第29話 略奪者
アルスは老人の放つ「静寂」に圧倒されていた。ナルクの腐敗、リオネイルの破壊――それら世界の終わりを象徴する力の中にありながら、この老人の周りだけは、まるで最初から何も起きていないかのような、完全な平穏が保たれている。
「……探しに行くと言った。離せ」
アルスはなおも立ち上がろうとするが、老人はただ静かに首を振った。
「今のお主が行けば、待っているのは再会ではなく、残された者たちの完全な絶望だ。……『略奪者』よ。お主は奪うことには長けているが、その奪った力を『生かす』術を、何一つ知らぬ」
「なんだと……?」
「リオネイルの『メテオ』。あれは魔力ではない。世界そのものを構成する『法則』の行使だ。それに対し、お主はただ大きな闇の塊をぶつけたに過ぎん。……そんなものでは、あの幼子(神の剪定者)の指先一つ動かせぬよ」
老人の言葉は、鋭い楔のようにアルスの胸に突き刺さった。
自分の最強の切り札であったはずの【略奪者】。しかし、リオネイルの圧倒的な純粋さを前に、その力はあまりにも無力だった。
「……なら、どうすればいい。俺にはもう、時間がないんだ。仲間が……アルベラたちが、どこかで死にかけているかもしれないんだ!」
「案ずるな。あの二人は、リオネイルという少年が、別の場所へ運んだ。だが、少年は悪ではない。今は生かされておるよ。……だが、再会した時にお主が今のままなら、次こそ守れぬ」
「あの少年の目的は、お主を壊すことだけだろう」
老人はそう言うと、持っていた杖をスッと横に振った。瞬間、小屋の空気が一変する。
「魔法とは、奪うものでも、与えるものでもない。そこに『在る』ことを許容し、世界と呼吸を合わせることだ。……お主に、真の魔法の極意を授けよう。善意などという安っぽい言葉では足りぬが……お主が背負った『リリィの面影』に免じてな」
老人の正体――それは、光でも闇でもない、この世界の理そのものを読み解き、数千年の時を隠者として生きてきた伝説の魔導師だった。
「……教えろ。俺を強くしてくれるなら、何でもする」
「何でも、か。ならばまず、その『奪う事』を辞める覚悟を持て。空っぽの器にしか、真理は注げぬからな」
アルスは、痛む右腕を見つめる。
そこには、里の少女から奪った悲しみと、ナルクの毒がどす黒く渦巻いている。老人はアルスの額に指を置いた。その瞬間、アルスの脳内に、これまで経験したことのないほど「透明」で、重力すら感じさせない純白の魔導回路が奔流となって流れ込んできた。
「……っ、あああああ!!」
激痛ではない。全身が、文字通り「書き換えられていく」感覚。
【略奪者】という強欲なシステムが、老人の授ける「無」の極意によって洗練され、進化を始める。
ルーシェは、傍らでその光景を息を呑んで見守っていた。
アルスの周囲に渦巻いていた禍々しい闇が、次第に細く、鋭く、そして鏡のように澄んだ「深淵」へと凝縮されていく。
これが、後にアルスが『師』と仰ぐことになる男との、地獄の修行の始まりだった。




