讐者――アルスとの運命的な出会いが待っている。
「待ってろよ、泥の中で足掻いてるバケモノ。俺の方術で、極上の舞台を用意してやるからな」
ヒューガは不敵な笑みを浮かべ、師匠の面影をその背中に宿しながら、新たな地獄が待つ世界へと、力強く一歩を踏み出した。




