剣を抜けない騎士の、勝ち方
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:独立を目指す解呪師。エルナと黒槍の塔の外を調べ、壁の溝と帰り道の図を作った。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。呪いは残るが、杖と足運びでリオの護衛を務めている。
格子の外へ戻った時、エルナは、リオの杖を自分の杖で軽く叩いた。
「さっきより、持ち方が低い」
「休んだ分、腕は戻ったと思ったんですが」
「違う。怖いから、前へ長く出したくなってる」
図星だった。
黒槍の塔の西側は、昼を過ぎると急に暗くなる。壁へ寄った草だけが湿り、格子の根元には、青黒い苔が厚く付いていた。隙間から通る風が、土の下のような匂いを運んでくる。
リオは旅の杖を握り直した。右へ振れば、隣のエルナに当たる長さだった。
彼女は自分の立つ位置を半歩ずらす。
「私の前へは出さない。後ろで持って。戻る時、あの平たい石の右を通る」
示された石板は、片側だけ土へ埋まっていた。反対の縁は、根に持ち上げられている。踏めば傾きそうだった。
リオは、その右側の硬い地面を足で確かめた。
格子を開けるためではない。閉じたまま、外側から足場と壁の続きを見る。そう決めて、ここへ戻ってきた。
鉄の縦棒が一本、下の留めから外れていた。
その脇には、壁の石が崩れた低い裂け目がある。人なら膝をつかなければ通れない。リオが図へ形を写そうとした時、内側で、砂が落ちた。
小石の音が二つ。
次に、縦棒が、硬い物で押される音。
エルナの左腕が、リオの胸の前へ伸びた。
「下がって。紙、しまう」
リオは図を折り、鞄へ押し込んだ。
暗がりから、横に広い頭が出てくる。
最初、濡れた石が転がったのかと思った。だが、その下には四本の脚があった。犬に似た長い胴を、幾枚もの黒い殻が覆っている。口が開くと、石ではない暗い歯茎が見えた。
裂け目の縁で、肩の殻が擦れた。
腹の下から漏れる赤い明滅が、苔を一瞬だけ照らした。
「一頭、です」
「見えてる分はね。木の方へ戻る。走るのは、私が言ってから」
声は、さっきより低かった。
エルナは抜けない剣へ手を掛けなかった。左の杖を斜めに持ち、先を獣の目より下へ向けている。
リオが一歩退く。
獣も、一歩出た。
爪が石を引っ掻く音が、耳の奥へ残った。
*
獣が裂け目を抜けた途端、エルナが短く叫んだ。
「右!」
リオは、教わった石板の右へ跳んだ。
その左を、黒い肩が通り過ぎる。
獣の狙いはエルナだった。彼女は正面で受けず、杖を口元へ差し出してから、体ごと横へ外していた。
歯が木を噛む。乾いた音とともに、杖の先が削れた。
エルナは引っ張り返さない。踏み込んで距離を詰め、噛み込んだ向きへ杖を押した。
獣の頭が上がる。
その一瞬に、彼女が杖を抜き、後ろへ抜けた。
「木まで、行って!」
リオは走った。
胸の中で薬瓶の包みが跳ねる。背後からもう一度、爪の音が来た。自分へ来るのか、エルナを追っているのか、振り返らなければ分からない。
だが、振り返った足で根を踏み外したら、彼女の退路まで塞ぐ。
並んだ二本の木の、手前の幹へ着く。
そこで初めて顔を戻した。
エルナが、まだ石板の近くにいた。
獣が、ゆっくり向きを変える。曲がる時、前脚だけを小さく刻む。重い肩の向きが変わるまで、胴が遅れた。
「エルナさん、こっちです!」
「見えてる。そこの枝、顔の高さのを避けて!」
リオは背後の枝を見つけ、体をずらした。
エルナが、こちらへ駆ける。
追ってきた獣は木の幹へ頭を寄せ、回り切れず、脇腹を擦った。殻から剥がれた黒い粒が散った。
リオのすぐ隣へ、エルナが滑り込む。
灰色の外套が彼の袖へ当たり、熱い息が一度、聞こえた。
「腕は」
「噛まれてない。杖を見て」
先端の木が、白く裂けていた。
あと何度も同じ受け方は出来ない。
リオは自分の杖を差し出しかけた。エルナは受け取る前に、彼の顔を見た。
「それは、まだ持ってて。私が離れたら、次は自分の前に木を置くんだよ」
幹の向こうで、獣の喉が鳴った。
リオは唾を飲んだ。頷こうとして、首がうまく動かなかったので、はい、と答えた。
口に出した声は、思ったより細かった。
*
森へ逃げ込めばよい、とすぐには言えなかった。
戻る道の先には、水路と浅瀬がある。二人の足が濡れて鈍る所を、この獣も同じように遅くなるとは限らない。
エルナは幹のこちらへリオを残し、木一本分だけ、横へ動いた。
獣が頭を追わせる。
赤い光が、また腹の下で明滅した。
リオは、その光を見た。
呪いの糸に似た細い筋が、前脚の付け根を走っている。だが、殻の下までは見通せない。エルナの腕と同じ物なのか、それを確かめる余裕もなかった。
分かるのは、光るたびに、脚の置き方が変わることだ。
一歩。
二歩。
三歩目で、肩の殻が、ほんの少し持ち上がる。
獣は低く身を沈め、また踏み出した。
「三歩目です。前の殻が、浮きます」
エルナは目を獣から離さなかった。
「どっち側」
「右。いま、見えたのは右です」
「もう一度。私が横へ出る」
彼女は杖を横にして、木の外へ先だけ見せた。
獣がそちらへ鼻を向ける。二歩目まで、頭は低い。
三歩目。
赤い筋が明るくなり、右の肩が上がった。
下に、柔らかい灰色の皮膚が見える。
「いま!」
エルナは突かなかった。
獣が頭を振り、続けて前脚を薙いだ。エルナは爪の外へ体を引き、木の陰へ戻る。その間も、足元を見ていた。
「見えた。突くには、首が遠い」
「僕が、反対から」
「駄目。二人に分かれたら、どっちへ来るか選ばせる。今は、同じ方を見させたい」
拒まれて、リオは口を閉じた。
何かしなければと思うほど、自分が今出来ないことを思いつく。
エルナは息を整えながら、後ろの地面を見た。
さっきの石板。根に持ち上げられた縁。その右には、二人が戻ってきた硬い道がある。
「あの板へ、右の前脚を乗せる」
「傾く方ですか」
「うん。浮いた肩を、下へ落とす。首まで下がった所を、狙う」
彼女が杖の傷んだ先を見た。
リオも、自分の杖を見た。
握った木へ汗が染みている。まだ割れてはいない。
「替えます。僕は、木から出ません」
今度は、彼女が受け取った。
傷んだ方をリオへ渡し、足元の太い根を示す。
「ここより後ろ。噛ませるんじゃなく、幹の横を塞ぐだけ。手を先へ出さない」
「はい。三歩目は、僕が言います」
彼女の灰緑の目が、一度だけリオへ戻った。
「頼む」
*
エルナが、木の陰を離れた。
獣の頭が、すぐに動く。
彼女は真っ直ぐ逃げず、石板の向こうへ回り込むように進んだ。左手の杖を、肩より高く上げない。獣の口元に、届きそうで届かない距離を残す。
リオは木の後ろから、脚を見た。
いまの一歩を、最初にしてよいのか。
見えない所で、もう歩いていたかもしれない。
数えかけた口を閉じ、次の赤い明滅を待った。
肩が、上がる。
次に、沈む。
「そこから、一歩!」
エルナの靴が、石板の端をかすめた。
獣が踏み出す。爪が彼女の外套の裾へ掛かり、布の端を引いた。
リオの声が、喉で詰まった。
彼女は、裾を取り返そうとしない。体を半分ひねって布を逃がし、硬い道の方へ足を置いた。
「次!」
「二歩、次が三歩目です!」
獣の右前脚が、石板の浮いた縁へ載った。
板が、音を立てて沈む。
下の小石が押し出され、獣の体が右へ傾いた。三歩目で浮いた肩の殻が、今度は首の後ろまで開く。
エルナは、逃げなかった。
左脚を前へ出し、腰を低くする。
両肩の向きを、杖の先へ揃えた。右手は柄を握るためではなく、左の前腕へ添えられていた。
左腕だけに、全身の重さを渡す姿だった。
杖が、殻の縁を滑った。
リオには、一瞬、外れたように見えた。
次の瞬間、先端が首の柔らかい所へ沈む。
獣が口を開いた。声より先に、息の潰れる音が出た。
エルナは杖を押したまま、体を横へ逃がした。
倒れ込む黒い殻が、彼女の膝のあった所を打つ。
土が跳ねた。
リオは、木の陰から出なかった。
まだ動く前脚が、地面へ深い筋を掘っていた。
「まだ、来ないで!」
彼女の声は掠れていた。
赤い明滅が、速くなる。
一度、強く光り、次には光らなかった。
前脚が止まる。喉の音も、途切れる。
風に押された草だけが、獣の背へ触れていた。
*
エルナは、すぐに杖を引き戻さなかった。
格子の方へ目を向ける。次に、森の道を振り返る。
ほかに動く物がないと確かめてから、ようやく息を吐いた。
「リオ。そこから、塔を見てて」
「はい」
返事をしても、目が彼女へ戻りそうになる。
彼は意識して、裂け目へ視線を留めた。暗がりは暗いままだった。二頭目がいないと断言は出来ない。それでも、今、こちらへ出てくる物は見えなかった。
杖を取り戻したエルナが、ゆっくり木の所へ来た。
灰金の髪が頬へ貼り付き、外套の裾が泥で重くなっている。
リオは瓶の包みを開きかけた。
「待って。薬じゃなく、水を」
「すみません」
「謝る分も、あと。息、速い」
彼は水筒を出した。
渡す手が震えて、紐が指へ引っ掛かった。エルナが左手で底を支え、受け取る。
飲んだあと、彼女は水筒を返さず、少し待った。
「次、リオの番」
冷えすぎていない水が、喉を通った。
飲めば終わりになるわけではなかった。胸はまだ速く動いている。口を付けた縁へ、土と木の匂いが付いていた。
「……僕、腕のことばかり聞こうとしていました」
「噛まれたと思った?」
「それも。でも、剣を使えない人を守るつもりで、来た所があったんです」
言ってから、彼は彼女の杖を見た。
自分が持っていた時は、歩くための木だった。同じ木を使って、彼女は獣を倒した。
「腕は、治してほしいよ」
エルナは右の指を、ゆっくり開いた。
「でも、あなたを帰すのは、私の仕事。こっちは、腕が治るまで待たせたくない」
「帰してもらうだけに、したくありません」
「三歩目、聞こえた。あれで、足を置けたよ」
リオは、息を止めた。
ありがとうと言われるために叫んだ声ではない。けれど、届いたと知ると、いまになって膝の力が抜けた。
彼は根の横へ座った。
エルナも、その隣へ腰を下ろす。
「そこで、立派に立ってなくていい」
「もう、立派には見えないと思います」
「うん。ちゃんと、怖かった顔」
ひどい、と言いかけて、リオは少し笑った。
笑えた途端、彼女も、肩から息を落とした。
*
獣へ戻ったのは、二人の呼吸が落ち着いてからだった。
エルナが距離を取り、長い杖で殻へ触れる。動きは戻らない。
リオは横から、首と肩の位置を写した。光が見えた筋は、いま、黒い継ぎ目にしか見えなかった。
杖の先で、割れて落ちた殻片を手前へ寄せる。内側には浅い溝があり、その端が、不自然に平たく切れていた。
壁へ写した線に、似た曲がり方をしている。
彼は、一瞬、両方を同じ印で結びかけた。
やめて、別々に描いた。
「動いていた時と、今とで、筋の見え方が違います。持ち帰って、明るい所でも見たいです」
「壁と同じ?」
「似ている所はあります。でも、ここからエルナさんの腕まで、繋がったとは言えません」
「じゃあ、今日は、倒した分まで」
リオは頷き、殻片を布へ包んだ。
剥がすために獣を切り開くことはしなかった。日陰はさらに長くなっている。塔内の調査も、今日、続けてよい時間ではない。
帰路の図へ、裂け目と獣の出た場所を足す。
エルナは、使える方の杖を彼へ返そうとした。
「戻るまで、そちらを持っていてください。僕は、これで歩けます」
先の削れた木を見せると、彼女は短く頷いた。
剣は、鞘に収まったままだった。
右腕の呪いも、消えてはいない。
それでも、今日の勝ち方を、剣を抜けなかった人の失敗として書く気にはならなかった。
塔から離れる道で、エルナが一度だけ振り返った。
「次は、あの殻の下。明るいうちに、見よう」
「はい。エルナさんの足を、ちゃんと書いたあとで」
「足?」
「僕、三歩目しか見ていなかったので。どうやって、あそこへ立ったのかも」
彼女は前を向き、杖で硬い土を示した。
「そこは、帰りながら話せる」
リオは、その隣を歩いた。
初めての勝利は、叫び声より静かな足音になって、二人と一緒に塔を離れた。




