第33話 無駄なこと
アリウベラ洞窟の最深部。「不滅」の名を持つその場所は、今や現世に現れた地獄の様相を呈していた。
天井からは黒いヘドロのような液体が滴り、岩肌はナルクの放つ瘴気によって、ねっとりとした死の脂に覆われている。
「……はぁ、……はぁ、……がはッ!」
アルスは、黒く変色した自らの剣を杖代わりに、辛うじて膝を突かずに踏みとどまっていた。全身の皮膚は概念再編の過負荷で裂け、そこから銀色の光が血と共に霧散している。
視界の端では、オルクスが巨大な斧をナルクの障壁に叩きつけ続けているが、その攻撃は底なしの沼に石を投じるように、虚無へと飲み込まれていた。
「……無駄だ。オルクス。……お前の『力』も、ルーシェの『矢』も、こいつには届かない……!」
アルスが掠れた声で叫ぶ。
千里眼を持つアルベラは、魔力の逆流に吐血し、壁際に崩れ落ちていた。彼女の目には、数秒後の未来が、アルスたちの死体で埋め尽くされているのが視えていた。
「どうした? 復讐者。……君のその、自らの魂を削って生み出す『新しい魔力』。……もう少し、味わわせてくれると思っていたのだがね」
ナルクは死体の玉座に座ったまま、退屈そうに指先を動かした。瞬間、アルスの足元の影が鎌のように鎌首をもたげ、彼の肉体を切り裂こうと襲いかかる。
「【概念再編】――『重力』を『斥力』に変換ッ!」
銀色の閃光がアルスの周囲に爆発し、影の鎌を弾き飛ばす。だが、その反動でアルスは大量の血を吐き、視界が暗転しかけた。
彼が生み出せる魔力には限りがある。対して、ナルクの「腐敗」は、この世界が存在する限り無限に湧き出す。
「くそぉッ! 喰らえぇッ!」
オルクスが障壁を突破し、ナルクの脳天を目がけて斧を振り下ろした。
――しかし。
斧がナルクの体に触れる直前、その肉体は黒い霧へと霧散した。
「……え?」
「遅いよ。オーガのガキ」
オルクスの背後に現れたナルクが、その背中にそっと手を触れる。
瞬間、オルクスの屈強な肉体が、内側からボロボロと崩れ始めた。皮膚が灰になり、骨が砂となって崩れ落ちていく。
アルスはオルクスが死なぬように、腐食を肩代わりする。
「……あ、が、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
「オルクス!!」
ルーシェが絶叫し、渾身の力を込めて矢を放つ。その矢には、彼女が持つ全ての魔力を解体した「必殺」の術理が込められていた。
矢はナルクの眉間を正確に貫いた。
「……やったか?」
「ふむ。……概念を貫く矢か。面白い。……だが、君という『器』が、その一撃に耐えきれなかったようだね」
眉間を貫かれたナルクは、何事もなかったかのように矢を引き抜き、塵へと変えた。
対して、ルーシェはその場に崩れ落ちた。過剰な魔力解体に肉体が耐えきれず、全身の血管が破裂していた。
効いているのかさえ分からない。
アルスたちが命を削って放つ一撃が、ナルクという無限の虚無に飲み込まれていく。その徒労感が、物理的な攻撃以上にアルスたちの精神を蝕んでいた。
「……はは、……あははは!!」
ナルクが狂ったように笑い出した。
「素晴らしい! 仲間の死、自らの無力、積み重なる徒労……! これだ、これこそが、私が求めていた『最高の絶望』だ!」
ナルクが玉座を立ち、両手を広げる。
洞窟内の瘴気が一箇所に集まり、巨大な黒い太陽へと姿を変えた。
「さあ、アルス。君の全てを、その仲間たちの絶望ごと、私の『腐敗』の一部にしてあげよう」
ナルクが黒い太陽をアルスへと放つ。
防ぐ術はない。概念再編の回路はすでに限界を超え、アルスは動くことすらままならなかった。
絶体絶命の瞬間、アルスの脳裏に、かつて自分が裏切られた祝勝会の記憶が蘇った。
(……俺は、ここで終わるのか。……あいつらを、守れずに……)
黒い太陽がアルスを飲み込もうとした、その時。




