第23話 毒の芽吹き
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空は白々とした虚無の色をしていた。『聖剣オーラ』という巨大な偽光が砕け散った後、旧王都グランセルの廃墟に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、泥のように重い空気だった。
「……終わった、の……?」
アルスの腕の中で、アルベラが弱々しく睫毛を震わせる。彼女の胸の傷は、アルスの涙と魔力によってかろうじて塞がっていたが、その生命力の灯火は今にも消え入りそうだった。
アルスは答えなかった。いや、答えられなかった。
オーラという「象徴」は排除した。民衆の熱狂も冷め、残ったのは自分たちの醜い加害の記憶だけだ。しかし、アルスの鋭敏な感覚――【略奪者】が捉える因果の糸が、不気味なほど激しく波打っている。
(……何かが、おかしい)
勝利の余韻など微塵もない。むしろ、オーラが消えたことで、この世界を縛っていた最後の「蓋」が外れたような、不吉な解放感。
アルスは周囲を見渡した。騎士たちの死体、崩れた石壁、そして自分たちの流した血。それらすべてを、見えない「何か」が浸食し始めている。
ふと、鼻をつく異臭がした。
それは血の鉄臭さでも、死体の腐敗臭でもない。もっと甘ったるく、脳の奥を痺れさせるような……熟れすぎた果実が腐り落ちる直前のような、甘美な猛毒の匂い。
「アルス……逃げ……て……。何かが、来る……」
アルベラの千里眼が、恐怖に大きく見開かれる。彼女の視界には、物理的な風景を上書きするように、真っ黒な蔦が世界を包み込み、人々の魂を内側から腐らせていく「最悪の近未来」が映っていた。
――ガサリ。
瓦礫の山から、場にそぐわないほど軽やかな足音が響いた。現れたのは、一人のエルフの女だった。
エルフといえば、森の静謐と清廉さを象徴する種族。しかし、目の前の女――ルーシェの姿は、その常識を嘲笑っていた。
彼女の美しい金髪は泥と煤に汚れ、その背に背負った弓には、おぞましい赤紫色の液体が滴る植物の蔓が巻き付いている。
「……また、一人。毒に当てられた『聖者様』がお目見えね」
ルーシェはアルスを一瞥し、低く、冷え切った声で吐き捨てた。その瞳は濁り、同胞をすべて失った者特有の、底知れない虚無を湛えている。
「貴様、何者だ。この異臭はお前の仕業か?」
アルスが低い声で威圧する。だが、ルーシェは怯むどころか、歪な笑みを浮かべた。
「私の毒? 冗談はやめて。私はただ、この地に蔓延り始めた『王』の毒を、自分で薄めているに過ぎないわ。……聞こえないの? 地の下で、あの男が嗤っている音が」
ルーシェが指し示した大地が、不気味に脈動を始める。直後、廃墟の向こう側から、巨大な影が地響きと共に現れた。
「……誇りなき毒などに、我が身を腐らされてたまるかッ!」
咆哮と共に現れたのは、一人のオーガだった。名はオルクス。かつて魔王軍で勇名を馳せた剛腕の戦士。しかし、今の彼の屈強な肉体には、黒い痣のような模様が血管に沿って浮き出ており、苦痛に顔を歪めている。
彼は手にした巨大な斧を杖代わりにし、今にも崩れ落ちそうな体を支えていた。
「ルーシェと言ったか。……この『見えない毒』の正体を知っているのか」
アルスが問う。ルーシェは、不気味に広がり続ける甘い匂いの中心――グランセルの地下へと続く大穴を見つめた。
「大罪の王、ナルク・シェンリル。……人の欲望と絶望を糧にする、最古の毒の根源。オーラという光が消えて、この世界に『救いがない』と人々が確信した瞬間、奴の揺り籠は完成したのよ」
姿は見えない。しかし、確かにそこにいる。人々の心に忍び込み、「どうせ世界は腐っている」「自分だけが良ければいい」という甘い囁きを広げ、自滅へと誘う見えない王。
アルスは、背後のアルベラをさらに強く抱き寄せた。裏切り、復讐、偽善。その果てに辿り着いたのは、平和ではなく、すべてを腐らせる虚無の王の目覚めだった。
「毒をもって、毒を制す……か」
アルスは、自身の【略奪者】を静かに起動させた。正義でも光でもない。この世で最も汚れた闇だけが、あの見えない猛毒に抗える唯一の対抗手段であると、本能が告げていた。
「エルフ、そしてオーガ。死にたくないなら俺の影に入れ。……今この時から、俺がこの世界の『猛毒』を引き受ける」
アルスの漆黒の瞳が、地下から溢れ出す不可視の悪意を真っ向から捉えた。姿なき敵、ナルク・シェンリル。その心臓を略奪するための、絶望的な追跡が幕を開ける。




