右手で持てた、三呼吸
【前回までの人物】
・リオ:独立を目指す解呪師。塔の壁、獣の殻、エルナの腕に見える術式の戻り方を比べた。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。左の杖と足運びで護衛を続け、リオと帰路に就いている。
剣を置く場所から、二人で決めた。
帰りの道を少し進むと、古い石垣が風を遮っていた。壁の欠けた所から、今来た道も、その先の曲がり角も見える。エルナは獣の足跡が新しくないか確かめ、乾いた平石へ鞄を下ろした。
リオは腰を下ろす前に足元の根を避けた。隣で、灰色の外套の裾が止まる。
「今のは、教える前だったね」
「次を全部教えてもらうと、町まで授業になりそうなので」
「まだ、そのつもりだった?」
彼女の口元が動いた。リオも笑って鞄を下ろす。身体に残った疲れは、笑うと肩の奥へ少し響いた。
塔の壁を写した紙と、殻の図を並べる。黒い欠片そのものは包んだまま、薬の包みから離しておいた。
腕へ直接、何かをするつもりで紙を開いたのではない。
さっき描いた点線を、考えているうちに、本物の道へ変えてしまわないためだった。
「この先は、剣の方も、もう少し見たいです。今日は右を使わないという話は、そのままで」
エルナは彼の指先を見たあと、自分で帯を緩めた。剣を鞘ごと帯から外し、平石へ置く。
「持つのは、左で出来る。見るだけなら」
鍔の近くには、前に宿で見た細い痕跡がある。陽が傾き、金属の傷と、リオにだけ見える力の筋が重なって見えた。
彼は顔の位置を変えた。傷の方は陽を返し、筋の方は、柄から鍔へ近づく所で一度折れた。
壁にも、殻にもあった戻る形。
けれど、それだけで、剣と塔の間を一本の線で繋ぐことは出来ない。
リオは、見えた所だけを図へ足した。
*
エルナが水筒をしまう頃、リオの筆が止まった。
右腕から戻ってくる力を、腕の中で押さえる必要はないのかもしれない。
剣の側に残った経路。その短い一部分だけなら、外へ支えられるかもしれない。
院で古い器具を調べた時、残った力を人の手へ返さず、器具の外へ逃がしたことがある。人に寄生した呪いの治療と、同じにしてはいけない。それでも、剣側の筋へ触れる前に、確かめる順は借りられる。
「今、何か思いついた顔をした」
「はい。でも、エルナさんの腕へ、すぐ試せるという答えではありません」
「じゃあ、何をする案?」
リオは柄の絵から、外へ短い弧を描いた。
「剣のここへ、僕の力で短い道を添えます。戻る分が外へ回れば、腕へ戻る重なりを、少し減らせるかもしれない。身体の糸を切る方法ではありません」
「その間、あなたが触ってる?」
「鍔の横へ。僕が手を離せば、その道はなくなります。エルナさんが剣から手を離した時も、続けません」
彼女は、図ではなく、本物の鍔を見た。
どこへ指を置けばよいか考える手つきで、左の人差し指を、柄の少し手前へ寄せる。
「剣だけで、先に見られるの」
「そこまでは。人が握った時と同じ流れにはなりませんが、外へ置いた道が、どこへ戻るかは見られます」
「それを、先に見せて。腕の方を、するかどうかは、そのあと」
リオは頷いた。
今日これ以上、右を頑張らせない。その返事を、図が面白くなったから取り消してもらうつもりはない。
彼は自分の膝へ布を敷き、剣を鞘ごと横にした。刃は一寸も出さない。エルナは隣から、鞘の先が人の通る側へ出ていないか見ていた。
守る側の目は、休んでいる時にも残っている。
*
最初に添えた弧は、鍔へ戻った。
リオは、すぐ指を離した。
目に見えない熱を触っているような、薄い違和感が指先に残る。火傷ではない。皮膚の色も、痛みも変わっていなかった。
「今、やめた?」
「はい。外へ出したつもりで、同じ所へ返していました。ここでは、駄目です」
紙の点線を消さず、脇へ小さく斜線を入れる。
失敗した図があると、成功した方の図まで頼りなく見える。院で記録を整える時に、自分も感じたことのある嫌さだった。
だが、あとで読むのは、今の期待を知らない自分だ。
彼は、指を置いた所も描いた。
エルナが片手で紙の端を押さえる。風で捲れるのを、リオより先に見ていた。
「さっきと、何を変える?」
「この戻る所へ、道を重ねない。もっと手前から、外へ出します。殻の図を真似するのではなく、今の剣に残る線を見て」
鍔の影へ指を寄せ直した。
ほんの短い筋を、外へ支える。
力の先が折り返すのを、待つ。
今度は、最初の所へ戻らなかった。
リオの指から離れた細い光は、刃の方へも腕の方へも伸びず、鍔の脇で薄くなった。
彼は、そこから先を欲張らず、手を離した。
「剣だけなら、今の位置で、外へ回りました」
「私が握ると、変わるかもしれない」
「はい。そこは、まだ見ていません」
彼女は右手を膝へ載せたまま、しばらく黙った。
リオは道具を並べ直さなかった。次へ進む準備を済ませて、返事だけを待つ形にもしたくなかった。
石垣の向こうで、枝から一枚、葉が落ちる。
乾いた音が、二人の間まで届いた。
*
「一回だけ、持ってみたい」
エルナは自分の手へ向けていた目を上げた。
「振るんじゃない。膝の上で。嫌な感じがしたら、私が先に放す。それで、いい?」
リオは頷く前に、彼女の言葉をもう一度考えた。
剣を振るための強さを足す試みではない。腕の中の術式を断つ介入でもない。剣側の短い支えがある間、握った指を自分で開けるか。今、確かめられるのはそこまでだ。
「はい。僕の手に熱や違和感が戻った時も、すぐ外します。三呼吸を越えて続けません。出来ても、今日は二回目をしない」
「持てなかったら?」
「今の図だけ、持って帰ります」
「持てたら?」
答えかけて、彼は少し笑った。
「その時も、今日は持って帰ります。エルナさんが、その先をしたくなっても」
「それは、困るかもしれないな」
彼女も笑った。けれど、右手をすぐ柄へ伸ばすことはしなかった。
費用の話も先に済ませた。今回の調査契約に付ける観察で、別の治療代を後から請求する試行にはしない。薬材は使わない。調査費の残りも、まだ受け取っていないままだ。
市の開業の札が得られたことにもならない。リオは、帰って提出する記録へ、剣だけで試した位置と、本人が選んだ範囲を残すと伝えた。
エルナは、それなら、と頷いた。
鞘を付けた剣を、彼女の膝へ横に置く。布が滑らないことを確かめ、柄の重みまで石へ支えた。
リオは鍔の脇へ指を添える。
エルナの左手が、右の手首の下で待った。
自分で、自分の腕を受け止めるための位置だった。
「道を、置きます」
「見てる。私が、触るね」
灰緑の目が、柄へ下りた。
右の指が、一本ずつ革へ掛かる。
*
結び目が、寄った。
リオは息を止めかけ、細く吐いた。
腕へ戻ろうとする二本が、いつもの所で重なる。その片方が、鍔の横へ少し逸れた。
思っていたより、細い道だった。
太くしようと力を足せば、また違う物になる。
彼は指の位置を動かさず、エルナの手を見た。
手袋の縫い目は、張り切っていない。
彼女の親指が、一度だけ動いた。
「……持ってる」
小さな声だった。
戦場へ通す声ではない。自分の手に、本当に柄があると確かめる声だった。
「はい。痛みは?」
「ない。まだ、ない」
一呼吸。
彼女の肩が上がり、ゆっくり下りた。
二呼吸。
エルナは柄を持ち上げようとせず、革の巻目へ指を置いたままにした。
リオも、もう少し、と言わなかった。
「三つ目で、開きましょう」
灰金の髪が、彼女の息で顎の横へ動いた。
指が、開く。
親指、人差し指、その隣。
最後の小指が革から離れ、手が、膝の布へ戻った。
リオはすぐ、外の道を離した。
糸は、ゆっくり、元の結び目へ寄っていった。
それも、ちゃんと見た。
治ったことにしてしまいたい喜びより、戻った物を見落とす方が怖かった。
彼は剣を鞘ごと脇へ移し、彼女の腕から離した。
エルナは、自分の右手を眺めていた。
開いて、閉じる。
それだけなら、朝も出来た。
だが、その前に柄を握って、自分で離した三呼吸は、今朝には無かった。
*
「知らない剣じゃ、なかった」
エルナの最初の言葉を、リオは待った。
「ちゃんと、いつもの革の硬さだった。少し、汗で滑りそうだった」
「はい」
「変なこと言ってる?」
「いいえ。僕が見た糸より、持った人にしか分からない所です」
彼女はもう一度、剣を見た。
右手を伸ばしかけて、途中で止める。
リオの方を見る前に、その手を、自分の膝へ戻した。
「二回目、しないって、私も決めたんだった」
「……僕も、今、同じことを言う準備をしていました」
「先に言えた。そこは、今日の私の分」
リオは笑った。
紙へ字を書こうとすると、指がわずかに震えていた。怖かった時の震えと、嬉しい時の震えを、手がきれいに分けてくれるわけではない。
エルナが、彼の筆を見る。
「あなたも、休んでから書けば」
「今の言葉を、忘れたくなくて」
「三呼吸くらい、待ってあげる」
彼は筆を置いた。
二人で息をしてから、書いた。
支持がある間、一回。膝上で握り、自分で離した。抜刀なし、振剣なし。熱、痛み、新しい痺れの訴えなし。支持を離すと、結び目は再び寄った。
その隣へ、彼女が言った革の硬さと、汗の感触を残す。
成功、の二字だけで埋めるには、惜しい頁だった。
書いた所を、エルナの方へ向けた。
彼女は、すぐ、よく書けているとは言わなかった。膝の布を片付けず、指で紙の一行を追う。
「ここ。持った、だけだと、持ち上げたみたいじゃない?」
リオは、自分の書いた字を見た。
鍔と鞘は、ずっと支えていた。彼女が右腕だけで、剣の重さを支えたわけではない。
彼は、膝と石の支えあり、と足した。
「そうですね。握った指を、自分で開けた。今日、分かったのは、そこでした」
「それで、小さくなったと思う?」
彼は顔を上げた。
彼女は、出来たことを減らしてほしくて訊いているのではなかった。
「いいえ。ただ、喜んだ勢いで、僕が、大きく書きかけました」
「私も、大きくしたくなる。でも、次に出来なかった時、今日まで嘘になるのは嫌」
灰緑の目が、紙へ戻った。
リオは、一度書いた「持つ」を、読める形で線に残した。書き直した理由も、脇へ置く。
治療者が一人で整えた記録より、次に二人で読める頁になった気がした。
エルナが、剣の柄へ目を向ける。
「そこの革、私の手の形で減ってるの。前は、替えようと思ってた。握る所だけ、少し薄くなって」
「今も、替えたいですか」
「今は、もう少し、このままがいい。手が、知ってる方」
彼女は言ってから、少し眉を寄せた。
「でも、切れかけてるなら別だよ。懐かしいから、整備をやめる話じゃない」
リオは、はい、と笑った。
彼女の言葉は、いつも、帰れる方へ戻ってくる。
革の継ぎ目に深い裂けがないことを、左手で確かめる姿を見た。剣を使えなかった間も、彼女が手入れを放っていたわけではないと、その動きで分かった。
「次に、何を見たいかも書きます。いつまで支えられるかより先に、この短い道が、どこへ力を逃がしたのか。腕へ無理をさせずに、剣だけでもう一度調べる方を」
「うん。それなら、右の出番を増やす前に、待てる」
彼女は膝の布を畳んだ。
出来るようになった動作を、次の戦いへ使ってみせる約束にはしない。
リオも、その余白を、待つだけで何もしない時間とは呼ばずに残した。
立つ前に、彼女は剣の帯を左で直した。
右腕を、今日から戦える腕として勘定へ入れない。
リオは薬の包みを閉じたまま数え、黒い欠片と別にしまった。
「剣を持つ所は、あなたが守ったね」
「僕は、三呼吸だけです」
「そう。道の方は、その先も私が見る。まだ、交代しきってない」
彼女が左の杖を立てた。
治してもらった人が、今度は全部を返そうとしている声ではなかった。二人が、今日も別々に持っている仕事の話だった。
リオも杖を取り、石垣を離れる。
帰り道の先に、まだ見えない曲がり角がある。
呪いを維持する錨はまだ見つからず、町の審査も、支払いも終わっていない。
それでも、鞄の紙には、確かに出来たことが一つ入っていた。
エルナの右手が、外套の脇で自然に開く。
リオは、その手を、次の実験へ急がせずに歩いた。




