第21話 瞳の共鳴、泥濘の中での対話
王都グランセルの喧騒を遠く離れ、湿った風が吹き抜ける打ち捨てられた廃教会。アルスは、抱え上げたアルベラの細い体を、埃の積もった祭壇の上へと無造作に下ろした。
「……っ、がはっ……」
アルベラの口から、せり上がるような鮮血が零れる。拘束具からは解き放たれたものの、長年「道具」として魔力を搾り取られ続けた彼女の肉体は、枯れ木のように脆くなっていた。
内側から刻まれた抽出用の術式が、今もなお彼女の生命力を蝕んでいる。アルスは無言で彼女の胸元に手をかざした。
「……待って。殺すなら、……もっと、綺麗な場所が……よかったわ……」
アルベラが、霞む視界の中で皮肉げに唇を歪める。だが、アルスの手から放たれたのは、死を招く闇の刃ではなかった。
「【略奪者】――対象の『損傷』を、俺の『余剰魔力』で上書きする」
アルスの指先からドロリとした漆黒の魔力が流れ込み、アルベラの体内に残る醜い術式の痕跡を、力ずくで塗り潰していく。それは治癒魔法と呼ぶにはあまりに強引で、痛みを伴う「侵食」だった。
「……あ、あぐっ……! はぁ、はぁ……貴方、本当に……情けの欠片も、ないのね……」
「情けなど、死んだ故郷に置いてきた。……お前を生かしたのは、その『目』が使えると思ったからだ」
アルスは冷たく言い放ち、祭壇に背を向けて座り込んだ。アルベラは荒い呼吸を整えながら、自分を救ったはずの男の背中を見つめる。漆黒の鎧の隙間から見える肌には、かつての勇者の面影などない。ただ、世界への呪いだけを燃料に動いている、精巧な亡霊のようだった。
「千里眼の、アルベラ……。魔族の連中は、お前をそう呼んでいたな」
「ええ。……視たくもない未来を、無理やりこじ開けられるだけの……呪われた目よ。でも、今の貴方の背後には……何も視えない」
アルベラは、震える手で自分の紅い瞳に触れた。彼女の目には、通常、あらゆる事象の「確定した結末」が色彩として映る。だが、アルスの周囲だけは、光さえも吸い込まれる絶対的な無色――虚無だけが渦巻いていた。
「貴方は、運命の糸を……その手で引き千切っている。神が書いた筋書きを、泥靴で踏みにじりながら……」
「神だと? そんなものは、裏切り者共の都合のいい言い訳の中にしかいない」
アルスが振り返る。その瞳に宿る暗い熱に、アルベラは胸の奥が疼くのを感じた。それは、彼女が「道具」として扱われていた時に感じた屈辱的な痛みではなく、未知の毒に侵されるような、抗いがたい高揚感だった。
「アルス……。貴方は、あの王を殺しただけでは満足しないはず。……貴方の喉を焼いているその渇きは、もっと……世界そのものを、絶望で満たさなければ癒えない……そうでしょう?」
「……。お前は何が望みだ、魔族の女」
アルベラは、祭壇の上でゆっくりと身を起こした。ボロボロの衣服から覗く白い肌には、まだ術式の痣が残っているが、その瞳には力強い輝きが戻っていた。
「私は、退屈していたの。……決まりきった悲劇、予定調和な裏切り。そんな泥濘の中で、貴方という『劇薬』が投げ込まれた」
彼女は裸足のまま床に降り、アルスの元へ歩み寄る。そして、彼の無骨な右手に、自分の細い指を重ねた。
「私は貴方を助けない。慈悲も、救いも与えない。……その代わり、貴方が世界を壊し、最後に自分自身さえも壊すその瞬間まで、私は貴方の傍で……最高に美しい『終わり』を観測してあげる」
それは、愛の告白よりもおぞましく、どんな呪いよりも強固な契約の言葉だった。
「……ふん。観客を一人雇う余裕くらいは、今の俺にもある」
アルスは彼女の手を振り払うことなく、ただ、静かに目を閉じた。
復讐者と観測者。
血の臭いが染み付いた廃教会の地下で、二人の魂は、深い泥濘の中で一つに重なった。




