あの日の退路を、二人で歩く
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:自治市ソルヴィアで独立を目指す解呪師。実技の判断欄を通過し、エルナと黒槍の塔の外まで来た。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。呪いは残るが、杖と戦術でリオを護衛している。
塔の外で最初に探したのは、入口ではなく、腰を下ろせる石だった。
森を抜けた風が、汗の残るリオの首筋を冷やす。エルナは崩れた石垣の陰を選び、杖で足元の草を払った。頭上に浮いた石はない。道と塔の両方が見え、先ほど渡った浅瀬へも戻れる。
それを順に確かめてから、彼女は鞄を下ろした。
「座って。靴、片方ずつ乾かそう」
「エルナさんは」
「私も。あんまり立派に立ってると、そっちが座らないから」
言いながら、彼女が先に石へ腰を下ろした。
リオも隣の低い所へ座る。靴を脱ぐと、指先へ風が通った。渡れた時には気づかなかった冷たさが、靴下へまとわりついている。
こんな小さなことを放っておくだけで、帰りの一歩が変わる。
瓶の包みを検め、割れも漏れもないことを確かめた。薬材へ手を掛ける用事は、まだなかった。
エルナが平たい包みを開いた。
報告書の写しは、街の机で見た時より白く見える。後ろに本物の塔が立つと、紙の黒い線はずいぶん頼りない。
「ここを、外郭の西側として見ていいでしょうか」
リオが図の角を示すと、エルナはすぐ答えず、塔へ顔を向けた。
灰金の髪の細い束が、頬へ張り付いている。左の指で払ってから、彼女は四角い石の継ぎ目を指した。
「あの出っ張りなら、図にもある。まず、あれを合わせよう。入口だと思う所から数えると、最初から違った時に戻れない」
リオは図を回した。
四角の向きと、斜面の傾き。建物だけを上から描いた図には、その下の地面がどれほど落ちているかまでは載っていない。
塔を見上げていた目を、いったん低くする。
出っ張りの下には、細長い影があった。
*
写しの頁を揃えると、途切れている場所が二つあった。
一つは、個人の連絡先を除いたと書かれている所。もう一つは、元の綴じ紙に頁が残っていなかったという所だった。
リオは、それぞれ違う印を控えへ付けた。
「無い所へ、何が書いてあったと思う?」
彼女は紙を見たまま訊いた。
試すような声には聞こえなかった。自分でも、何度もその空白を見てしまった人の問いだった。
「分かりません。退却の続きがあれば、助かるとは思います。でも、欲しいことと、書かれていたことは、別なので」
「うん。私も、帰りの道だと思いたくなる」
エルナは膝の上で左手を開いた。
その掌に、紙の影が落ちる。
「あの日、前を向いて歩いた人と、私が見た物は違う。私の話を足せば、全部繋がるわけじゃない」
「でも、エルナさんが見た分は、ここにありません」
リオは、外郭図の下にある短い一行を示した。
負傷者を伴って外へ退いた。そこには、そう記されている。
誰が、どこで振り返っていたかは、書かれていなかった。
「この一行に入らなかったことを、いま聞けています」
彼女の指が、一度だけ紙の端を押さえた。
「書かれてないから、無かったことじゃないか」
「はい。僕が聞かなかったことも、無かったことにはなりません」
言い終えて、リオは自分の控えへ目を落とした。
院で書いた患者の記録にも、同じような短い行がいくつもある。歩行可能。道具の使用に制限。仕事を休んでいる。
正しい言葉でも、その人が帰る道の幅までは書けていないことがあった。
靴下を裏返すエルナの手を見てから、彼はペンを持った。
この場で聞いたことを、後から自分の解釈だけで綺麗にしないように。
*
歩き直したのは、靴の中の冷たさが引いてからだった。
塔の周りを一周するつもりで出たわけではない。図と同じ出っ張りを、もう少し近くで、外から見る。
エルナが先に足場を選び、リオはその後ろで、石の影が斜面へ落ちる向きを控えた。
乾いた草の匂いの奥に、湿った土の匂いがある。
影の底へ、細い水が走っていた。
「水路でしょうか」
「近づくのは、上から。下へ降りないで」
彼女が杖を斜面へ差し、土が崩れない所を選ぶ。
二人が並べる広さで止まると、細い溝の上へ、古い石の蓋が続いていた。一枚だけ端が落ち、間から水が見える。
流れが、蓋の下で低い音を立てていた。
エルナの足が止まった。
「どうしました」
「……この音」
その先が出てくるまで、リオは待った。
風で紙が鳴りそうになり、胸へ寄せて押さえる。塔の方には、まだ何も動いていなかった。
「戻る時、足の下で鳴ってた。橋の板だと思ってたけど、石の下でも、こんなふうに響くんだね」
彼女は蓋へ踏み出さなかった。
そのまま、溝の先を目で辿る。斜面を横切った線は、灌木の奥で、石垣の切れ目へ入っていた。
塔の正面からは見えない、低い道だった。
「あの切れ目まで、外側を見たい。今日は、蓋の上には乗らない」
「僕も見たいです。戻る所は、この二本の木で覚えておきます」
リオは、並んだ幹を図の外へ足した。
印を付けたあとで、振り返る。元の石垣が、まだ見えている。
線を引いたから歩けるのではない。歩いて見えた所へ、線を引いていた。
*
石垣の切れ目は、人が一人ずつ通れる幅だった。
足元には、苔のない細い帯が残っていた。近くの獣が通ることもあるのだろう。古い人の足跡だけを、いままで大切に残した道ではない。
エルナは腰を落とし、道の上ではなく、横の石へ手を置いた。
地面の幅を確かめるように、指を開く。
「ここなら、二人で抱えた人は、そのままじゃ通れない」
「向きを変える必要がありますね」
「ここも、曲がると見えなくなるんだね。あの時、皆の背中が消えて、遅れたと思って……」
言葉が短く切れた。
リオは、切れ目の向こうを見た。
道はすぐ脇へ折れている。塔へ向かう方から見れば、人が二歩進むだけで、その姿は石垣へ隠れる。
立つ高さを変えると、見え方も変わった。
「ここにいる人からは、向こうの人の足が見えません」
「……そうだね」
「皆さんがどの速さで動いていたかは、分かりません。でも、見えなくなったのが、離れたからだけとは限らないです」
エルナは返事をせず、腰を上げた。
次に、自分から半歩、横へ動いた。見えていた道の先が消え、少し戻ると、また現れる。
彼女は二度、それを確かめた。
「私、背中を見てた。見えなくなったら、もう少し下がらなきゃって。それから、腕が動かなくなって……あとは、声のする方へ」
リオは、すぐに記録へ書かなかった。
彼女が息を継ぐのを待つ。
「今の話、この切れ目の所へ添えていいですか。場所が同じかどうかは、まだ分けたままで」
「いい。そう書いて。ここだって、決めてほしいわけじゃない」
彼女が目を戻したのは、塔ではなく、リオの紙だった。
その見える所へ、彼は一行ずつ書いた。
音の記憶。石の蓋。曲がり角で視線が途切れること。
そして、当日の経路との一致は未確認、と添える。
エルナが頷いた。
「覚えてない所、今日も残ったね」
「はい。でも、この角で、見えなくなることは分かりました」
「そっちは、今日の私が見た」
声は静かだった。
言い終えた彼女は、右腕へ左手を添えなかった。左の杖を土へ下ろし、帰る方の石を一つ、目で確かめた。
*
塔の壁へ近づく道は、切れ目の先にも続いていた。
ただし、草の奥へそのまま歩けばよい道ではない。崩れた石の下には、小さな空洞があった。エルナは杖の先で縁を示し、外側の硬い所へ足を回す。
リオは追ってから、壁を見上げた。
継ぎ目を走る浅い溝が、石の角を曲がっている。
文字のように並んではいない。何本かが、壁の低い所へ集まっていた。
「あの筋を、写しておきたいです」
声が、少し早くなった。
エルナはすぐ壁へ寄らず、先にリオの立っている場所を見た。
「そこから届く分だけ。石へ手を置く前に、何を見るのか言って」
リオは、伸ばしかけた手を引いた。
触れなければ見えない距離ではない。細部を急いで欲しがっただけだった。
「溝の行先と、表面の傷です。いまは、触らずに写せます」
「分かった。私も、傷の方を見る」
壁には、細い欠けが幾つもあった。
雨で丸くなった古い縁も、角の残った物もある。リオには、どれが剣で、どれが崩れた石で出来た傷か、見ただけでは言えなかった。
エルナも、一つだけを見て、あの日の物だとは言わない。
「武器を当てたように見える所はある。でも、私たちより前に来た隊もいる。私の剣の傷だとは、書かないで」
「形と高さだけ残します。筋を横切っている所も」
図へ写すと、壁の溝が、ただの線ではなくなった。
表面の欠けを避けて曲がった物がある。逆に、溝の上から傷ついたように見える所もある。
造られた時から全部同じ形で残っている壁ではなかった。
誰かがここへ手を入れたのか。石を積み直しただけなのか。
いま答えを選べば、紙を綺麗にするために、目の前の傷を削ることになる。
「この線が光った、と覚えている形に似ていますか」
「近い。でも、私が見たのは、もっと奥。光る前の壁を、こんなふうに見てはいなかった」
「ありがとうございます。外の筋と、奥で見た光は、分けます」
エルナは壁から目を戻した。
「似てるって言った時、少し嬉しそうだったね」
「……はい。探している物が、すぐ繋がる気がして」
「私も、繋がってほしい。でも、違ったら、違う方を残して」
リオは頷いた。
治せると言うために連れてきた人ではない。この人と確かめるために、ここまで来たのだ。
*
壁の図を閉じる前に、エルナがリオの紙を覗いた。
「曲がり角、もう少し書き足していい?」
彼女が示したのは、石垣の切れ目だった。
平たい図へ道を曲げて描いただけでは、向こうの人が見えなくなる高さまでは伝わらない。
リオは横に小さく、立った人と、石垣の上端を描いた。
「下から見た方も、要りますね」
「うん。図を受け取った人が、ここで皆の背中を見失っても、道を間違えたと思わないように」
エルナは、指で自分の目の高さを示した。
リオは立つ場所へ印を付け、見える先が短くなる側へ、石垣の影を足す。上手な絵ではない。それでも、ただ曲がった一本の線より、足を止める場所が分かった。
「あの日の図には、無い所です」
「あの時、途中で絵を描いてたら帰れない。今日の私たちは、描く時間を持って来たんだよ」
リオはペンを止めた。
足りない記録を責めずに、その先へ足すやり方があった。自分が紙を広げている間も、彼女は風と塔を見てくれている。
記す仕事も、一人で終わる仕事ではなかった。
*
外郭の鉄格子が見える所で、今日の歩みを止めた。
格子の向こうには、石を敷いた細い足場があった。塔の壁際を回り、暗い方へ続いている。
リオが覗こうとすると、エルナの杖が、靴の前へ下りた。
「そこから先は、別に決めよう。帰り道を確かめる足と、奥へ入る足を、一緒にしない」
彼は靴を止めた。
新しい線を見つけたせいで、ここまで使った時間を忘れかけていた。日陰が、さっきよりずっと長い。
それでも、何もせず戻るわけではない。
水路の蓋と、石垣の切れ目。壁の溝。格子の外から見える足場。
報告書の図では同じ平面にあった物へ、自分たちの高さと、歩いた時間が付いた。
石垣の休止点へ戻ると、エルナは二枚の控えを並べた。
リオの図と、自分の道の印。その端が重なる所を、指で押さえる。
「ここまでは、一緒だね」
「はい。僕だけなら、あの溝で先へ足を出していました」
「私だけなら、音を聞いて、あの日と同じ道だって決めてたかもしれない」
二人とも、少し黙った。
足りない所を言い合ったのに、紙の上の道は、朝より長くなっている。
エルナが鞄を閉じ、隣の杖をリオへ寄せた。
「次、外郭を見るなら、格子の外から。手前の足場を確かめて、それから」
「その前に、休みます。僕も、ちゃんと足が疲れました」
「よかった。肩だけじゃなかった」
リオが笑うと、彼女も、口元を少し緩めた。
剣は抜けないままだった。記憶の空白も、綺麗には埋まらなかった。
だが、戻ってくる道は、もう他人の書いた一行だけではない。
塔の影から風が渡り、二人で押さえた紙の端を鳴らした。




