剣を抜けても、帰れない場所
【前回までの人物】
・リオ:塔の資料を持ち帰った解呪師。施療所の候補を選んだが、開業許可も賃貸契約もまだ。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。塔で一時的に右手を動かせた後も、呪いは残っている。
・ダリオ:二人の塔調査に出資した商人。施療所候補を紹介したが、調査の精算と部屋の契約は別に扱っている。
椅子の位置を描いた頁の裏へ、リオは銀貨十二枚と書いた。
家賃と預り金。それで終わりではない。布、桶、薬を煎じる場所。煙道の点検は返事待ちで、金額を置く欄だけが空いている。
宿へ戻った昼前の部屋には、下見した店より小さな窓があった。通りを荷車が通るたび、硝子が細く鳴る。
リオは薬材用の二枚を入れた包みへ触れず、帳面を閉じた。
廊下から、革を引くような音がした。
出てみると、エルナが長椅子へ剣帯を広げていた。灰金の髪を耳へ掛け、右手で革を押さえている。左には、細く裂いた布があった。
「そこ、座っても大丈夫ですか」
リオが剣帯の先を指すと、彼女は膝へ寄せた。
「どうぞ。椅子を決めるの、今日は二回目」
「今度は、お金の掛からない方で」
「宿代には入ってるかもしれない」
リオは笑い、壁のそばへ腰を下ろした。
剣は鞘のまま、椅子の下へ置かれている。エルナは柄へ手を伸ばさず、帯の穴へ布を通そうとしていた。革の縁が、ひとつだけ毛羽立っていた。
「直すんですか」
「目印。塔では、一つきつく締めた。戻したつもりで歩いてたから、ここ、擦れた」
彼女が上着の腰を指した。皮膚を見せるのでなく、縫い目の固い所だった。
リオは昨日の歩幅を思い返した。長く歩いた疲れは聞いたが、帯の位置までは見ていない。
「痛かったですか」
「服が当たる。いまは、もう外してる」
返事の後、エルナは目を上げた。
「診察にしなくていいよ。穴を一つ、覚えたいだけ」
「はい。今日は、そのまま聞きます」
そう答えても、リオの目は、革を押さえる右の指へ行った。
杯も、椅子の背も、布も持てる。剣の柄だけが、身体の別の約束に従っていた。
彼女はその視線に気づいたようだったが、指を隠さなかった。
「向こうにいた時は、朝、考えなくてもここへ通してた」
布が穴を抜けた。
「起きて、着替えて、帯を締める。あとは、誰かの靴音が廊下でしてた」
宿の廊下は静かだった。階下では皿が触れ合い、一枚だけ高い音がする。
エルナは布の端を揃えた。
「起きたら、もう稽古へ行く人がいた。私も、寝坊したふりして追いかけたことがある」
「本当は、起きていたんですか」
「負けた朝に、先に行って練習してるのを見られたくなかった」
短く笑い、彼女は結び目を作った。
リオは、部隊の報告書にない朝を、初めて見た気がした。
退路の指示。負傷した人数。撤退した時刻。紙には、誰が先に稽古場へ出たかは載っていなかった。
「エルナさんも、負けるのが嫌なんですね」
「好きな人がいたら、紹介して。そっちと組む」
リオは笑って首を振った。
勝ち負けから離れた所にいるつもりだった自分にも、院で否定された日の声は残っている。誰かに研究を認めてほしい気持ちは、役に立つ仕事を始めたら消えるものではなかった。
エルナは結び目を指で押した。それから、不意に、布をほどき始めた。
「きつすぎましたか」
「いや。これ、邪魔になる」
短い布端でも、物を引っ掛ける位置だった。
リオが手を出しかけると、彼女は帯を少し上げた。
「ここ、押さえて。そっちの端」
「はい」
革は、思っていたより手に馴染んだ。乾いた所と、何度も曲がった柔らかい所がある。新しい品に替えればよい、とは簡単に言えない形だった。
エルナは布を抜き、今度は帯の裏へ短く収まるように通した。
「これなら、見なくても分かる」
結んだ場所を左の指でなぞる。
リオは押さえていた手を離した。
「院の道具にも、似た印をつけていました。同じ瓶でも、暗い中で違えないように」
「暗い中で仕事するの、好き?」
「好きではないです」
「私も。朝の稽古だって、もう少し明るくなってからでよかった」
窓から差した光が、二人の靴の間へ長く伸びていた。
エルナは剣帯を膝へ置いたまま、しばらく締め直さなかった。
リオは帳面を開こうか迷い、膝の上で両手を重ねる。
彼女が話し始めたのは、通りの荷車が過ぎてからだった。
「あの部屋を見てて、少し、怖くなった」
リオは窓を見た。施療所の候補のことだと気づくまで、一拍掛かった。
「借りるお金のことですか」
「それも。私のお金は、まだ私のだからね」
「もちろんです」
「そういう話だけじゃなくて」
エルナは、革の裏の印へ親指を置いた。
「あなたは、あそこに机を置くんだなって思った。治してほしい人が来て、薬を温めて。ここでやることが、ある」
「まだ、許可もないです」
「知ってる。あることにしてるんじゃない」
彼女は一度、息を吸った。
「私、塔で手が動いた時、戻れるって思ったんだよ」
リオの胸の奥で、小さく何かが固まった。
三呼吸のあいだの動き。あの時の彼女の顔を、彼も覚えていた。
「でも、帰ってきたら、どこへ、ってなった」
エルナは笑おうとして、やめた。
リオは、剣を持てるようになれば仕事を選べる、と言いかけた。その言葉では、彼女がいま置いた場所まで届かない気がして、口を閉じた。
「戻りたい場所が、あるんですか」
「朝の廊下」
返事は、すぐだった。
「ああいうの。誰かが先に靴を履いてて、私が追いかける。飯の味に文句を言って、明日は勝つって言う。あの時は、毎日、同じ場所だと思ってた」
布の端を撫でていた指が止まる。
「でも、私が剣を抜けたとしても、あそこまで同じにはならない」
リオは頷くことも、すぐにはできなかった。
彼女の部隊の一人ひとりを、彼は知らない。誰が何を失い、いまどこにいるのか、彼女がまだ話していない所を、治療の見通しで埋めることはできなかった。
階下から、誰かが椅子を引く音がした。
エルナは、音の方を見た。
「農家の娘に戻れば、って言われたこともある。働く手が、全部なくなったわけじゃないんだからって」
「……そう言われたんですね」
「間違ってない所はある。家の仕事も知ってる。嫌いで出てきたんじゃない。でも、私が剣を取りたいって言ってる時に、鍬も持てるでしょ、って返されると」
言葉が、そこで切れた。
彼女は右の手を開いた。革を押さえた跡が、掌に薄く残っていた。
「何の話をしてたんだろう、ってなる」
リオは、机に並べる薬瓶を思い浮かべた。
院を出ても、別の仕事はある。そう言う人がいたなら、自分も、同じ所で返事を失ったかもしれない。
けれど、それを、同じですね、と言ってしまいたくはなかった。
「僕は、エルナさんが剣を握りたいという話を、続けたいです」
彼女の目が、こちらへ戻った。
「前にいた場所へ戻れることまでは、約束できません。そこを治せると言ったら、嘘になります」
「うん」
「剣を握る時の腕を、調べることはやめません。帰ってから怖くなったからといって、塔で見つけた結び目が、なかったことにはならないです」
エルナは、右の手を膝へ戻した。
「怖いから、握れないんじゃないんだね」
「はい。怖い時もあることと、呪いの条件は、同じにしません」
「それ、もう一回聞けてよかった」
彼女は窓へ顔を向けた。
リオは、同じ説明を繰り返す意味が、記録の確認以外にもあるのだと知った。
エルナは、きっと塔で理解していた。いまも、忘れたのではない。戻ってからの生活の中で、もう一度、自分の方へ置きたかったのだ。
「リオは、あの院に戻りたい?」
問いが、今度はこちらへ来た。
リオは院章のない胸元を見下ろす。
「研究を読んでほしい人は、います」
「そこへ戻るのとは、違う?」
「いまは、違うと思います。僕の言う通りだったと分かってほしい気持ちは、まだありますけど」
言うと、少し顔が熱くなった。
「それ、いいと思う」
「あまり立派な理由ではないです」
「立派な理由だけで朝起きてる人、私は知らない」
エルナの声に、ようやくいつもの乾いた響きが戻った。
「あそこの椅子が欲しいのも、窓からパンの匂いがしたから、ちょっと増えたでしょ」
「……それは、少し」
「少し、が二回目」
リオは笑った。肩の辺りから、息が抜ける。
施療所を開きたい理由を、人を救いたいという言葉だけに閉じ込める必要はなかった。自分の机を持ちたい。誰かが帰ってくる部屋にいたい。窓から、通りの匂いがするのも嬉しい。
「エルナさんは、剣が戻ったら、最初に何をしたいですか」
問いを口にしてから、彼は付け足した。
「仕事でなくても、いいです」
「仕事でいいよ」
彼女は少し考えた。
「でも、最初は、誰も後ろにいない所で振りたい」
椅子の下の鞘へ、二人の視線が落ちた。
「守るために、振らなきゃって思わないで。抜けるって、自分で分かりたい」
「はい」
「それから、誰かと稽古。負けたら、翌朝、早く行く」
「寝坊したふりをして?」
「今度は、先に起きたって言う」
その声は、未来をもう持っている人の声ではなかった。
そこへ行きたいと、自分で指した人の声だった。
リオは、鞄から塔の記録を出した。
エルナは身を強張らせなかったが、すぐに覗き込みもしなかった。
「今日、読める所を一緒に選んでもらえますか。全部、今すぐではなくて」
「あの部屋の見積もりは?」
「返事を待つものと、僕が書くものを分けました。今日、煙道の金額が分かったことにはしません」
「私の話を書きたい?」
彼女は紙ではなく、リオの顔を見た。
彼は、手を止めた。
「治療で聞き直す時に必要なことだけ、別の紙へ残したいです。朝の廊下や、家へ戻れと言われた話は、調査の報告には入れません」
「なら、剣を振る時、後ろに人がいない所がいい、って所だけ」
「そこだけ、ですね」
リオは短く書き、紙を向けた。
エルナは読み、少し考えてから、ひと言を足した。
「治って、試せるようになったら。いま、抜いて確かめる話じゃない」
彼は、彼女の言った通りに書き足した。
塔で一度動いたことを、今日も動くはずだという約束にしてはいけなかった。
紙の裏には、何も書かなかった。
エルナが、その空いた裏を指で押さえた。
「これ、私が持っててもいい?」
「はい。写しを、僕の方へ置かせてもらえれば」
「同じことを書いた紙が二枚あると、後で違ってた時、困らない?」
リオは、もう一枚を出しかけた手を止めた。研究室では、原本の置き場所を決めてから写していた。彼女の希望を聞いた紙だけ、思いつきで増やそうとしていた。
「では、今日は、これを持っていてください。僕の帳面には、紙をエルナさんへ渡した日だけ書きます。試す時に、また読ませてもらえますか」
「うん。違うことがしたくなったら、先に言う」
彼女は紙を、剣帯と別の内ポケットへ収めた。
願いを一度聞いたから、その先も変わらないと決めてよいわけではない。リオは空いた手を膝へ戻し、渡した紙が、彼女の身体と一緒に動くのを見た。
午後の光が廊下へ移るまでに、二人は、持ち帰った紙の束を三つに分けた。
その場で見たこと。古い記録から写したこと。見比べても、まだ分からないこと。
分からない束は、いちばん薄かった。薄いから大切でないわけではなく、書けるほど確かめていないだけだった。
エルナはその束の上へ、空いた紙を一枚置いた。
「次に行って、ここが増えるんだね」
「減るとは、限らないです」
「それは、ちょっと嫌だ」
「僕もです。でも、分からない所を見つけて帰れるのは、前へ進んだことにしたいです」
彼女は、少し笑って頷いた。
結界が今も同じかどうかは、町の宿では確かめられない。前に見た道を、次にも同じだと決めない。その余白を残したまま、リオは紙を揃えた。
報酬の精算も、部屋を借りる返事も、まだ済んでいない。
それでも、治療の後にしたいことが、ひとつ、彼女の言葉で書かれた。
エルナは剣帯を締め直した。今度は裏の短い目印を指で確かめてから、立つ。
「少し、歩いてくる。下見の続きじゃなくて、私が町を見たいから」
「一緒に行っても?」
「その束を置いたら。歩きながら読まない人なら」
リオは紙を鞄へ収め、留め金を閉じた。
彼女が先に靴を鳴らす。
兵営へ戻ったわけでも、新しい居場所が決まったわけでもなかった。
それでも、今日この廊下では、追いかけてよい人が先に歩いていた。
リオは空いた手で戸を閉め、階段へ向かった。




