その呪いは、怯えを見ていない
【前回までの人物】
・リオ:独立を目指す解呪師。黒槍の塔の外で石殻獣の動きを読み、エルナと殻片を回収した。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。呪いは残るが、左の杖と足運びで護衛を務めている。
塔の見えなくなった所で、エルナは歩く速さを落とした。
リオも、先の削れた杖を突いて止まる。背後の木々に、追ってくる黒い殻は見えなかった。水の音が、ようやく爪の音より近くなる。
「ここ。さっき、何を踏んでた?」
エルナが示したのは、浅瀬の手前の土だった。リオは足元を見る。乾いた葉の下に、細い根が走っている。
「根です。踏まない方が、よかったですか」
「動かないなら、乗ってもいい。逃げながら、端だけ踏むと滑る。私は、あの石板の前で、足を置く所を決めてた」
彼女は杖を横へ寝かせ、左足を半歩出した。灰色の外套の裾が、地面を擦らない高さで止まる。
戦っていた時は、腕と杖ばかり見ていた。いま、同じ姿を静かな所で見ると、先に足があって、その上へ体が乗っていると分かった。
リオは真似をした。
体を前へ倒しかけると、エルナの杖が膝の前へ来た。
「そこまで、倒れない。戻れる所へ」
「突くために、全部前へ行くのかと」
「一回しか突けないなら、そういう時もある。でも、外したあと、帰りたいから」
彼女は右手を左の前腕へ添えた。
剣を握れない腕も、そこでは体を支える方に働いていた。戦う姿を、何が出来ないかだけで記すと、この手を落としてしまう。
リオは鞄から帳面を出した。汗の乾いた指で紙をめくると、端へ土が付いた。
「戻れる所へ足を置く。……今のは、エルナさんの言葉で、残していいですか」
「私の格好を、立派に描きすぎなければ」
「石板を踏まないように立った僕も、隣へ入れておきます」
「それは、ちゃんと描いて。今日は、大事だった」
彼女が先に笑った。
リオは、自分の足の向きも小さく足した。彼女だけを、怖がらない英雄の形へ戻すための絵にはしたくなかった。
*
少し先に、川風の通る平たい岩があった。
塔からは十分離れ、戻る道と浅瀬の両方が見える。エルナが周囲を確かめてから、二人は腰を下ろした。
水筒の残りを見て、交代で飲む。葉の影が、膝の上をゆっくり渡った。
リオは、薬瓶の包みとは別の所から、殻片を出した。
布へ残った黒い粉を、川へ払わず、内側へ折り込む。拾った時は同じ黒に見えた物が、陽の下では、灰色の薄い層を何枚も重ねていた。
割れた端に、赤い光は戻っていない。
「それ、今は見える?」
「線があった所は。でも、光っていた時と同じ物が、全部見えているわけではありません」
殻の外側には、爪で引いたような細い筋がある。内側の溝は、もっと深かった。
三本が寄り、途中で二本だけ戻る。残りの一本は、割れ口の向こうへ続いていた。
リオは、それを帳面へ写した。
次に、塔の壁を描いた頁を横へ開く。
同じ向きへ置いた時には、似ているだけだった。
殻の内側を写した紙だけを裏返すと、戻る二本の曲がり方が、壁の図へ近づいた。
「……逆だった」
声が、自分でも驚くほど近く聞こえた。
エルナが水筒の蓋を締め、岩の方へ寄る。
「何が」
「壁を正面から見た図と、殻を内側から見た図を、同じ向きで比べていました。こっちは、獣の体へ向いていた側です。見る面を揃えずに、同じ向きの線を探していたんです」
彼は紙の裏から線を透かした。
陽へ持ち上げると、黒い筆の跡が、指の向こうへ薄く見える。
寄る所と、戻る所。二つの曲がりが、同じ順で並んだ。
エルナが、紙の下を指で押さえた。
「重なった所だけ、見てない?」
リオは、反対側の端まで目を戻した。
そちらの線は、途中で分かれる角度が違う。殻の曲面へ沿って曲がった分も、平らな紙に置けば、違う長さに見える。
「こっちは、違います。三本が寄る所と、二本で戻る所。その順だけが、今、比べられる所です」
「じゃあ、違う方も残して。あとで、同じだったことにしないように」
彼は頷き、重なった二か所の隣へ、違う角の小さな図も描いた。
前に院で、調べた答えを先に決めた紙を見たことがある。答えに合う線ばかり太くなり、消された薄い跡を、あとから読む方が難しかった。自分の筆も、早く喜びたい時ほど、同じ方へ行く。
リオは、殻の溝を指でなぞらず、割れ口から斜めに陽を当てた。外の擦り傷は、途中で浅く途切れている。内側の二本は、寄る手前から同じ深さで続き、戻る所にも、狭い縁が残っていた。
ただの割れ目を、術の線へ数えたわけではない。そこを確かめると、さっきの喜びが、小さく、しかし落ち着いた形で胸へ戻った。
「拾った時には、持って帰る価値も、まだ分からなかったです」
「重かった?」
「少し。でも、今は、捨てなくてよかったと思います」
「私も。まだ、役目があったね。倒したあとの殻にも」
川面が光り、紙の裏の線が一度見えなくなった。
リオは膝へ下ろし、見えた時の記憶で先を継ぎ足さず、光が戻るのを待った。
それでも、同じ形があるだけで、同じ相手を呪う術式だとは言えない。
リオは、すぐ隣へ別の小さな輪を描いた。
「昔の、力を送り戻す術の組み方に似ています。父の記録で習って、院でも古い器具の例を見ました。ここを、戻す方に二本使う」
「送り戻す。どこへ?」
「そこは、まだ。欠けた先の図が要ります。ただ、これは、人の腕を守るために巻いた帯の形ではありません」
父の字を、ここへ勝手に足すことは出来ない。
覚えている形と、今、実物で見た形を、線の太さを変えて描き分けた。似ている所に印を付け、見ていない先は、空けておく。
早く一枚の図にしてしまいたい気持ちほど、紙の端へ押し戻した。
*
リオが、殻片をもう一度回した時だった。
エルナの視線が、紙ではなく、自分の右手へ落ちた。
「それが、私の腕にもある?」
リオは、答える前に手を止めた。
腕を見る、と言えば、彼女は今、見せてくれるかもしれない。だからこそ、図が面白くなった勢いのまま頼む気にはならなかった。
「向きを、比べたいです。前に診た結び目と。もう剣を握って、硬直を起こしてもらうつもりはありません」
「袖を、上げればいい?」
「はい。嫌な感じがあったら、すぐやめます」
エルナは杖を膝へ寝かせ、自分で外套の袖を緩めた。
陽の当たった右の手首には、汗の乾いた跡がある。骨と皮膚が見えても、そこへ呪いの全文が書いてあるわけではない。
リオは、自分が読める結び目へ意識を寄せた。
細い糸が、指の側へ集まる。
一本がほどけたように遠のき、二本が同じ所へ戻ってくる。
彼は息を吸い、殻へ描いた矢印を見直した。
「あります。戻る側の重なり方が。ただ、殻の全部と、腕の全部が同じだと言っているのではありません」
「同じなら、あれを割った分で治る?」
「治りません。この欠片が、錨だと分かったわけではないので。今、腕の結び目も、残っています」
彼女が、右の指を開いた。
閉じる。
膝に置いた杖を、短く持ち上げる。
それは、塔へ行く前から出来た動きだった。リオは新しい成功の欄を作らず、今も出来る方へ印を残した。
「木なら、こう出来るのにね」
「はい。同じ腕で、同じくらいの太さを握っても。剣を使おうとした時だけ、別のつながり方になる」
エルナは、杖を下ろさなかった。
灰緑の目が、岩の少し向こうを見た。
「勇気が足りないんじゃないかって、思ったことはある」
川の音が、言葉のあとに残った。
リオは、すぐに違いますと言いかけた。
今日、強かったから。あの獣に勝ったから。
それを理由にすると、勝てなかった日の彼女には、足りなかったものがあったことになる。
彼は、言葉を選び直した。
「今見えた結び目から、勇気が足りないせいだとは言えません」
エルナが、こちらを向いた。
「殻にも、同じ戻り方がある。あの獣が人間の勇気を失くしたから、そうなったのではないでしょう。まず、力を通す物の側に、共通の仕組みがあるんです」
「でも、私が怖くて、握れなくなるのと、見た目は同じだった」
「怖い時も、怖くない時も、腕は止まりました。今日、怖いままでも、杖を使って僕を守ってくれた。その違いを、無かったことには出来ません」
彼女の指が、杖から離れた。
手を隠すのでなく、膝の上へ置く。
リオは、診察の時に触れてよいと言われた所だけを、もう一度確かめた。
力を流さない指先の接触で、糸を断つことはしない。
止める条件と、止められた人の気持ちを、同じ一行にしないための観察だった。
*
エルナは袖を戻す時、紐を二度、掛け直した。
「退いた時のこと、何度も考えた。もう少し先まで残っていたら、とか。違う持ち方をしていれば、とか」
「それは、僕が今日の図だけで、全部答えられることではありません」
「うん。答えをもらうつもりで言ったんじゃ、ない」
言ってから、彼女が少し目を伏せた。
リオは、帳面を閉じなかった。ただ、筆を置いた。
続きを急がせない手が、自分にも要ると思った。
「腕が止まった理由まで、自分の中から探してた。そこは、違っていても、いいんだね」
「はい。違う所にあるなら、そこを調べます。エルナさんに、毎日勇気を証明してもらう治療にはしません」
返事は、すぐには来なかった。
彼女は靴先で土を少し払った。川から来た風が、低く結んだ灰金の髪を、肩の横へ動かす。
やがて、彼女が、ふう、と息を吐いた。
「じゃあ、今日は、証明する方は休む」
「今日の分なら、もう十分……」
リオは途中で止まった。
彼女が、こちらを見る。
「ほら。数えないんでしょ」
彼は、思わず笑ってしまった。
「そうでした。今のは、取り消します」
「そこも、帳面に残る?」
「治療者が、患者さんに注意された、と」
「患者だけじゃないよ。今日の護衛にも」
そこを訂正して、彼は書いた。
同じ人に、二つの役目がある。治す側と守る側を、二人で分けながら歩いてきた。その線を、帳面の上で一つに潰す必要はなかった。
*
日が少し傾く前に、リオは最後の図を描いた。
壁、殻、右腕。
三つを、一つの大きな輪で囲わず、間へ分かっている矢印だけを置く。
壁と殻には、同じ向きの送り戻しの組み方がある。
腕にも、戻る側の結び方が見える。
だが、それぞれの先が、塔のどこで繋がるかは、まだ空白だった。
「これで、次にすることは変わる?」
「変わります。止まる腕を、もっと強く動かす方は、やめます。戻ってくる側へ、短い間だけ別の逃げ道を作れるかを考えたい」
彼は、腕の絵の外へ点線を一本引いた。
紙の上の道は、まだ、身体に作った道ではない。
「ただ、何を使うかと、どこまでで止めるかを決めるのが先です。今ここで、剣を抜いて試すとは言いません」
「私も、その説明を聞いてから決める。今日は、もう、右を頑張らせない」
「はい。明るさが残るうちに、次の休める所まで」
エルナが、使える方の杖を立てた。
リオは殻片を布へ戻した。先の尖った所には、布をもう一重当てる。今度取り出す時、図を見る前に指を切ってしまえば、今日、戦いを終えて持ち帰れたことまで、最後に台無しになる。
エルナが鞄の口を押さえ、彼は薬の包みとぶつからない位置へ収める。調べるための欠片を、薬として使う所へ紛れ込ませるつもりもなかった。使わなかった薬材は、使わなかったまま残す。
岩の上へ黒い粉を落としていないか、二人で見た。
帰路の紙も、鞄の口も閉じる。
それから立ち上がった時、彼女が右手を見た。
剣を握れる腕には、まだ戻っていない。
それでも、開いた指を、自分を責める材料として眺めている顔ではなかった。
「次の根は、先に教えないからね」
「一度くらいは、自分で選びます」
「一度で終わる距離じゃないよ。町まで」
リオは杖を突き、足元を見た。
教わった足の置き方は、彼女の腕を治さない。見つけた古い術式も、今日の怖さを消すわけではない。
だが、何を調べればよいかは、今朝より確かになった。
彼は根の端を避け、硬い土へ足を置いた。
その隣で、エルナが何も言わず、歩幅を揃えた。




