戻った光、変わる道
【前回までの人物】
・リオ:塔で得た資料を整理する解呪師。施療所の候補はあるが、開業も賃貸契約もまだ。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。治療後は、まず誰も後ろにいない場所で剣を振りたいと話した。
散歩の途中で、リオは、塔の外郭に、光の門が戻ったと聞いた。
薬材店の角だった。干した葉の青い匂いと、荷車から落ちた土の匂いが混じっていた。エルナは剣帯の裏へ一度指を入れ、道の端へ寄る。向こうから来た男の背負い枠が、通りの幅を半分使っていた。
「塔へ行った二人だろ」
男は長靴の泥を石の縁で落としてから、エルナを見た。枠には折り畳んだ縄と空の袋がある。外郭で探索者の荷の回収を請ける働き手だった。
エルナの返事が短くなる。
「戻ってきたの。荷は?」
「今日は空だ。東の門が閉じてる。朝は通れたって隊が、帰りに回された」
リオは、鞄の留め具へ手を掛けた。
塔から持ち帰った図を思い浮かべた。割れた殻の端へ、赤い光は戻っていなかった。その光の止まった外郭と、男が言う門は、同じ位置とまだ確かめていない。
「石が落ちたんですか」
「石なら、見える。あそこに光の筋が戻ってたんだ。俺は門の向こうへ入ってない。西へ回った連中から聞いて、手前まで見に行った」
男は自分の腕で、門の幅を示した。
「触った人は、いますか」
リオが訊くと、男は首を振った。
「俺は触ってない。他の連中の全部までは知らねえ。荷は諦めて戻った。割に合わないってより、どこを踏んでいいか分からなくなった」
「それでよかった」
エルナが言った。
男は、空の袋へ一瞬だけ目をやる。
「よかっただけで飯になればな。ま、明日もう一度行ける足は残った」
冗談のあとにも、悔しさは顔から消えなかった。
リオは何か渡せる情報がないかと図を探しかけた。けれど、自分の図が捉えていない所の話を、いま聞いている。
「どの時刻に見たか、聞いてもいいですか。僕たちの記録と、並べたいです」
「昼の鐘より前。門の脇に陽が当たる頃だ。細かい数が要るなら、番所へ聞いてくれ。帰りに届けたから」
男は、通りの先の建物を顎で示した。
エルナは、まだ枠を背負ったままの彼へ言った。
「荷を置いてからでいい。私たちの図を見てもらうなら、また頼む」
「その時ゃ、仕事の分でな」
「うん。今日の立ち話を、明日の約束にしない」
男は少し笑い、枠を揺らして歩いていった。
残った泥の粒を、リオは見下ろした。
さっきまで町を見に来ていた目が、もう塔の方へ走っている。
「戻りますか」
「まだ。紙を見せて」
エルナは鞄ではなく、通りの空いた軒下を指した。
「道の真ん中で、塔へ戻らないで」
リオは、留め具に触れたままの自分の手を見た。
「……はい。まず、ここへ」
図を広げた台は、店の外へ出された空の木箱だった。店の人に断ると、品を置かないなら、と場所を空けてくれた。礼を言い、二人は重い荷の邪魔にならない側へ並んだ。
リオは、東の門へ指を置く。
「殻の割れ口では、赤い光が戻りませんでした。止めた外郭の線は、そのまま働かないと考えていました。門まで、同じように」
「ずっと切れたまま、って?」
「少なくとも、いま残っている外郭では。そう、書きました」
エルナは、図の下の日付を見た。
「これ、私たちが通った日の図だね」
「はい」
「古い報告書は、もっと前。私たちが見た殻と、今日の門は場所も違う。重ねたら、外郭の全部が、ずっと同じだったことになる?」
リオは返事をしなかった。
知らないことを言い当てられたのではない。自分で分けた三つの紙を、考える時にはまた一つに戻していた。
古い報告書があること。割れた殻の光が戻らなかったこと。外郭のどこでも、同じように供給が止まったこと。
最後の一つだけは、誰も見ていなかった。
「なりません。僕が、間を埋めました」
エルナは頷いたが、責める声にはならなかった。
「塔で手が動いた所も、そう?」
その問いには、リオは顔を上げた。
「同じことが、関わっているかもしれません。ただ、門が閉じたと聞いたからといって、あの三呼吸を、違う原因だったとはまだ言えません」
「じゃあ、あれまで、なくならない」
「なくなりません。エルナさんが動かした手を、僕も見ました。今日の話で変わるのは、塔の線が固定されているという、僕の考えの方です」
エルナの左手が、木箱の縁から離れた。
それを見て、リオはようやく、彼女が何を確かめたかったのか知った。調査の失敗を訊いたのではなかった。自分の身体で得た小さな成功まで、取り上げられるのではないかと訊いたのだ。
「いま、握って確かめる必要はないです」
「分かってる。ここで剣を抜いたら、店の人に怒られる」
乾いた冗談に、リオも小さく笑った。
だが、彼女は続けて、真面目な目を図へ戻した。
「次にあそこを通る予定なら、変える。私、通れない門の前で、あなたを守るとは約束しない」
「はい。次の入口は、今日の状態を聞いてからにします」
彼は、図の門を塗り潰さなかった。
紙の端へ、新しい報告、と書く。男が見た時刻は幅を残し、自分がまだ直接聞いていない人の話を、別の括弧へ入れた。
線が一本増えただけで、進める道は、ひとつ減った。
それでも、知らずにそこへ戻るより、いい。
市の窓口へ着いた時、まだ戸は開いていた。
リオは受付の女性へ、帰還した荷役の届けについて、日時と門の状態を確認したいと伝えた。
以前、開業の相談を受けた時と同じ、書類を指で一度揃える手だった。女性は図の門を見てから、閲覧用の用紙を出した。
「個人の氏名や依頼先までお見せできるとは限りません。通行に関する報告の範囲で、係へ確認します」
「そこだけで、大丈夫です。僕たちの通った時と違うようなので」
リオは、自分の観察日を書いた。
女性はその欄を指し、エルナへも目を向ける。
「お二人が確認したのは、外郭の一部なのですね」
「はい。割れた殻と、その近く。今日の門は見ていない」
エルナの返事を聞き、女性は二枚目を並べた。
「では、今日確認なさったことと、前に確認なさったことは、分けて残してください。塔の内側の術式について、こちらで診断はできません」
「僕も、窓口で原因まで決まったことにはしません」
答えながら、リオは自分の指が早く動きそうになるのを抑えた。
急いで欲しいのは、正しい答えだった。だが、正しい答えの形を先に作って待てば、届いた物をそこへ押し込んでしまう。
エルナは、窓際の椅子へ腰を下ろした。
剣帯の裏の印を、今度は見ずに確かめる。彼女の手が日常の動きをするたびに、リオは、それを試験へ変えないで見られるようになりたいと思った。
控えを待つ前に、リオは古い記録の写しをもう一度確かめた。
写しの横には、外郭への供給が止まったと読んだ自分の小さな注記がある。元の文字ではない。
「ここ、僕が足した所です。古い記録がそう言ったみたいに、読み返していました」
エルナは、原文の範囲と、リオの字の境を見た。
「消さないの?」
「消したら、次にどう間違えたか分からなくなります。横へ、観測した時だけ反応が見えなかった、と直します」
「なら、私も、前に見た所までにする。次も同じって、昨日なら言ってた」
彼女は、自分の図の余白へ短く足した。
リオ一人の間違いを皆が指摘し、本人だけが反省するための紙ではなかった。二人とも、帰ってきた道へ安心を置き、そこを次の出発点にしたがっていた。
彼は、閉じた門が残した悔しさを、都合のよい教訓だけに変えたくなかった。
「今日聞いた人にも、確認できた分は返したいです。僕たちの古い図が、次も使えると思われないように」
「うん。閉じたって大声で広める前に、どこまで分かったか、一緒に渡そう」
エルナは紙を揃えた。自分の願いを書いた紙は出さず、道の図だけを机へ残した。
待っている間、二人は何も話さなかった。
窓の外を、粉の袋を積んだ荷車が通った。階段の手摺に手を添えて上がってきた老人が、息を整えてから別の窓口へ向かう。
エルナが、その背へ目をやった。
「朝の廊下の話、今日の報告には書かないでね」
「書いていません」
リオは鞄を開けずに答えた。
「さっきの、手が動いた所までなくなるのかって訊いたことも?」
「門の状態を調べる書類には、書きません。治療の話をする時に、僕が覚えておきたいです」
「なら、覚えてて。書く時は、また訊いて」
「はい」
彼女は窓の方へ戻った。
その横顔には、さっきまでの不安だけではない、少し苛立った硬さもあった。
リオは、それを自分への不信だと決めつけかける。
だが、彼女は、自分で続きを言った。
「門が閉じたの、腹が立つ。やっと、次を考えたのに」
「僕も、悔しいです」
「分かった顔で、じゃあ別の所からって、すぐ言われたら、もっと腹が立ったと思う」
リオは笑えなかった。
言いそうになった返事が、まさにそれだったからだ。
「別の所も、まだ見ていません。今日は、通れる道を決めたことにはしません」
「うん。その方が、次をちゃんと考えられる」
窓から来た風が、図の隅を捲った。
エルナは紙の上へ手を載せた。右の手だった。
剣の柄を握れない手は、二人の紙を押さえられた。
女性が戻った時には、個人の名を伏せた短い控えが一枚あった。
朝の早い便が通過した時、東門の光は見えなかった。その後、通行をやめて外へ回った隊が、門の下に連続する光を届けている。最初と次の間には、観測の空白がある。
「閉じ始めた瞬間を、係が見たわけではありません」
女性は最初にそう言った。
「こちらは同じ門の届けとして扱っていますが、立った位置も違います。お二人の記録と比べるなら、その差も残してください」
リオは紙を受け取る前に、閲覧と転記の範囲を聞いた。
通行上の状態と報告の時刻は控えてよい。名前を伏せた用紙を、元の届けそのものと称して配らない。その確認をしてから、彼は必要な欄を写した。
朝には見えなかった。
昼前には見えた。
外郭の反応が全て止まったまま、という考えでは、その二つを同時に説明できない。
光が見える位置の違いだけかもしれない。それでも、固定された供給路という仮説には、確かめ直す箇所ができた。
リオは、古い線の横へ点線を引いた。
「同じ錨から、いつも同じ線へ流れるとは、限らないのかもしれません」
エルナが図を見る。
「流れる方が、変わる?」
「あるいは、働く時が変わる。ここでは、どちらとも決められません。次は門だけでなく、脇の線と、反応した時刻を一緒に見たいです」
「私の手を、門の代わりに使わないで」
「使いません。人が触れなくても見られる所から、始めます」
答えてから、リオは点線の先を空けた。
まだ繋がる先を見ていない。都合よく、黒槍獣のいる所まで引いてはいけなかった。
窓口の女性へ礼を言い、二人は席を立った。
外へ出ると、薬材店の角は、もう違う色になっていた。
さっきの木箱には、売り物の籠が戻されている。二人が考えていたあいだにも、店の仕事は続いていた。
「今日は、散歩のつもりだったのに」
リオが言うと、エルナは鼻から短く息を出した。
「散歩の途中で知れてよかった。塔の門の前で聞くより」
「……それは、はい」
「でも、ここから宿までは、紙をしまって」
彼は図を畳んだ。
開業の許可も、借りる部屋も、塔の攻略も、今日、決まってはいない。出発の日を早めたくなる理由が増えたからといって、必要な準備が減ったわけでもなかった。
「ダリオさんへは、次の道が同じではないかもしれない、と伝えます。出資の続きは、その話をしてからに」
「私も話す。調べた日のことなら、あなた一人より、二人の方が違いを言える」
リオは頷いた。
彼女が言ったのは、どんな門でも守ってみせる、ではなかった。
知らない門へ行く前に、知っている道を二人で確かめ直すということだった。
金貨も銀貨も、この立ち話で増えてはいない。エルナの内ポケットには、最初の一振りをしたい場所の紙がある。リオの鞄には、最初の仮説を直す紙が増えた。
どちらも、なかったことにはしない。
宿の階段へ向かう前に、エルナが一度だけ空を見た。
「次に行ったら、知らなかった所が、また増えるね」
「たぶん。でも、今日、減った思い込みもあります」
「そっちは、減らして」
いつもの短い声だった。
リオは、その言葉を帳面へ書かずに頷いた。
閉じた門の話を聞いても、次の一歩まで閉じたわけではない。
その一歩をどこへ置くかは、明日の準備で、二人でもう一度選べた。




