帰る道にも、守る人がいる
【前回までの人物】
・リオ:独立を目指す解呪師。塔で集めた資料を持ち、エルナと町へ戻っている。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。支えのある剣柄を三呼吸握り、自分で離せた。呪いはまだ残っている。
助けを呼ぶ声は、道の下から聞こえた。
リオが立ち止まるより先に、エルナの左の杖が横へ出る。彼の胸を押し戻すほどではなく、進む先を塞ぐ位置だった。
「縁へ寄らないで。土が割れてる」
足元を見ると、草の間へ細い裂け目が続いていた。
道の外側には、車輪が通った新しい溝がある。その先だけ、土ごと消えていた。
「誰か、いますか。声は届いています」
リオが呼ぶと、下の葉が大きく揺れた。
「二人! 一人、脚を挟んでます!」
女の声だった。叫ぶたびに、枝へ引っ掛かった赤い布が動く。
エルナは少し先まで歩き、崩れていない所から膝をついた。灰色の外套を、自分の下へ踏まないよう左で払う。
リオも、彼女が指した場所から覗いた。
急な斜面の途中で、手押し荷車が横倒しになっていた。浅い窪みに車輪が落ち、その脇に男が座っている。もう一人の女は幹を抱くように立ち、荷台が滑るのを押さえていた。
底まで長い崖ではない。だからといって、飛び下りてよい高さでもなかった。
「あなた、いつから押さえてる?」
エルナの問いへ、女が顔を上げる。
「さっきから。ちょっとずつ、下がって……」
「一人で戻そうとしなくていい。私が、下りる所を探す。二人とも、今の場所から声を返して」
短い返事のあと、エルナはリオへ向き直った。
「回れる道がある。下で会う。あなたは、あの木の向こうから。荷へ、先に触らないで」
指した先には、獣道ほどの踏み跡があった。
リオは頷き、鞄の留めを確かめた。
塔の紙が無事ならそれでよかった帰り道に、今、二人分の重さが増えた。
*
下りると、湿った葉の匂いが強くなった。
荷車の下にあるのは、岩ではなく、雨で削られた細い土の溝だった。車輪の縁と荷台の角の間へ、男の左脚が入っている。
男は緑の短い上着を着ていた。肩には弓袋があるが、弓を取り出す余裕はない。汗で額の髪が皮膚へ張り付いていた。
「俺、ヨラン。あっちはニナ。採取の帰りで、荷を避けようとしたら、縁が落ちた」
「リオです。こちらはエルナさん。どこが、一番痛みますか」
「脚。膝より下。動かすと、怒られる感じだ」
「今は、動かさない方で見ます。頭を打ったり、気が遠くなったりは?」
ヨランが首を振る。その返事の途中で、ニナの靴が土を擦った。
荷台の上には、口を縛った麻袋が三つ載っていた。一つから、香りの強い根の先が覗いている。
薬材を売る母の店で嗅いだことのある匂いに似ていた。
だが、袋の中身を確かめるより、押さえている彼女の指の白さが目に入った。
「荷の口を解いて、上の袋を先に降ろせますか」
リオが尋ねると、ニナの顔が曇った。
「下ろしたら、下まで行くかもしれません。あれ、今日の納めで」
「ニナ」
ヨランが、相棒へ呼び掛けた。
いつもの呼び方なのだろう。彼女の肩が、その声で少しだけ戻る。
「今、俺の方が、納めにくい荷になってる」
「冗談、言わないで。笑うと、こっちが緩む」
「じゃあ、真面目に。根は、落としていい。俺は落とすな」
最後だけ、息が浅くなった。
エルナは二人を待ってから、荷台の傾きを見た。
「袋を動かした分だけ、車が戻るかもしれない。ニナ、押さえる場所を、一緒に変える。リオは、まだ脚を引かない」
「はい」
リオは脚の脇で頷き、手を添えたまま待った。
エルナは左手と膝を使い、崩れていない木の根元へ身体を置いた。
右手は、剣の柄へ行かなかった。
*
一つ目の袋は、ニナが解いた。
綱の端が、汗で滑る。彼女は一度息を吐いてから、結び目へ指を戻した。
袋が下りると、荷台が小さく軋んだ。
ヨランの口元が引きつり、リオも手を止める。
「今、痛みが増えましたか」
「ちょっと。車が、戻った」
「次は、こっちを押さえる。ニナ、私の数じゃなく、あなたが持てたら返事を」
エルナの声は、急がせなかった。
ニナは手を移し、はい、と答えた。
二つ目の袋が外れた時、土の斜面を茶色い根が転がった。
紙包みも一緒に跳ね、小さな乾いた音を立てる。ニナの目が追った。
追い掛ける足は、出なかった。
「あとで、拾える分だけ」
彼女が、自分に向けるように言った。
リオは、すぐ、大丈夫と埋めなかった。
今日の売上が減ったことまで、二人が無事なら無かったことになるわけではない。
荷が軽くなると、車輪の下に噛んでいた枝が見えた。
折れた枝を引けば、車が動く。
動けば、脚へ乗った角も動く。
リオは、そこまで見てから、エルナへ顔を向けた。
「少し持ち上がれば、脚の上から離れます。でも、僕が先に引くと、車が落ちます」
「分かった。ヨラン、右の脚は、今の場所で支えられる?」
「右は。左は、知らない方がいい」
「左を使わず、戻れる方を作る。ニナは、空いた袋を、あの乾いた所へ。彼が座る場所にする」
彼女が示したのは、上がる道の途中にある平らな土だった。
救い出したあとを、もう見ている。
リオは院の寝台を思い出しかけ、目を戻した。ここには高さの揃った寝台も、すぐ手を貸してくれる同僚もいない。
ある物を見て、相手へ頼むしかなかった。
*
その時、藪の奥で、低い声がした。
人の声ではなかった。
ニナの手が、袋を握ったまま止まる。
エルナは振り返らず、左の杖を手元へ寄せた。
「リオ。上へ回る道を、空けておいて」
落ちた袋の近くに、灰褐色の背が見えた。
街道で荷のこぼれを漁る山犬だ。根の袋そのものより、その脇で割れた携帯食の包みへ、鼻を近づけている。
もう一頭の耳が、葉の奥で動いた。
エルナはヨランの前へ身体を入れた。
鞘にある剣ではなく、左の杖を、相手と荷の間へ置く。
「ニナ。食べ物を、取り返しに行かないで」
「行きません。……あれ、明日の朝の分ですけど」
「明日の朝は、町で食べよう」
ヨランが、奥歯を噛んだまま返した。
山犬が顔を上げた。
リオの背中へ、汗が冷たく落ちる。
塔で獣を退けた時の図は鞄にある。だが、目の前の動物に、同じ術式が見えるわけではない。
紙に描いた勝ち方を、そのまま取り出す場所ではなかった。
エルナは一歩だけ、見える方へ出た。
杖の先が地を打ち、彼女の声が斜面へ通る。
「こっちは、渡さない」
山犬の足が止まった。
彼女は追わなかった。荷台の下の人間と藪の間を、自分の場所にして立っていた。
もう一頭が、割れた包みを咥える。
先の一頭も、耳を伏せ、少しずつ木の陰へ下がった。
葉が揺れなくなってからも、エルナはしばらく目を離さなかった。
「戻ってくるかもしれない。こっちも、長くはいない」
振り向いた灰緑の目は、もう、車輪と脚へ戻っていた。
*
リオは鞄から布を出した。
薬材の包みは、開けない。
何が起きたか分からない傷へ、いつもの薬を使えば済むわけではなかった。
「ヨランさん。車が離れたあと、僕が支えます。無理に立つ必要はありません。痛む所が変わったら、その場で言ってください」
「分かった。助けられる時まで、格好つけるのはやめとく」
「その分は、上がってから」
ニナが、相棒の横へしゃがんだ。
赤い布でまとめた髪から、細い葉が一枚落ちる。
さっきは荷を押さえていた両手が、今は、人の身体を受ける位置へ移っていた。
エルナとニナが車の重さをずらす。
ヨランの息が、声になる前で止まった。
リオは引っ張らず、空いた幅を見ながら支えた。
土が少し崩れる。
左の杖が、それ以上動かない場所を押さえる。
「離れた」
エルナの声で、リオはもう一度、脚の上を見た。
荷台の角が、そこから外れていた。
ニナと二人でヨランを乾いた所へ移すと、彼は背を木へ預け、長く息を吐いた。
笑いかけた口が、途中で歪む。
「……痛いの、助かったあとも、ちゃんと痛いな」
「はい。脚の方は、町で診てもらいましょう。僕は解呪師です。今の怪我まで、ここで治せるとは言えません」
「じゃあ、あんたが来てなかったら、まだ車と一緒だった分は、礼を言っていいんだな」
リオは、返事を一瞬探した。
エルナが、彼の方を見ずに口元を上げる。
「そこは、受け取っておけば」
「……はい。町まで戻る方も、手伝います」
今度は、受け取った言葉の重さだけで答えた。
*
荷車は、置いていくことにした。
ニナが、残った袋から小さな革の控えを取る。納め先と、二人の名が書かれているという。
「これまで置くと、店で、何を持って帰ったか説明出来ないので」
「こぼれた分も、見た人がいる。俺も、口は動く」
「店で、その口だけ元気だと、叱られるよ」
二人の短い言い合いに、ようやく、荷の下ではない声が戻ってきた。
リオは落ちた包みを拾いかけ、エルナを見る。
彼女は首を振った。
「今日は、そこまで行かない。あの辺りは、まだ足元を見てない」
助けたあとで残りを取り戻したくなる気持ちは、リオにもあった。
だが、二回目をしないと決めた三呼吸を、ここで別の欲張り方へ変えたくはなかった。
拾える所にある空袋だけ、ニナへ渡す。
彼女は両手で受け、ありがとう、と言った。
ヨランを支えて斜面を上がる間、エルナは荷より先に足を見た。
何もかもを自分で運ぼうとはしない。リオへ、ニナへ、少しずつ役目を渡し、その先の土を杖で確かめていく。
上へ着くと、道の幅が、下から見た時より広く感じられた。
ヨランは空袋の上へ座り、顔を空へ向けた。
「空って、荷車の裏より、ずいぶん遠いんだな」
「明日も、その感想でお願いします」
リオが返すと、彼は今度こそ笑った。
ニナは声を出さず、手の甲で目元を擦った。
エルナは、その二人を見る間も、道の向こうから来る音を聞いていた。
*
見回りの小さな荷車が来たのは、影が道を斜めに横切り始めた頃だった。
リオが声を掛け、エルナは手前で待つ位置を示した。崩れた縁へ、次の車輪を近づけないためだった。
胸に街道の札を付けた係が、ヨランの脚と土の裂け目を見た。
「町へ戻る車です。座れる所を空けます。荷車の方は、場所を残して、別の人手で」
「下に、二袋と半分くらい。山犬も、二頭見ました」
ニナは、戻って取りに行くとは言わずに答えた。
係が地図へ印を置く。彼女が、その位置を指で直した。
自分が落ちた所を、もう一度、他人の道へ戻す手つきだった。
ヨランを乗せる時、エルナは左側へ回った。
右手で持てば早い場面ではあった。
彼女は、それを、今日から出来ることへ入れなかった。
リオとニナと係で身体を支え、彼女は足場と車の揺れを見る。
四人目の手が、重さを持たない場所でも働いていた。
「二人は、乗らないのか」
荷台のヨランが訊いた。
「僕たちは、歩けます。先に、診てもらってください」
「だったら、町で会ったら、名を忘れたふりはするなよ。礼を言う方、まだ下手なんだ」
「僕も、受け取る方は、あまり」
「ちょうどいい。二人で、もたつこう」
車輪が動き出す前に、ニナが頭を下げた。
エルナは、大きく手を振らず、左の指を少し上げて返した。
町へ戻る荷車の音が、道の曲がり角へ消えていく。
残った土の裂け目を、リオはもう一度見た。
行きに通れた道は、帰りに誰も落ちない約束ではなかった。
*
「怖かったです」
歩き出してから、リオは言った。
エルナが、少しだけ顔をこちらへ向ける。
「山犬?」
「それも。脚を外す時、僕が、すぐ引けばいいと思っていたら」
「引かなかった。訊いたから」
「教えてもらった所ばかりです」
「そうだね。私も、脚の中までは見えない。あなたが先に出来ない所を言ったから、町へ運ぶ方へ決められた」
励ますためだけの言葉ではなかった。
彼女は道を見ながら、必要だった手を、一つずつ数えていた。
リオは、鞄へ触れた。
塔で取った紙は、折れずに残っている。エルナの剣も、鞘のままだ。
何一つ使えなかった帰路ではなかった。
「右で握れたこと、試したくならなかったですか」
訊いてから、彼は少し声を落とした。
「訊かない方が、よかったでしょうか」
「ううん。なったよ」
彼女は、短く答えた。
「早く出来るかもしれないって。でも、三呼吸、支えた剣と、落ちかけた人は、同じ重さじゃない」
外套の脇で、右の指が動いた。
出来たことを喜んだまま、出来ない所へ戻れる。
リオは、その強さを、治療が済んだあとの彼女にだけある物として、先へ送らずに見た。
「今日、剣を抜かずに、助かりましたね」
「うん。だから、剣を取り戻さなくていいとは、思ってないけど」
「はい。そこも、減らしません」
灰金の髪が、町から吹く風へ少し浮いた。
曲がり角の先に、ソルヴィアの屋根が見え始める。
錨はまだ、塔に残っている。審査も、支払いも、これからだった。
それでも、町へ戻す物は、図面だけではなくなっていた。
リオは鞄を持ち直し、隣の歩幅を見た。
帰ったら、まず、水を飲もう。
今度は、誰かの返事を待つ前に、自分からそう言った。




