帰る役目も、分けて持つ
【前回までの人物】
・リオ:塔の呪いを調べる解呪師。外郭の光が止まったままという仮説を、東門の新しい報告で見直している。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。治療で手が動いた三呼吸を大切にしながら、次の役目を自分で選ぼうとしている。
・ダリオ:二人の調査を支える商人。調査の勘定と、薬舗へ渡す金は別にしている。
翌朝、鞄を持ち上げたリオは、肩紐の重さに顔をしかめた。
昨日の図と、古い記録の写し。まだ照合していない紙まで詰めたら、底の縫い目が丸く張っていた。寝台の上には、入りきらなかった替えの布がある。
廊下からパンの焼ける匂いがした。朝食を取りに出るだけなのに、鞄はもう塔へ向かう重さだった。
「それで、何日留守にするの」
開いた戸の前で、エルナが尋ねた。灰金の髪を低く結び、左手に杖を持っている。リオは鞄を下ろした。
「まだ、出ません。ダリオさんに見せる分を選んでいました」
「選んで、それ?」
彼女の目が、机の空いた場所へ動く。持っていかない紙を置く場所は、ほとんどなかった。
リオは肩紐を解き、図を一枚抜いた。次の紙も、その次も気になった。
部屋を押さえてもらっている期限がある。煙道の見積もりはまだ来ていない。調査が長引けば、借りると決めるための材料まで、足りなくなる気がした。
だが、紙を増やしても銀貨にはならない。
「部屋のことを考えると、早く結果を持ち帰りたくなります」
口にすると、エルナは戸口から離れた。鞄ではなく、机の前の椅子を引く。
「私も。だから今日、門を見に行こうと言われたら、断るのに困った」
「言いかけました」
「顔が、もう行ってた」
彼女は椅子に座り、右手で一枚の角を押さえた。
「今日は準備に使う。明日行くかは、準備を見て決める。それなら、私も急げる」
リオは少し考えてから、鞄の中身を全部、寝台へ戻した。
底から乾いた草の欠片が落ちた。帰ってきた日のままの汚れだった。新しい道を考える前に、まずこれを払わなくてはいけなかった。
それでも、外郭の古い写しは、まとめて鞄へ戻した。道を選ぶ相談で要るかもしれないと思うと、そこだけは置けなかった。
ダリオの店では、入口の荷車を通すために、二人はしばらく壁際で待った。
濡れた車輪の跡が床へ続いている。赤茶の巻き毛の商人は、荷札を受け取り、運び手へ空いた棚を示してから振り向いた。
「お待たせしました。今朝は、紙のお届けですか。それとも、その紙ほどのお買い物で?」
「買い物を増やす前の、相談です」
リオが答えると、ダリオは笑い、店の奥の机を空けた。
机に出したのは、日付を分けた三枚と、番所で転記を許された範囲の控えだった。エルナの腕の記録は、宿に残してある。
リオは、外郭の線が止まったままだと考えていた部分を指した。
「ここを、直します。僕たちが見た殻の割れ口と、昨日の東門は、別の場所です。東門については、僕たちはまだ見ていません」
ダリオの笑みが薄くなった。彼は紙を自分の方へ引かず、指先だけを机に置いた。
「前と同じように近づける、とも限らないのですね」
「はい。光が出る場所か、時刻が変わる可能性があります。ただ、報告した人の立ち位置の違いも、まだ除けません」
「知らなかったのは、門の方だけではありませんね」
「僕の見方もです」
言ったあと、リオは修正した線を隠さずに残した。
ここまでの調査で分かったことまで捨てる必要はない。ただし、間違えた所を、次の道の土台にはできなかった。
エルナが別の日の図を並べた。
「この紙は、この日に通れた道。次も通れる、とは読まないで」
「承知しました。読んだ側が景気よく話を大きくしても、困りますからね」
ダリオは控えに日付を書き添えた。それから、二人を交互に見た。
「今日は、調査の条件を変える相談ですね。報酬の精算も、薬舗へのお金も、別にしておきましょう」
リオは、図から指を離して頷いた。
「お願いします」
机に財布は出なかった。部屋の話が気になるからといって、まだ受け取っていない銀貨を、家賃に数えることもできない。
ダリオは店先の荷車へ目を向けた。
「それでしたら、ちょうど、道のことで困っている方が来ます。お二人の紙を見せてよいか、先に伺っておきます」
現れたのは、昨日、薬材店の角で会った男だった。
背負い枠は今日は壁に預けていたが、折った縄を肩に掛けている。長靴の縁の泥は、白く乾いていた。
男はリオを見ると、机から一歩離れた所で止まった。
「昨日の続きなら、今は長く取れねえぞ。荷の引き取りの話で来たんだ」
「ええ。そのお見積もりの前に、役に立つかもしれない紙がありまして」
ダリオが、リオへ手を向ける。
リオは三枚のうち、外郭の通行記録だけを差し出した。
「僕たちが見た場所と、見た日です。仕事の見積もりに使うなら、分からない所も一緒に見てください」
男は縄を肩から下ろした。図の向きを変え、東門と、二人が通った道を見比べる。
「こっちから回れって紙じゃないんだな」
「まだ、そうは言えません」
「なら読める。通れるって札だけ回ると、最後に荷を背負う奴が困る」
彼は指で門を塞ぎ、図の端まで滑らせた。
「明日、俺も手前までは見たい。引き受けられる荷か、返事を待ってもらってる。門を越せたつもりの値段は出せねえ」
エルナが、机の横から身を寄せた。
「私たちも、確かめてから進みたい。手前までなら、一緒に見られる?」
「その先まで運べ、って話は別だぞ」
「別。あんたの荷も、私の剣も、勝手に勘定へ入れない」
男は、彼女の腰へ一度だけ視線を落とした。エルナはそれ以上、剣の説明をしなかった。
「……それならいい。俺は荷を見に行くんじゃなくて、荷を取りに行ける道か見に行く。そこは変えるなよ」
リオは頷き、男が確かめたい範囲を、自分の調査の横へ書いた。
他の探索者と一緒に行けば、安全になる。
さっきまでは、そう言いそうだった。同じ道を歩く理由が違えば、先へ進みたい時も、戻りたい時も違う。それを聞かずに人数だけ足したら、むしろ引き返しにくくなる。
ダリオが、店の奥へ続く戸を開けた。
「明日のお話の前に、少し荷物を見ていただけませんか。こちらの箱を動かす間だけ、奥が空きます」
荷捌き場の石床は、店先より冷たかった。
乾いた木の匂いがする。棚の間には、出荷を待つ布包みと、空になった木箱が分けて積んであった。
男は入口へ戻って枠を持ってきた。空のまま背負い、肩紐を引き直す。
ダリオに使ってよい箱を確かめて、リオは鞄を置いた。縄の男が片手で持ち、眉を寄せる。
「書くための紙より、書いた紙の方が多いな」
「途中で比べたくなった時に、ないと困るので」
「比べてる間、誰が道を見る」
リオは、エルナを見かけた。
彼女はその目線を受け止めて、杖の先を床へ下ろした。
「私が前を見て、リオの紙を見て、この人の荷も見るの?」
リオの耳が熱くなった。
剣で守ってくれとは言っていない。それでも、役目を空けた所へ、彼女が入ることを待っていた。
「紙を開く時は、僕が止めます。先へ歩きながら、読まないようにします」
「止まれば済む、かな」
エルナは責める調子ではなく、棚の間を見た。
ダリオが荷札を外した空箱を、一つ、奥へ移す。さっきまで広かった通り道が、商売に必要な幅へ戻った。
エルナが、空いた床を杖で示す。
「ここで、試してみる?」
彼女に促され、リオは鞄を背負った。
塔のつもりで危険なことをするのではない。出入りする店の人の邪魔にならない所で、荷を持った三人が止まり、また戻れるかを確かめるだけだった。
それなのに、最初の一度で、リオは男の姿を見失った。
棚の角で紙を開き、外側へ避けた。エルナが足を止める。その奥で、男の背負い枠が、出っ張った箱の角に当たった。
木の乾いた音がした。
「おい。戻るなら、そっちに広がるな」
リオは慌てて紙を畳もうとした。角が鞄の留め具に挟まり、白い端が裂けた。
エルナは通り道へ踏み込まず、その場で呼んだ。
「リオ、顔を上げて」
紙から目を離すと、男は両手を枠に掛けたまま、こちらが空くのを待っていた。
リオが寄せた鞄と自分の体で、戻るための場所を狭くしていたのだ。
「すみません。僕が、塞いでいます」
「謝るのは、どいてからでいい」
男の声には苛立ちがあった。リオは身を引き、枠の角が通り過ぎるのを見た。
紙に道が描けても、荷を持った人の幅は、線一本にはならなかった。
ダリオは、裂けた紙を拾おうとしたリオを手で止めた。
「それは、こちらで。まず三人とも、箱のない所へお願いします」
広い所へ戻ってから、リオは紙を受け取った。
裂けたのは余白だった。文字は残っている。たったそれだけの損で、胸がこんなに縮む。
もし、なくしたくない記録を塔で落としたら、自分は戻る判断より先に、紙を取りに行ってしまうかもしれなかった。
「写しを、作り直します」
リオは寝台で選びきれなかった紙を、机へ並べた。
「これを全部持っていたら、全部を気にします。元の記録は宿に残します。外で必要なものだけ、一枚ずつにします」
「それなら、濡らした時に全部開かなくていい」
男は鞄の横の厚みを指で押し、それ以上は中身へ手を入れなかった。
エルナが、リオの前へ空いた紙を置く。
「捨ててもいい紙を作るんじゃない。紙より先に、顔を上げる練習をして」
リオは、裂け目を撫でていた指を止めた。
「……はい。紙は、大切です。でも、持っている僕が戻らないと、渡せません」
「そこまで忘れたら、紙に書いても役に立たないからね」
言いながら、彼女は口の端を少し上げた。
二度目には、道を進む前に、三人がそれぞれ何を見るかを口にした。
エルナは、足場と、前へ進めるかどうか。
男は、自分の枠を含めた荷の通りと、帰りにも同じ幅が使えるか。
リオは、光の状態と記録。ただし、誰かが足を止めたら、紙より先にその人を見る。
「二人が違うことを言ったら、僕は、理由を聞くまで進みません」
リオが言うと、男は片方の肩を上げた。
「俺が戻りてえ時に、二人分の用が済むまで待つ気はねえぞ」
「待たせません。その先も一緒だと、決めていないので」
エルナが、杖を持ち直した。
「私が戻ると言った時も、私だけが決めたせいにしないで。気づいたなら、リオも言って」
彼は、すぐに頷くのをやめた。
任せるという言葉で、退く時の重さまで彼女へ渡していた。そのことは、紙を減らすより難しかった。
「僕も言います。調べたいものが残っていても」
今度は、箱の角に男の枠が近づくより先に、リオが顔を上げた。
「ここでは、広げません。戻りましょう」
エルナが場所を空けた。男が先に向きを変え、リオもその動きを見て鞄を寄せる。
三人で荷を取りに進まず、何歩か戻った。それだけだった。
けれど、さっき枠の当たった箱には、今度は誰も触れなかった。
男が出口で、肩から縄を外す。
「今日も、空で帰れたな」
「まだ、店の中ですよ」
リオが答えると、男は初めて歯を見せて笑った。
「そこで詰まるよりは、ましだろ。明日も、空で帰ることはあるんだ」
エルナの杖が、床を小さく鳴らした。
「空で帰るのは、慣れたくないけどね」
「ああ。俺もだ」
その返事に、彼女は笑い直さず、頷いた。
悔しいまま戻ることを、二人とも知っていた。リオには同じ経験をしたと言えなかったが、その悔しさを埋めるために誰かを先へ押さないことは、選べた。
店へ戻る頃には、棚の影が朝より短くなっていた。
明日は朝食を済ませ、ダリオの店先で会う。まず門の手前で、自分たちが見られる状態を確かめる。男の仕事の下見と、二人の調査が分かれる時は、そこで改めて行き先を伝える。
リオは待ち合わせと、町へ戻る見込みを書いた控えをダリオへ渡した。
「遅れた時、これだけで助けが来るとは、思いません。帰ったら、まず店へ知らせます」
「私がいなければ、店の者へ伝えてください。店を閉める前に、私も確かめます」
ダリオは控えを荷札とは別の場所へ置いた。
男は自分の見積もりの話へ戻った。二人の相談に付き合った時間を、仕事が済んだことにはしていない。ダリオも、改めてそちらへ椅子を向ける。
リオとエルナは礼を言い、店を出た。
鞄の底が、腰の上で揺れた。紙を分けるのは宿に戻ってからだ。中身は、来た時と同じだけ入っている。
「明日は、これより軽くしてきます。門の前で肩を痛くしていたら、困りますから」
「私に持たせようとしなかったのは、よかった」
「そこまで顔に出ていましたか」
「それは出てない。今、言ったら、どんな顔になるかと思った」
横を見ると、灰緑の目が少し細くなっていた。
リオは苦笑して、鞄を持ち直した。彼女の内ポケットにある紙も、剣帯の裏の布も、今日の調査用紙に移してはいない。彼女が持つものには、彼女が決める場所があった。
宿に戻ってから、リオは持ち出す写しを清書した。日付と場所、見えたもの。誰かの報告を写した所には、その区別を残す。分からない線の先は、白いままにしておいた。
元の図を乾いた棚へ収め、鞄を持ち上げると、今度は肩紐が食い込まなかった。エルナが窓辺から手を伸ばし、空白の多い写しを受け取る。東門の欄はまだ埋まっていない。そこを指で押さえてから、彼女はリオへ返した。
帰り道をエルナ一人に預けないと決めても、彼女の腕から呪いが減ったわけではなかった。
夕食へ下りる階段の前で、彼女はリオを待たずに言った。
「明日、私が前を見る。後ろのことも、見ていて」
「はい。僕からも、引き返すと言います」
エルナは頷き、一段目へ杖を置いた。
リオは紙を出さず、二人分の足音を聞きながら、そのあとに続いた。




