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その椅子を、窓のそばへ

【前回までの人物】

・リオ:ソルヴィアで独立を目指す解呪師。塔で得た資料を持ち帰ったが、開業の許可はまだ下りていない。

・エルナ:右手で剣を握ると硬直する元騎士。帰路では左の杖と護衛の経験で、負傷した探索者たちを助けた。

・ダリオ:リオたちの塔調査に資金を出した商人。調査の対価と薬材の費用を分けて契約している。

 町の井戸で飲んだ水は、リオが思っていたより冷たかった。

 両手で受けると、指の節に溜まった砂が少しずつ流れる。人を引き上げた時についたものだった。綺麗になった掌にも、荷台の重みはしばらく残っていた。

 隣ではエルナが、左で汲んだ水を右の掌へ移していた。何気ないその動作を見てから、リオは自分の鞄へ視線を戻した。

 右手が何も持てないわけではない。今日も、剣の柄を握る動作だけを使わずに、人を助けていた。

「右を見てた?」

 エルナが水を払った。灰金の髪の先から、一滴落ちる。

「はい。痛そうだったわけじゃなくて」

「分かってる。私も見たくなる」

 彼女は右の指を一度開いた。

「でも今日は、もう試さない」

「僕も、今日は観察記録を閉じます」

「歩きながら書いたら、次はあなたが溝へ落ちる」

 それを否定できず、リオは鞄の口を留めた。

 見回りの荷車は、既に受診先へ向かったという。負傷したヨランも、付き添うニナも、ここにはいない。リオには、その先の診断まで分かる術はなかった。

 宿へ帰り着く頃には、焼いた葱の匂いが通りまで漂っていた。

 入口の長椅子に座った途端、膝の裏が鈍く重くなった。エルナも杖を壁へ預け、少しだけ背を伸ばす。

 その椅子の端に、丸い帽子が置かれた。

「お帰りなさい。まずは、二人ともご無事で」

 ダリオだった。胸の前で組んでいた手を解くと、空いた椅子を指で示す。商談を始める時より、声が一段小さかった。

「調査の資料は持ち帰りました。まだ報告にまとめていません。明日、休んでから見直したいです」

 リオが鞄へ手を添えると、ダリオは帽子を膝へ戻した。

「それで結構です。今ここでお聞きして、都合のよい部分だけ覚えてもいけませんから」

「薬材の分も、まだ使っていません」

「では、そのまま別にしておいてください。無事に帰ったお祝いと、勘定は別です」

 エルナが小さく笑った。

「帰り道で人を拾った。話が増えそう」

「人でしたら、鞄の中ではありませんね?」

「見回りの荷車で先に帰った。荷台の下に脚を挟んでた」

 笑みを収めたダリオへ、二人は、必要なことだけ伝えた。道の崩れと救助、見回りへの引継ぎ。治ったとも、もう大丈夫だとも言わなかった。

 話し終えて、リオは長椅子の脚を見た。

 院では、診察を終えた人の戻る先に、いつも別の誰かがいた。薬を渡す係。夜の容体を見る係。椅子を寄せる係。

 ここで自分が働くなら、その部屋から考えなくてはいけない。

「ダリオさん。小さな施療所に使える部屋は、探せるでしょうか」

 口にしてから、リオは顔を上げた。

「まだ、借りると決めたわけではありません。許可も下りていないので。どのくらい掛かるのか、知りたいんです」

「見るだけなら、二軒ほど心当たりがあります」

 ダリオの目が、いつもの商人のものに戻った。

「ただし、安い順に良い部屋が並ぶわけではありませんよ」

「それは、身に覚えがありそうだね」

 エルナの横からの一言に、彼は丸い帽子を持ち直した。

「若い頃、屋根の安さに惚れまして。雨の晩だけ、売り物より桶の方が多い店になりました」

 リオは思わず笑い、腹の奥が空っぽなのを、ようやく感じた。


 翌朝、最初の部屋へ入るまでに、リオは二度、鞄の底を持ち上げた。

 細い階段の途中で、角が壁へ当たる。乾いた木の粉が袖についた。

「こちらは月四枚。銀貨で」

 鍵を開けた家主が窓を押すと、冷たい空気が部屋へ入った。

 天井は低いが、明るい。奥には寝台を置けそうな窪みもあり、リオは一瞬、四枚という数字だけを嬉しく思った。

 けれど、後ろを振り返ると、エルナはまだ階段の最後にいた。

 手摺へ左手を置き、剣の鞘が戸口へ触れないよう身体を斜めにしている。

「このまま入ってもいい?」

「もちろんです。戸は、ここまで開きます」

 家主は戸を壁へ押しつけた。それでも、人が一人、正面を向いて通るのがやっとだった。

 エルナは入った所で、階段を見下ろした。

「私なら上がれる。脚を痛めた人は?」

 リオの喜びが、そこで止まった。

 昨日のヨランを、あの荷車のまま連れてくることはできない。誰かが抱えなくてはならず、二人並ぶには階段が狭い。

「下で待ってもらう場所はありますか」

「通りに椅子を出すことはできます。ただ、お隣の荷が届く朝は、空けていただくことになります」

 家主は困った顔を作らず、窓の下を指した。荷車の轍が、戸のすぐそばを通っていた。

 安くできる理由は、隠されていないのだった。

 リオは机を置くつもりで見ていた場所を、もう一度見た。

 水を持って階段を上がる。汚れた布を下ろす。脚の不自由な人が、途中で休む。

 自分の道具が置けるだけでは、施療所にならなかった。

「こちらは、少し考えさせてください」

「ええ。向いているお仕事もありますし、そうでないものもありますから」

 家主が戸を閉める音は、リオを責めなかった。それが余計に、最初に家賃だけを見た自分へ残った。

 階段を下りた所で、エルナが立ち止まる。

「四枚が惜しい?」

「惜しいです」

 即答してから、リオは額に指を当てた。

「それと、さっきまで机のことしか考えていなかったのが、恥ずかしいです」

「机は要るでしょ」

「はい」

「じゃあ、次は人の椅子も考えればいい」

 彼女は杖の先で、店の入口を跨ぐ浅い溝を示した。

「こういうのも。昨日のヨランの靴なら引っ掛かる」

 リオは、帳面を開いた。安さに丸をつけていた横へ、階段、と書く。その下に、患者の入口、水、待つ場所。

 ダリオは覗き込まず、次の角まで先に歩いた。


 二軒目は、細い市場通りの端にあった。

 戸を開けると、乾いた石鹸と、長く閉めた木の匂いがした。以前は布を扱う店だったという。棚を外した壁だけ、四角く色が薄い。

 通りから床までは、石一段ほどの高さしかない。それでもエルナは、入る前に足を止めた。

 家主が、戸の内側から板を一枚出してきた。

「荷車を入れていた時の物です。使うなら、端の木は替えます。ここ、少し欠けていますので」

 板を置くと、傾きが緩くなった。リオは自分でその端を踏み、浮かないか確かめる。

 エルナは左の杖をついたまま通り、室内をぐるりと見た。

 奥の小部屋まで、床が続いている。水は裏庭の共同井戸。戸口からは近いが、部屋の中へ引かれているわけではない。雨の日に水を運ぶなら、桶の蓋もいる。

「月六枚です。銀貨六枚。最初に同じ額を、預りとして頂きます」

 家主が指を二度折った。

「預り金は、何に使われますか」

「退去時の傷みや、未払いがあった時の分です。何もなければ戻します。壁へ穴を開ける工事などは、先に相談を」

 家賃と合わせて十二枚。

 リオは一度、舌の上にその数を置いた。

 手元にある調査の前渡しを、頭の中で勝手に足してはいけない。薬材の二枚は、薬材の二枚だ。まだ受け取っていない報酬も、財布には入っていない。

 窓際では、エルナが古い椅子の背へ左手を掛けていた。

「動かしても?」

「どうぞ。残していく家具です」

 椅子が擦れる音が、空の部屋へ長く響いた。

 彼女は窓の真下から、半歩横へずらした。光が顔へ正面から当たらず、戸を開ける人も見える位置だった。

「ここに座ってみて、リオ」

 診る側の椅子かと思ったら、違った。

 座ると、通りの靴が見えた。人の声は聞こえるが、少し奥へ引けば、顔までは外から覗かれない。

 足を投げ出しても、戸の開け閉めに当たらなかった。

「診察を待つ人の場所ですか」

「うん。隅へ押し込まれて、呼ばれるまで壁を見るのは嫌だから」

 エルナは、空いたもう一方へ腰を下ろした。

「私なら、外も見たい」

 患者の意見、と帳面へ書こうとして、リオはやめた。

 これは目の前の、エルナの好みだった。

「僕は、右腕の動きを見るには窓の近くがいいと思っていました」

「それでもいい。椅子が動けば」

「はい。いつも、同じ所に座らなくてもいいですね」

 窓枠の向こうを、パンの籠を抱えた人が通った。焦げた皮の匂いが流れてきて、エルナの目が一度そちらを追う。

 リオも同じ方を見たので、二人の間に短い笑いが落ちた。

 院の診察室にはなかった、通りの匂いだった。

「奥の小部屋は、着替えに使えそうです。ただ、この戸は少し、音がします」

 リオが開けると、蝶番が細く鳴いた。

「それはこちらで直します。棚を入れるなら、床の掃除が済んでからにしてくださいね」

 家主の返事を聞き、ダリオが入口の方から首を傾けた。

「もう、棚を入れる気で見ていますね」

「……はい」

 リオは隠さず答えた。

「ここで、診たいです」

 言い切ってから、窓の横に座るエルナを見た。

 剣を取り戻すために行った塔の記録が、鞄の底にある。あの場所で見たものを、安全な明るさの中でもう一度読める部屋。怖い記憶を話す時、好きな方へ椅子を向けられる部屋。

 欲しい、と思った。

 その気持ちと、払えるかどうかは、まだ同じではなかった。

「ただ、今日ここで契約はできません。開業の許可も、まだです」

 家主は窓の留め金を直しながら頷いた。

「では、三日後の夕方まで、お返事を待ちます。それ以降は、別の方にもお見せします」

「押さえて頂くためのお金は、必要ですか」

「三日なら頂きません。長く待つお約束は、今はできませんけれど」

 リオはその日を書いた。借りられた、と書きそうになる手を止め、返答期限、と書き直す。

 ダリオが帽子の縁を撫でた。

「部屋代に、洗う道具と布。開いてからの薬材。家賃を払って何も置けません、では、お互い困りますね」

「全部、出してみます」

「報告の対価も、契約通り確かめましょう。けれど、まだ受け取っていない分を受け取ったことにはしない。それでよろしいですね」

「はい。薬材のお金も、混ぜません」

 エルナが椅子から立つ。左で杖を取り、右手は、椅子の背からそっと離した。

「私の取り分も、勝手に家賃に数えないでね」

「もちろんです」

「住む所を決める時は、私も自分で考える。今は、この椅子がいいって言っただけ」

 リオは頷き、それから笑った。

「その意見は、もう帳面に入っています」

「値段もついた?」

「まだ、つけられません」

「じゃあ、大事に持って帰って」

 帰りかけたところで、リオは空の棚跡に気づいた。上の方だけ、壁が少し黒い。

「薬を煎じる火は、どこで使えますか」

 問い直すと、家主は裏の小さな炊事場へ二人を案内した。竈の石は残っていたが、煙の出口には長く使っていない間の埃があった。

「ここを使うなら、先に煙道を見てもらいます。火があるから、すぐ使えるというわけではありません」

 リオは頷いた。院では、朝に自分が来る前から炉が温まっていた。温まるまでの仕事を、これからは誰かへ頼むか、自分でしなくてはならない。

 エルナが戸口から、外の井戸を見た。

「煎じたものを持って、あそこからここまで運ぶの?」

「水はこちらへ運んで、煎じた後は、診察の部屋へ。熱い物を持つなら、途中に何も置けませんね」

「なら、そこの棚は戻さない方がいい」

 昔の棚の跡は便利そうに見えたが、リオが鞄を持って立つと、脇を通るには横を向く必要があった。エルナは彼の袖を引かず、自分で少し離れて待った。

 二人で立っただけで、帳面の図は変わった。

「一人で下見に来なくてよかったです」

「あなた、全部の壁へ棚をつけるつもりだったでしょ」

「……少し」

「火のそばに帳面まで並べないでね。読めるものが減る」

 笑いながら、リオは棚の線を消した。消し跡を掌で擦ると、指の横が黒くなった。

 治療院を出た時は、持っている道具と、知っている術式を数えていた。

 道具を置かない場所が必要だとは、あまり考えていなかった。

「煙道の点検も、見積もりをお願いできますか。借りるか決める前に、費用を知りたいです」

「聞いておきます。直す範囲が分かったら、誰が負担するかも、契約の前に決めましょう」

 新しい金額は、まだ決まらなかった。けれど、何を聞けばよいかが、一つ増えた。

 彼女が戸を押さえた。先に通ろうとしたリオは、板の端に目を落とし、今度は鞄を持ち上げずに外へ出た。

 通りには、昼前の荷車が増えていた。

 借りた部屋はない。許可も、治療の方法も、まだ揃っていない。

 それでも帳面の頁には、銀貨の数字だけでなく、窓と椅子の位置が描かれていた。

 リオは閉じる前に、入口の幅を書き足す。

 次にここへ来る時は、施療所にするために足りないものを、自分の言葉で答えたかった。

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