第26話 泥濘の精神路
エルフの里から毒を吸い尽くしたアルスの右腕は、もはや人の肌の色を失っていた。どす黒い痣が首筋まで這い上がり、一歩踏み出すごとに、肺の奥から血の混じった黒い霧が漏れ出す。
「……場所は、特定した」
アルスは、地図の北端に位置する、古の魔力が淀むという『アリウベラ洞窟』を指差した。
千里眼で辛うじて捉えた、ナルク・シェンリルの残滓。奴はそこから一歩も動かず、蜘蛛が巣を広げるように、世界中に自らの「不在の絶望」をバラ撒いている。
「行くぞ。……あいつを、引きずり出す」
アルスは、オルクスに預けていたエルフの幼子が安らかに眠っているのを一度だけ確認し、歩き出した。
だが。
「……なんだ、これは」
里の境界を一歩踏み出した瞬間、アルスの足が、まるで底なし沼に沈み込んだかのように重くなった。
道は平坦なはずだ。だが、彼の視界には、アリウベラ洞窟へと続く道が、数万年かけても辿り着けないほど果てしなく、歪に引き伸ばされているように映る。
「アルス、止まらないで! 周囲の空間が、ナルクの権能で歪められているわ!」
アルベラが叫ぶ。
これは物理的な障害ではない。ナルクの持つ『停滞』の権能――「何をやっても無駄だ」「目的地など最初から存在しない」という絶望のイメージが、アルスの歩みそのものを否定しているのだ。
一歩。
アルスの脳裏に、かつて裏切られた祝勝会の記憶が蘇る。ガイルの嘲笑、アリシアの冷たい背中。
「……くっ……」
さらに一歩。
今度は、先ほど吸い取った幼子の「親に捨てられた悲しみ」が、アルスの心臓を内側から針で刺すように襲う。
歩みを進めるたびに、アルスがその身に宿した「他者の絶望」が具現化し、彼の四肢に絡みつく鎖となる。
里を出てから数時間が経過したはずだった。だが、振り返れば、そこにはまだ里の入り口が目と鼻の先に見えていた。一向に進んでいない。世界そのものが、アルスがナルクに辿り着くことを拒絶している。
「……無駄だ。お前の心臓が、もう悲鳴を上げている」
ルーシェが、震える手で弓を構えながら呟く。彼女もまた、この停滞の空間に精神を削られ、瞳から生気が失われつつあった。オルクスも巨大な斧を杖にして立ち尽くし、荒い息を吐いている。
「アルス……。貴殿が背負った毒が、あまりに重すぎる。……それを一人で抱えたまま、あの洞窟へ辿り着くなど……不可能だ」
「不可能だと? ……そんな言葉、とうの昔に捨ててきた」
アルスは、血に濡れた地面を力任せに踏みつけた。視界が笑い、視界が明滅する。ナルクの囁きが聞こえる。
――「なぜ戦う?」「復讐は終わっただろう?」「お前が救おうとしているこの世界は、明日にはまた誰かを裏切るぞ」
「黙れ……。俺が歩くのは、誰かを救うためじゃない」
アルスは、右腕にのたうち回る黒い血管を、左手で強く掴んだ。略奪したはずの「絶望」が、逆にアルスを略奪しようと牙を剥く。
「俺がこの絶望を喰らったのは……あの子が、二度とこんな思いをせずに済むようにするためだ。……たったそれだけだが、この想いが俺を突き動かす、俺はこの地獄を、一歩ずつ踏み潰して進む!」
アルスの足元から、漆黒の魔力が火花のように散る。停滞する世界を、アルス自身の「執念」が力ずくでこじ開けていく。
しかし、アリウベラ洞窟への道のりは、まだ遠い。一向に進まない時間の中で、アルスの肉体は、徐々に「人間」の限界を超えて崩壊し始めていた。




