第36話 絶望に抗う無力な者
アリウベラ洞窟の崩壊は、もはや世界の終焉を予感させるほどに激化していた。天井を形成していた不滅の巨岩が次々と自重に耐えかねて剥がれ落ち、地鳴りとなって足元を揺らす。
右腕を根元から失ったアルスの肩口からは、なおもどす黒い鮮血が溢れ、大気中に漂うナルクの腐敗の霧と混ざり合って紫煙を上げていた。
「アルス……! もうやめて、それ以上は本当に魂が砕けるわ……!」
壁際に頽れたアルベラが、喉を引き裂くような悲鳴を上げる。彼女の千里眼は、アルスの肉体が限界を迎えていること、そしてこれ以上の魔力行使が彼の存在そのものを世界から消滅させる未来を明確に捉えていた。
だが、アルスは止まらない。いや、止まるわけにはいかなかった。残された左手。指先を血に染め、彼は静かに己の胸元へとその掌を当てた。
「……下がっていろ、ヒューガ。あいつの首を獲るのは、俺だ」
「おい、正気かお前! 腕一本落とされて、その上魔力回路まで暴走させてるんだぞ! これ以上前に出たら、肉体どころか魂まで塵になる!」
新しく現れた協力者、ヒューガが巨大な巻物を背負い直しながら鋭い制止の声を飛ばす。だが、アルスの漆黒の瞳に宿る、冷徹にして苛烈な復讐の炎は、その言葉をいとも容易く撥ね退けた。
「魔力回路が暴走しているなら……そんなもの、最初から無ければいい」
「……何?」
ヒューガが驚愕に目を見開く。
次の瞬間、アリウベラ洞窟を満たしていたはずの、アルスの銀色の魔力波形が、嘘のように完全に消失した。
それは「魔力切れ」による枯渇ではない。アルス自身が、魂の底にある魔導回路のスイッチを、自らの意志で強制的に「遮断」したのだ。
亡き師匠から授かった真の魔法の極意。
――『魔法とは、奪うものでも、与えるものでもない。そこに在ることを許容し、世界と呼吸を合わせることだ』
――『空っぽの器にしか、真理は注げぬ』
魔力を消す。己の存在感を完全に無へと帰す。
これまでのアルスは、【神簒者】として他者から奪った強大な力を誇示し、それを暴力としてぶつけることで敵を圧倒してきた。
だが、神の剪定者であるリオネイルや、真の魔人であるナルクといった「世界の理」そのものである存在を前に、借り物の魔力による暴力は通用しない。
ならば、すべてを捨てる。魔力というノイズを完全に削ぎ落とし、ただの「一本の肉体の伝導体」として、己の命そのものを物理的な一点へと集約させる。
「……ふむ。魔力を自ら放棄したか。絶望のあまり、自害を選んだというわけではなさそうだがね」
死体の玉座から見下ろすナルクの瞳に、かすかな、しかし確かな不審の色が走る。魔力が消えたアルスは、まるでそこにある風景の一部、あるいはただの物言わぬ石ころのように気配が希薄になっていた。
だが、その残された左拳にだけは、世界の質量すべてを凝縮したかのような、異様極まる「存在感」が宿り始めていた。
ギチ、ギチ、とアルスの左腕の骨が、過剰な負荷に耐えかねて悲鳴を上げる。
魔力を介さない、純粋な生物としての肉体の極限利用。寿命を燃やすことすら辞さないその精神力が、左拳の一点に、目に見えない「因果の歪み」を作り出していた。
「……おおおおおおおおおッ!!」
アルスが地を蹴った。
魔力の推進力はない。ただの脚力。だが、その踏み込みは不滅の岩肌を容易く踏み砕き、肉眼では捉えきれない速度へとアルスの身体を押し上げた。
隻腕となったことで、身体の軸は激しくブレている。真っ直ぐに進むことさえ困難なはずの、歪な突撃。
右腕の喪失による重心の狂いが、アルスの軌道を蛇のように不規則に揺らす。
「滑稽だね。そんなブレた一撃が、私に届くとでも――」
ナルクが冷酷に手を払い、絶対腐敗の障壁を前方に展開する。触れるものすべてを分子レベルで腐らせ、無へと帰す死の膜。
しかし、アルスはその障壁に向かって、ブレにブレる左拳を、ただ真っ直ぐに突き出した。
「【無魔の極点】……」
ズドォォォォォンッ!!!
アリウベラ洞窟全体が、これまでにない異質な衝撃に震えた。魔力が存在しないがゆえに、ナルクの「魔力を腐らせる」絶対腐敗の障壁は、アルスの拳を認識することができなかった。術式による防御が機能しない。
ただの「命の質量」が、障壁を物理的に突き破り、ナルクの胸中央へと真っ直ぐにめり込んだ。
「が、はっ……!? な、に……魔力が、ない、だと……!?」
真の魔人であるナルクの顔が、初めて苦悶に歪んだ。胸骨が砕ける生々しい音が響き、ナルクの身体が大きく、後ろへと揺らぐ。
アルスの一撃は、ナルクの「存在の根源」に、消えない亀裂を刻み込むことに成功したのだ。
「……今だ、ヒューガッ!!」
アルスが左拳を突き入れたまま、喉が裂けんばかりの声で叫ぶ。ナルクがひるみ、その絶対領域に決定的な「隙」が生じたその瞬間を、背後で待ち構えていた風来坊が見逃すはずがなかった。
「よくやった、アルス! あの爺さんの目に狂いはなかったってわけだ!」
ヒューガが背中の巨大な巻物を地面に叩きつけるようにして広げる。巻物には、現世の文字ではない、神代の術式がびっしりと書き込まれていた。ヒューガは右手の筆を噛み破り、自らの鮮血を墨として、猛烈な速度で空間に巨大な陣を描き殴る。
「【方術絶技・九頭龍神葬陣】!!」
ヒューガの叫びと共に、広げられた巻物から、金色の輝きを放つ九つの巨大な龍の頭部が具現化した。
それは光の魔力ではなく、この世界の「崩壊」をせき止めるために用意された、絶対的な『封印と滅殺』の術理。
咆哮を上げる九頭の光龍が、ひるんだナルクの肉体へと一斉に襲いかかった。
「……ぐ、うううぅぅぅッ!? 離せ、この、虫ケラどもがぁッ!!」
ナルクが周囲の瘴気を爆発させ、光龍を振り払おうとする。しかし、アルスがその左拳でナルクの肉体を固定し、自らの肉体を楔としてその場に留まり続けていた。
「離すか……! お前を、ここで、絶対に、殺す……!」
アルスの左腕からも、過剰な衝撃の反動で骨が皮膚を突き破り、鮮血が飛び散る。だが、その痛みがアルスの執念をさらに研ぎ澄ませる。
金色の光龍がナルクの四肢に噛みつき、その肉体を岩壁へと縫い止める。
ヒューガの方術は、ナルクの「再生能力」そのものを内側から書き換えていく性質を持っていた。噛みつかれた部分から、ナルクの黒い霧が金色の結晶へと変質し、ポロポロと崩れ落ちていく。
「……じわじわと、効いているな……。おい、魔人。お前にも、死の恐怖というものが、少しは理解できたか?」
ヒューガが筆を強く握り締め、さらに術式を追い込んでいく。ナルクの絶対的な余裕は、完全に消え去っていた。彼の瞳に宿る虚無の奥に、初めて「焦燥」と「怒り」の光が明滅する。
「……私を、このような、人間の小細工で……滅ぼせると思うなよ……!」
不滅の洞窟の崩落が最高潮に達する中、アルスの命を懸けた一撃と、ヒューガの絶技が、真の魔人を確実に、そして深く、深淵の底へと引きずり込み始めていた。
◇◆◇
九頭の光龍がナルクの巨体を不滅の岩壁に縫い付け、その肉体を結晶化させていく。じわじわと、しかし確実に、魔人の根源が削り取られていく音が洞窟内に響き渡っていた。
「……あ、ああ……信じられない……。あのナルクが、押し込まれている……?」
満身創痍のルーシェが、割れるような頭痛に耐えながらその光景を見上げていた。
彼女たちの知るナルクは、常に世界の「不在」として、触れることすら叶わない絶対的な絶望だった。それが今、人間の、それも隻腕となったアルスの執念によって、明確に傷を負わされている。
「ハァ、ハァ……! 若造、手を離して下がれ! これ以上は陣の余波でお前の魂まで消し飛ぶぞ!」
術式を維持するヒューガの顔面から血の汗が噴き出す。九頭龍神葬陣は、対象の因果ごと存在を消滅させる禁忌の方術。
その中心にいるアルスもまた、無事では済まない。
「……いや、まだだ。こいつの『芯』は、まだ折れていない……!」
アルスは左拳をさらに深く、ナルクの胸の傷口へとねじ込んだ。魔力を消したアルスの肉体は、今やナルクの腐敗の瘴気を直接浴び続けている。左腕の皮膚が黒く壊死し始め、肉が削げて白い骨が露出していく。
それでも、アルスの漆黒の瞳は一点の曇りもなく、魔人の顔を見据えていた。
「お前は言ったな、ナルク。……『抗えば抗うほど絶望が積み重なる』と。……だったら、その積み上がった絶望の山の上から、お前を地獄へ突き落としてやるだけだ」
「……小癪な、人間風情がぁッ!!」
ナルクの絶叫。
結晶化しつつあった彼の右腕が、無理やりその拘束をちぎり取り、アルスの細い首へと伸びる。黒い爪がアルスの皮膚に食い込み、首筋から激しい腐敗の煙が立ち上る。
「アルスーーーッ!!」
オルクスが微かに繋ぎ止められ、残された全筋力を振り絞り、這いずりながらもナルクの足を掴もうとする。アルベラもまた、混沌の魔力を無理やり指先に集め、ナルクの目を狙って小さな魔障の弾丸を放った。
パチン、と小さな音がして、アルベラの放った魔障がナルクの左目を直撃する。
僅かな、だが決定的な視界の遮断。
「……ぐ、ぬぅッ!?」
「終わりだ、ナルク。……お前の思い通りの世界なんて、どこにもない」
アルスは首を絞められ、息が途切れかける中で、左拳の奥にある「何か」を掴み取った。
それは、ナルクがこの洞窟と同期させていた、世界の腐敗を司る『中枢』
「【神簒者】……お前のその、世界の終わりを司る特権ごと、俺が全てを……簒奪するッ!!」
遮断していた魔導回路を、アルスは脳内で一瞬にして「全開」へと切り替えた。
無魔の極点から、一転して無限の暴食へ。
アルスの体内へと、ナルクの絶対腐敗のエネルギーが、濁流となって逆流し始める。
「な……貴様、正気か!? 私の腐敗をその身に受け入れれば、君の肉体は一瞬で――」
「壊れるなら、お前を道連れにしてからだ」
アルスの全身の血管が、赤紫色から完全な「漆黒」へと染まっていく。
ヒューガの金色の光龍が、その黒い泥のようなエネルギーと交じり合い、アリウベラ洞窟の最深部は、白と黒、金と紫が入り乱れる、完全な混沌の特異点へと変貌した。
バリバリと、空間そのものが引き裂かれる音が響く。不滅の洞窟の天井が、ついに完全に崩落を始めた。数千トンの岩盤が、彼らの頭上へと無慈悲に降り注ぐ。
「チッ、ここまでか……! 全員、俺の側に寄れッ! 空間転移を試みる!」
ヒューガが巻物を引き裂き、最後の防衛陣を展開しようとする。
激しい閃光と、全てを埋め尽くす土煙。
アルスの左拳がナルクの胸を完全に貫通した瞬間、世界は、白い爆発の中に飲み込まれていった。
――静寂。
耳を突き刺すような地鳴りも、ナルクの不快な笑い声も、すべてが遠い過去の出来事のように消え去っていた。
「……がはっ、……ぁ、……」
アルスが意識を取り戻したのは、荒涼とした、見渡す限りの灰の荒野の上だった。空はどんよりとした鉛色に曇り、太陽の光は届かない。アリウベラ洞窟は完全に崩壊し、彼らはヒューガの命懸けの転移魔術によって、辛うじて現世へと這い出してきたようだった。
「……生き、てる、の……?」
傍らで、ルーシェが砂にまみれた髪を払いながら、弱々しく呟く。彼女の横には、全身の皮膚がひび割れながらも、かろうじて心臓を動かしているオルクスの巨体があった。
「……アルス。おい、しっかりしろ」
ヒューガが、息も絶え絶えになりながらアルスの身体を仰向けにする。
その姿は、あまりにも凄惨だった。
右腕は根元から失われ、残された左腕も、ナルクの腐敗を直接喰らった影響で、肘から先が炭のように黒く変色し、感覚を失っている。髪の半分は真っ白に脱色し、その生命力は風前の灯火だった。
だが、アルスの左手の掌の中には、不気味に明滅する「黒い結晶の欠片」が握り締められていた。
「……ハ、ハハ……。やった、な……」
アルスの唇から、乾いた笑いが漏れる。
ナルクの完全な消滅には至らなかったかもしれない。だが、彼の権能の核である『腐敗の結晶』の一部を、アルスは確かにその身に【簒奪】したのだ。
「……アルス」
アルベラが、自らの胸の傷を抑えながらアルスの元へと這い寄る。彼女の千里眼は、もう機能していなかった。過剰な覚醒の代償で、その右目は光を失い、深い闇に閉ざされている。
それでも、彼女は残された左目で、アルスの生き様を、その消えゆく命の灯火をじっと見つめていた。
「あんたは……本当に、馬鹿な男ね。腕を失って、寿命を燃やして、そこまでして……何が残ったのよ」
「洞窟はもう、壊れちゃった」
「……何が残った、だと? ……決まっている」
アルスは、確かに口にした。
「……俺の、復讐の続きだ。……ナルクはまだ生きている。そして、あのガキ(リオネイル)も、教団の『聖』とかいう奴らも……全員、俺のこの残された命で、必ず喰らい尽くす」
「アルベラ、お前は此処にいる。洞窟が崩れようと、お前の意思は崩れないだろ」
片腕を失い、残された腕も死に体。
肉体はボロボロになり、文字通りの満身創痍。しかし、アルスの瞳の奥に灯る「神を簒奪する悪魔」の意志だけは、この灰の荒野の誰よりも、激しく、禍々しく、不滅の輝きを放ち続けていた。
「やれやれ……。本当に、あの爺さんの門下生は、どいつもこいつも業が深ぇな」
ヒューガが空を見上げ、苦笑する。
世界の理を司る『晩餐会』との戦いは、まだ始まったばかりだった。アルス一行は、あまりにも大きすぎる代償を支払いながらも、次なる地獄へと、その一歩を踏み出す。




