閑話 神々の飽食、あるいは道化の審判
アリウベラ洞窟が崩壊し、腐敗の王ナルクが深淵へと押し込められたその時、世界はその激動など初めから知らぬかのように、穏やかな海流を湛えていた。
青のグラデーションがどこまでも続く広大な大海原。そこを滑るように進むのは、一隻の巨大な豪華客船『アルカディア号』である。
純白に染め上げられた船体は、富裕層の貴族や大商人たちを集め、現世の地獄から最も遠い場所で、終わりのない宴を繰り広げていた。
だが、その最上階。限られた王侯貴族さえも立ち入りを禁じられた特別スイートルームのバルコニーでは、この世の贅を極めた料理が、文字通り「おもちゃ」のように扱われていた。
「ねえ、エルファ。この『深海大魚の心臓のパイ包み』ってやつ、思ったより泥臭くて退屈。やっぱり人間の料理なんて、神様《リオ様》の爪垢を煎じて飲むほどの価値もないわね」
銀色に輝くドラゴンのような翼を気だるげに羽ばたかせながら、一人の少女が高級な銀食器を、躊躇いもなく海へと投げ捨てた。
少女の名はルルカ・エルテ。
頭部から一本の禍々しい漆黒の角を生やし、右目には包帯を巻いた異様な風体。しかし、その可憐な容姿とは裏腹に、彼女の背負う肩書きは重い。
狂信教団『晩餐会』の頂点に君臨する上位存在――聖の、さらに最高位たる『玉席』。
「おいおい、ルルカ。給仕係が一人、辺境のネズミに食い殺されたっていうのに、随分と余裕じゃないか。神が残した食べ残しを片付けるのが僕たちの仕事だろう?」
対面に座る男が、極上の葡萄酒を口に含みながら、ねっとりとした笑みを浮かべた。
男の名はエルファテス・ルイ・ヌーヴァ。
聖の『一席』。閉じた細められた目の奥には底知れない冷酷さが隠されており、その左顔面は、まるで龍の鱗のような不気味な皮膚に覆われている。
「給仕係? ああ、あの封印の杭を打つことしか能がなかった下っ端のこと? あんなの、誰が死んだって同じよ。それよりエルファ、見て。この船に集まった豚たちの顔。私たちが少し『ジャッジ』の気配を匂わせるだけで、みんな一族の財産を差し出して許しを請うの。滑稽だと思わない?」
ルルカはバルコニーから身を乗り出し、下のデッキで怯えながら跪いている、この国の最高権力者たる大公爵を見下ろした。
大公爵の首筋には、目に見えないルルカの『審判』の術式――【極光】【竜王】の微かな圧力が刻まれている。
彼女がその気になれば、極光のブレスがこの豪華客船ごと、大公爵の領地すべてを塵へと変えるだろう。
それを理解しているからこそ、大商人や貴族たちは、自らの全財産を『晩餐会』へと進んで献上し、この洋上の揺り籠で、聖たちの奴隷として付き従っているのだ。
「まぁね。恐怖こそが最高のスパイスだ。彼らが必死にかき集めた金と情報で、僕たちはこうして神の再臨を待つ。実に有意義な豪遊だよ」
エルファテスは、手元に広げられた何枚もの羊皮紙に視線を落とした。そこには、アリウベラ洞窟周辺で起きた異変の、詳細な調査報告が記されていた。
◇◆◇
「……ほう」
エルファテスが細い目を開き、羊皮紙の一枚を指先でなぞる。その指先から放たれるのは、魔力そのものを否定する奇妙な静寂。彼の『審判』である【防御を禁ず】の権能が、無意識のうちに漏れ出しているのだ。防御とは、隠蔽、認識阻害なども含まれる。
「見つかったの? その、神様が気まぐれに生かしておいたっていう、隻腕のネズミの証拠」
ルルカが興味深そうに首を傾げ、エルファテスの手元を覗き込んできた。
「ああ。給仕係を殺した手法、そしてナルクを一時的に退けた際の戦闘記録だ。現地に潜伏させていた僕たちの間諜が、崩壊したアリウベラ洞窟の跡地から、興味深い魔力の残渣を採取した」
「へえ、どんなの?」
「……『無』だよ、ルルカ」
エルファテスは葡萄酒のグラスを置き、鱗に覆われた左頬をさすった。
「そのアルスという男、戦闘の最終局面で、あえて自らの魔力を完全に消滅させている。魔力が存在しないがゆえに、ナルクの『絶対腐敗』の障壁を物理的にすり抜け、その胸を素手で貫いたそうだ。その後、ヒューガという方術士の絶技を呼び込み、ナルクの核を奪って逃走した」
ルルカの顔から、一瞬だけ退屈な笑みが消えた。右目の包帯をさすりながら、彼女は小さく舌を打つ。
「魔力を消す……? 意味がわからないわ。この世界の生き物なら、どんなに弱くても魔力の波形を持っているはずよ。それを完全にゼロにするなんて、生物としての構造を否定しているわ」
「だからこそ面白い。他者の力をそのまま使う【略奪者】だったはずの男が、あの老いぼれた隠者の手によって、独自の回路に書き換えられた。……奪った力を解体し、自らの命を燃料に変える『閉鎖型の魔導』。神が彼を『美味しくなる』と評した理由が、ようやく分かったよ」
エルファテスは、羊皮紙を一枚、ルルカの前に滑らせた。そこには、アルスがナルクから簒奪したとされる『腐敗の結晶』のエネルギー波形と、彼を匿っていると思われる方術士ヒューガの足取りについての推測が書かれていた。
「このネズミ、片腕を失い、寿命を限界まで燃やしながらも、まだ生きている。それどころか、ナルクの力をその身に宿したことで、以前よりもタチの悪いバケモノに変貌しつつあるね」
「ふん……。腕の一本や二本、最初から捥げていればいいのよ」
ルルカは再び傲慢な笑みを取り戻し、バルコニーの手すりに腰掛けた。
「どれだけ新しい回路を作ろうが、どれだけナルクの力を奪おうが、私たちの前では何の意味もないわ。私の【極光】【竜王】で、その小賢しい回路ごと、消し炭にしてあげる」
「いや、ルルカ。君の攻撃は確かに絶対的だが、僕の【防御を禁ず】を忘れてもらっては困るな」
エルファテスは立ち上がり、バルコニーの下で震える貴族たちに向けて、冷酷な視線を投げかけた。
「彼がどれほど強固な概念の盾を作ろうが、僕が『ジャッジ』を下した瞬間、彼の肉体はあらゆる攻撃を無防備に受け入れる木人形と化す。そこへ君の極光を叩き込めば……あのアリウベラ洞窟の再現どころではない。彼の存在そのものが、因果の彼方へ消し飛ぶさ」
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その時、スイートルームの豪華な扉が、控えめに、しかし激しく震えながら叩かれた。
「せ、聖の御方々……! お、お願いでございます、これ以上の献上は、我が領地の民が飢え死にしてしまいます……! なにとぞ、なにとぞご慈悲を……!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまでルルカが目を付けていた大公爵の、涙ながらの哀願だった。
ルルカは深い溜息をつき、めんどくさそうに首を振った。
「ほらね。せっかくネズミの証拠集めをしてあげているのに、この豚たちは自分たちのサイフのことしか考えていないわ。……エルファ、ちょっと『ジャッジ』の時間を始めてもいい?」
「いいよ。僕たちの豪遊を邪魔する不届き者には、それ相応の罰が必要だ」
ルルカが指先を小さく鳴らすと、豪華な扉が音を立てて消滅した。現れたのは、床に額を擦り付け、ガタガタと震えている大公爵の姿。彼の周囲には、大商人たちが持参した金銀財宝や、各地の機密情報が記された書状が山のように積まれている。
「ねえ、大公爵。貴方、さっき『慈悲』って言った?」
ルルカがゆっくりと大公爵に近づき、その細い顎を爪でクイと持ち上げた。
大公爵の瞳には、ルルカの背後に浮かび上がる、実体化した【極光】【竜王】の巨大な影が映っていた。その圧倒的な神威の前に、人間の精神など容易く崩壊する。
「ひっ、あ、ああ……!」
「私たち『晩餐会』が求めているのは、神様が退屈しないための『舞台整え』なの。貴方たちの安い命や金なんて、そのための薪に過ぎないわ。それを『飢え死に』だなんて理由で出し渋るなら……今ここで、貴方の領地ごと、私の審判を受けてもらうけれど?」
ルルカの右目の包帯から、一筋の銀色の光が漏れ出す。大公爵は恐怖のあまり失禁し、何度も床に頭を打ち付けた。
「も、申し上げます! 全て差し上げます! 我が領地のすべての穀物、そして、隣国から仕入れた『隻腕の暗殺者』に関する噂、そのすべてを今すぐに……!」
「……あ、それ。今いいこと言ったわね」
ルルカがぴたりと動きを止め、エルファテスと視線を交わした。エルファテスは楽しそうに口元を歪め、大公爵の前に歩み出る。
「『隻腕の暗殺者』その噂、詳しく聞かせてもらおうか。もし僕たちの求めているネズミの情報と一致するなら、君の領地の半分は、飢え死にから救ってあげてもいい」
「は、はい! その者、左腕一本で、とある街のギルドを壊滅させたと……! 衣服には銀色の術式が刺青のように浮かび上がり、その周囲の大気は、常に腐ったような臭いが漂っていたと……!」
「ビンゴ、ね」
ルルカが満面の笑みを浮かべ、ドラゴンの翼を激しく羽ばたかせた。アルスが生きている証拠、そしてその潜伏先を示唆する決定的なピースが、洋上の豪遊の最中に、向こうから転がり込んできたのだ。
大公爵を部屋から這い出させた後、エルファテスは新しい羊皮紙に、その情報を書き加えた。
「街のギルドを壊滅、か。腕を失ってもなお、その【神簒者】の牙は衰えていないらしい。いや、ナルクの腐敗を取り込んだことで、より凶暴になっていると見るべきだね」
「いいじゃない。そうでなくっちゃ、私たちがわざわざ船を降りる甲斐がないわ」
ルルカはバルコニーの手すりの上に立ち、はるか彼方の水平線を見据えた。彼女の視線の先には、アルスたちが潜伏しているであろう、不穏な影を落とす大陸の姿があった。
「主席の私と、一席のエルファ。この二人が直々に動くんだから、あのネズミも光栄に思うべきよ。神様がボロボロにしたおもちゃを、私たちが完璧に『ジャッジ』して、塵に変えてあげる」
「ああ。彼の【無魔の極点】とやらが、僕の【防御を禁ず】の前にどこまで無力か、この目で確かめさせてもらうよ」
エルファテスがグラスに残った葡萄酒を飲み干すと、その強力な圧力が豪華客船の結界を微かに震わせた。
贅を尽くした洋上の宴は、これで終わりだ。リオネイルを信奉する『晩餐会』の最高戦力たる二人の『聖』
各々が世界を裁く権利――特殊能力「ジャッジ」を持つ彼らが、満身創痍の復讐者アルスを完全に圧殺するため、ついにその重い腰を上げようとしていた。
アルスが歩む地獄の道に、さらなる過酷な、そして絶対的な「審判」の時間が近づいていた。




