第32話 そして深淵との邂逅
「……まずは、その目障りな『略奪者』の首から片付けようか」
給仕係が教典を開き、数十本の鋼針がアルスの急所を狙って一斉に射出された。アルスは避けない。否、避ける体力も魔力も、すでに枯渇しているかに見えた。
だが。
針がアルスの心臓を貫く直前、彼の胸元から銀色の火花が散った。
「……言ったはずだ。俺の力は、世界から『借りる』ものじゃない」
アルスの右腕が、焼けるような音を立てて変質していく。外部の魔力を使えないなら、自らの血を、骨を、そして内側に溜め込んだ『絶望』そのものを燃料に魔力を錬成する。
師匠との修行で得た、閉鎖型魔導回路。
「【概念再編】――」
ガキィィィィンッ!!
アルスは素手で鋼針を叩き落とした。いや、彼の腕が動いた瞬間、衝撃波が針を粉砕していた。
一歩。踏み出した足元の石畳が、過剰なエネルギーに耐えきれず結晶化して爆ぜる。
「な、何だと……!? 封印の中で、なぜ独自の魔力波形が維持できる!」
「お前たちが神と崇めるガキが、俺に言ったんだ……『もっと美味しくなってから遊ぼう』と」
アルスは吐血しながらも、止まらない。
内側から作り出した魔力は、アルスの肉体をも内側から焼き切っていく諸刃の剣。皮膚が裂け、銀色の光が傷口から漏れ出す。一秒ごとに寿命を削るような、文字通りの命懸けの駆動。
「黙れ! 異端者がぁッ!」
給仕係が焦燥に駆られ、数千本の針を嵐のように放つ。アルスはそれを正面から受けながら、強引に距離を詰めた。肩を、脇腹を、針が深く貫通する。だが、その痛みのエネルギーさえも、アルスの回路は「推進力」へと書き換えていく。
「これで……これで、終わりだ」
ゼロ距離。アルスの右拳が、給仕係の胴体を貫通した。
「……あ……が……」
「【簒奪】」
アルスの拳から銀の奔流が流れ込み、給仕係の体内にあった封印の術理を逆流させ、内部から爆破する。
激しい閃光と共に、給仕係は小屋の壁を突き破って吹き飛んだ。
檻が消え、魔力が戻る。
アルスはその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。右腕は炭化し、全身の血管が浮き出ている。
勝利はした。だが、それは文字通り魂を削り取って得た、あまりにも代償の大きい辛勝だった。
「アルス……!」
駆け寄るルーシェの声を遠くに聞きながら、アルスは震える手で、拳を強く握りしめた。まだ、倒れるわけにはいかない。深淵で待つ、本当の絶望を喰らうまでは。
「あ……が、は……。あり、えない……この、神聖な、檻の中で……魔力を……」
晩餐会の給仕係だった男は、大部分が灰になりながらも信じられないものを見る目でアルスを見上げていた。
アルスの右腕から溢れ出す銀色の魔力をアルベラたちは見つめる。
「……お前の主に伝えろ。食べ残しを片付けるには、お前では毒が強すぎたと」
アルスが手をかざすと、概念再編された魔力が『重圧』へと姿を変え、男の肉体を塵へと変えた。封印の檻が霧散し、周囲に静寂が戻る。
「師匠……!!」
アルスは急いでただの老人と成り果てた師匠の元へ駆け寄った。だが、魔力を失った肉体はすでに限界を超えていた。師匠は満足そうに細く目を開け、アルスの右腕に触れる。
「……見事だ。お主は、奪うだけの獣から、自らを生み出す……真の魔導師になった。……行け、アルス。世界は、お主が思うより……広く、そして、残酷だ……」
その言葉を最後に、師匠の体は一陣の灰となって風に消えた。悲しみに暮れる間もなく、死んだ給仕係の胸元から魔法映像が投影される。
「おやおや、これが流れたのなら給仕係は死んだのだな?給仕係が敗れるとは。所詮は下っ端か」
映し出されたのは、それぞれ異形な仮面を被った男女の集団だった。
「アルスと言ったかな? 我ら『晩餐会』の上位、各々が世界を裁く権利を持つ者……『聖』。我らが『ジャッジ』の能力に、貴様のまやかしがどこまで通じるか、楽しみにしているよ」
映像が途切れ、アルスは拳を握りしめた。
アルベラとルーシェがようやく息を吹き返し、オルクスが悔しそうに頭を垂れる。
「アルス様、師匠が……。それに『聖』とかいう奴ら……」
「……立ち止まっている暇はない。師匠が命を懸けて教えてくれたこの力を、あいつらに叩きつけてやる」
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アリウベラ洞窟への道中、ナルクの毒が支配する沈滞した空気の中を、一行は一歩ずつ踏みしめるように進んでいた。
先ほどの給仕係との死闘で負った傷が、アルスの身体を蝕んでいる。概念再編で無理やり生み出した魔力の反動は凄まじく、時折、全身が痺れるような痛みが走る。
「……アルス、無理をしないで。少し休んだほうが……」
背後から付き添うアルベラが、心配そうに声をかける。その瞳は、いつになく揺れていた。
「……問題ない。それより、あの洞窟はまだ遠いのか」
「いいえ、もうすぐよ。」
「……………」
「……ねえ、知ってる? 私の『アルベラ』っていう名前、あの洞窟から取られたものなのよ」
ふとした沈黙を埋めるように、アルベラが静かに語り始めた。
「アリウベラ洞窟。あそこはね、世界がどれだけ腐敗しても、ナルクの毒に侵されても、決して廃れることがない『不滅の地』って言われているの。どんな絶望もあそこだけは浸食できない。だから、私の親は……私がどんなに過酷な運命に晒されても、決して壊れないようにって、その名を授けたんですって」
アルベラは自嘲気味に、だがどこか愛おしそうに目を細めた。
「魔族に道具として扱われ、ボロボロになっていた私をあんたが見つけた時……私、自分の名前が嫌いだった。全然、不滅なんかじゃない、ただの壊れたガラクタだと思ってたから」
アルスは足を止めず、だが、その言葉を噛みしめるように聞き入っていた。
「……だが、お前は今ここに立っている。ナルクの毒にも、リオネイルの破壊にも屈せずに」
「そうね。あんたがあの日、私を助けてくれたから。……アリウベラ洞窟が腐敗に負けないように、私も、あんたの隣にいる限りは絶望に飲まれない。この名前を、今は少しだけ誇らしく思えるの」
アルベラの言葉に、ルーシェとオルクスも静かに頷く。
「不滅の洞窟、か。なら、そこを根城にしているナルクは、皮肉にも『最も腐敗させられない場所』に閉じこもっているということだな」
アルスが前方の闇を見据える。その視線の先には、ついにアリウベラ洞窟の不気味な入り口が、腐敗の霧を切り裂くように姿を現していた。
「皮肉だな。腐敗の王が、不滅の地に居座るとは。……だがあの洞窟の名前通り、俺たちの意志が折れないことを証明してやる」
アルスの右腕に、銀色の術式が再び微かな光を宿す。不滅の名を持つ少女と共に、一行はついに、腐敗の根源が待つ深淵へと足を踏み入れた。そこは、この世のあらゆる「腐敗」を凝縮したような空間だった。天井からはどす黒い液体が滴り、空気そのものが肺を焼く。
その中心。
死体で築かれた玉座に座り、退屈そうに指を動かす一人の男がいた。
「……ようやく来たか。遅かったじゃないか、復讐者」
男が顔を上げる。その瞳には、光も闇も存在しない。ただ、すべての生命を腐らせ、沈殿させる「虚無」だけが宿っていた。
「お前が……ナルクか」
「そう呼ぶ者もいる。あるいは『世界の終わり』と呼ぶ者もいるがね。……アルス、君の右腕。ずいぶん面白い色だな。私の『腐敗』に耐えられるか、試させてもらおう」
ついに始まった。
裏切りから始まったアルスの旅は、世界の腐敗を司る魔の中心地――ナルクの深淵へと、その刃を届かせる。
ナルクが退屈そうに指を弾くと、漆黒の飛沫がアルスの右腕に触れた。瞬間、銀の魔力と黒い腐敗が衝突し、空間が歪むような異音を立てる。
「ほう……私の腐敗を、その場で『書き換えて』いるのか。だが、それは自分の肉体をミキサーにかけるようなものだぞ?」
ナルクの指摘通り、アルスの右腕からは血が噴き出し、再生と崩壊がコンマ数秒の間で数千回繰り返されていた。
「……ミキサー、か。上等だ。お前のその『虚無』も、俺の回路に放り込んで、別の何かに作り替えてやるよ」
アルスの瞳が銀色に燃え上がる。
奪った魔力ではなく、自らの命を燃やして奏でる不協和音。それは世界の理を拒絶する、たった一人の反逆者の産声だった。




