剣を抜く前に、選んだ道
【前回までの人物】
・リオ:塔の光の変化を調べる解呪師。持ち出す記録を分け、自分からも引き返すと伝えると決めた。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。再出発では自分が前を見て、道を選ぶ役を引き受けた。
・ダリオ:二人の相談を支える商人。自分の店で、帰還の知らせを受けることになっている。
ダリオの店先で鞄を持ち上げた時、リオの肩は、昨日よりわずかに高い所で止まった。
紙を減らしたからといって、中のことまで軽くなるわけではない。持ち出す写しには場所と日付を入れ、他人から聞いた所は線の引き方も変えた。それでも、閉じた留め具へ、もう一度指を伸ばしたくなる。
「置いてきた図が、走って追いかけてくる?」
エルナが店の軒から覗いた。灰金の髪の結び目に、朝の風が細い後れ毛を揺らしている。左手の杖も、腰の剣も、前に塔へ向かった時と同じだった。
「来てくれるなら、助かります」
「途中で拾う用事が増えるよ」
リオは留め具から手を離した。彼女は笑い終えると、鞄ではなく、彼の靴へ目を落とした。
「紐。片方、長い」
リオは屈んで結び直す。乾いた土が靴底からこぼれた。昨日のうちに道具を揃えても、自分の足まで誰かに確かめてもらうのは、まだ抜けなかった。
縄の男は、すでに背負い枠を壁から離していた。空の枠に、畳んだ布と、自分の水筒だけを結んでいる。
「今日は、それ以上増やすなよ。俺の枠にもだ」
「はい。門の手前まで、一緒に。荷を引き受けていただく相談は、そこで別にします」
「そこが分かってりゃいい」
店内から出てきたダリオは、リオの肩を見て、赤茶の眉を上げた。
「昨日の紙屋さんが、ようやくお出かけらしい荷になりましたね」
「紙を減らした分まで、食べ物を詰めそうになりました」
「それは、持ち帰る時にお腹へ入っている分だけ、違いますよ」
朝食のパンはまだ腹に温かかった。リオは、今日の行き先を書いた控えの置き場所を、店の奥へ目で確かめる。
ダリオも、その目線を追った。
「戻ったら、私が見えなくても、店の者へ。予定を変える時は、伝えられる所から伝えてください」
エルナが、男と自分たちを順に見た。
「三人で出ても、戻るのは別になるかもしれない。その分は、書いてある」
「ええ。誰か一人の帰還で、全員お帰りとは数えません」
男が枠を背負った。リオは彼の肩の縄の端まで見てから、歩き出した。
町を離れると、荷車の轍に残った水が、空の色を細く映していた。
前に塔から戻った時には、自分がどこで足を止めたか、あまり覚えていなかった。今日は坂を一つ上るごとに、エルナが振り返る所と、男が枠の紐を引く所が分かる。
休む場所で鞄を下ろしても、すぐには紙を出さなかった。木の根に靴を掛けない場所を選び、三人が同じ方を向いていないかを見る。
男が水筒の蓋を閉めながら、リオの手元を指した。
「昨日より、持ってねえみたいな顔してるな」
「鞄があるか、時々確かめています」
「軽いのには、慣れとけ。重くするのは簡単だ」
エルナは石に腰を下ろし、右腕を腿の上へ乗せていた。剣の柄へは触れない。リオが視線を向けると、彼女は手を動かす代わりに尋ねた。
「塔まで行ったら、また持てるようにするつもり?」
リオは、鞄の布包みを見た。前に三呼吸だけ緩められた結び目を、もう一度見たい気持ちはある。できたことを、次の出発の保証に数えかけてもいた。
「同じことができるとは、まだ言えません。まず腕の状態と、外から見える経路を見ます。握る試みを、先に決めてはきませんでした」
「よかった。昨日から、そのつもりで歩くのは、嫌だった」
彼女の声は平らだったが、膝に置いた指が、そこで少し開いた。
リオはしゃがみ、顔の高さを近づけた。
「今は、張る感じはありますか」
「重い。痛いほどではない。鞘がここを押す」
彼女は、腿と腕の間を顎で示した。リオは勝手に帯へ触れず、折った布を渡す。エルナが自分で挟み直すと、息の終わりが少し長くなった。
「治ったとは言わないでね。座りやすくなっただけ」
「座りやすくなった、と残します」
「今は、書かなくても覚えてて」
リオは鞄から手を引いた。男は、そのやり取りへ口を挟まず、自分の靴の泥を枝で落としていた。
塔の外郭が見えた時、エルナは、まだ道の広い所で足を止めた。
欠けた石の列。その先で空へ立つ黒い壁。初めて見た時より輪郭を知っていることが、リオを安心させかけた。
だが、エルナの目は壁の上ではなく、土の色が変わる所を追っていた。
「今日は、先に東の手前まで。前の道へ降りない」
男が脇へ立ち、枠を傾けずに通せる幅を見る。
「こっちからなら、門を正面に見られる。角を曲がってから荷を下ろす場所は、ねえぞ」
「曲がる前に見る。リオ、私の後ろ。詰めすぎないで」
「ここで、紙は開きません」
「それより、靴の先を見て」
石の下に、浅い裂け目があった。リオは足を置きかけた場所を変えた。前を見続けることと、目の前の足を忘れることは、違った。
風が途切れ、石の隙間に溜まった冷気が頬を撫でた。
東門の手前には、黒い線が走っていた。最初は、濡れた石の境が光を返しているのかと思った。次に細い明かりが門柱を上がり、途中で薄く消えた。
リオは息を止めた。
止まったままではない。
聞いていた報告を、自分の目で見たものへ移せる。鞄の留め具へ伸びた指が、途中で止まった。
エルナは立ったまま、杖の先を手前の石へ置いていた。その先へ一歩も進めていない。
「見えました。門柱の右。今、下から上へ」
「見えた。次が来るまで、そこで」
男が背負い枠を下ろした。木の角が石へ触れる音が、狭い場所に思いのほか大きく響く。
リオは紙を出す代わりに、男の足の位置を見た。三人が戻る時、いちばん大きく場所を取るのは、空でも背中にある枠だった。
再び光るのを待つ間、誰も門へ近づかなかった。
今度は門柱の明かりより少し前に、向こうの壁の低い所が白んだ。リオはそこへ目を向け、すぐにエルナへ戻した。
「右奥にも、光がありました。門とは、同時ではありません」
「奥の光が先?」
「そう見えました。次も、同じか見たいです」
「俺は、この幅を見て帰る。長く待っても、枠は細くならねえ」
男は門を通ったつもりの値段を出さず、帰り道へ体を向けた。広い所で背負い直せるよう、枠は手に持っている。
リオは、もう一度だけ待ってほしいと言いかけた。奥で光る所を、違う高さから見てくれる目が欲しかった。
男の目的は、最初からその調査ではない。
「分かりました。ダリオさんへ、僕たちはまだ門の手前にいると伝えていただけますか。戻る見込みを変えた、という意味ではなくて」
「店へは寄る。見た所までだぞ。そのあと二人が何してるかは、知らねえ」
「はい。それだけを」
エルナも頷き、男が広い道へ戻るまで、足を動かさなかった。
「枠が通らねえ所へ、人の背まで押し込むなよ」
「背負う予定はない」
「予定が変わる時の話だ」
彼女は、今度はすぐに答えなかった。
「覚えておく。あんたも、空の枠に意地を積まないで」
男が鼻で笑った。縄の端が、道の曲がり角へ消える。
二人になった場所で、リオは鞄を胸の前へ移した。荷の幅が減ったから先へ行ける、というわけではなかった。戻る時に助けを呼べる声も、一つ減っている。
エルナは男の足音が遠ざかるのを聞き、前に退いた道を指した。
「あの下なら、門柱の横が見える。前は、上から来るものを避けて使った」
「今日は、そこへ?」
「まだ。こっちから見て、出口が残っているか確かめる」
リオが図を出すと、彼女は先に周りを見渡した。地面が平らで、二人が並んでも道を塞がない。その場所を選んでから、杖を自分の足へ寄せる。
紙の上で、古い退路と、今日立っている所が繋がった。
新しい光の場所は、まだ線にできない。位置を決めるためには、離れた所からも見たい。それがリオの用だった。
エルナは、白い欄へ指を置かなかった。目を上げ、実際の壁と、崩れた石の隙間を何度か見比べている。
「前の道の外側を回る。門の正面は通らない。石段の下で、一度止まる」
「そこからなら、光がどの石へ続くか見られそうです」
「それだけじゃない。向こうから出てきたものを、こっちへ引っ張り込まずに済む」
リオの指が、図の上で止まった。
呪いの経路を見るための場所と、そこへ何かが来た時に逃げられる場所。その二つは、同じ条件では選べなかった。
「観測しやすいだけの所へ、行こうとしていました」
「見たい場所は言って。私が、それを見られる道を選ぶ。見られない時も、言う」
灰緑の目が、紙の上でなく、リオを向いた。
「剣を振る役なら、まだ引き受けられない。道を選ぶ役なら、できる。今日は、そっちをやりたい」
「お願いします。腕のことは、そこで待たずに聞きます」
「聞く前に、私も言うよ」
図を畳むと、風に持ち上がっていた角が、鞄へ静かに収まった。
低い石段へ着くまでに、一度休んだ。
エルナの足が止まった時、リオは前へ出ず、戻れる側へ並んだ。彼女は肩を回しかけてやめ、腕を体の近くへ戻す。
「ここ、張る。さっきより」
左手で右の肘の外側を示す。顔はまだ壁へ向いていた。リオは周囲を見て、腰を下ろせる石の乾いた面を、手の甲で確かめた。
「少し座りましょう。剣は触らずに、腕を支えられますか」
「布を、もう少し厚くして」
彼が畳み直して渡すと、エルナは膝の上へ敷き、自分で腕を預けた。
リオは結び目の見える位置を確かめた。歩いた疲れと、呪いの張りを、目だけで分けることはできない。前の成功を急いで再現すれば、今の腕が何を訴えているか、かえって見失う。
「痺れは、指先まで来ていますか」
「そこまではない。ここを離してる方が、楽」
彼女の指が、鞘の縁から離れる。リオはその位置を覚え、すぐに魔力を流そうとはしなかった。
石の下を風が通り、湿った苔の匂いが薄くなった。水を一口飲む間、エルナは壁を見ず、足元の小さな草を見ていた。
「前は、止まったら誰かが追いつかれると思ってた」
リオは水筒の蓋を閉め、返事を待った。
「今も、一度止まると、ここに長く座ってしまいそうで嫌になる。だから、先へ行こうと言いやすい」
「僕は、もう一つだけ見られると思って、立っていたくなります」
「似たように、面倒だね」
「違う理由で、同じ方へ間違えそうです」
彼女が短く笑った。笑ったあとも、腕の置き場所は変えなかった。
しばらくして、張りが先ほどの程度へ戻ったと本人が言った。リオは指先の色と、肘を動かす時の顔を見て、先へ行くかを改めて尋ねた。
「石段の下まで。その先は、そこで決める」
「はい。休んだ分を取り戻そうとして、歩きません」
「それ、先に言われるのは悔しい」
それでも彼女は、リオが布をしまうまで待ってから立った。
石段の下では、門の横に隠れていた壁の継ぎ目が見えた。
門柱が薄く光る前に、その継ぎ目の下半分が白くなる。次の時も同じ順だった。どこから力が来るかまでは、まだ言えない。だが、東門だけを眺めていた時には、抜けていた順序があった。
リオは、開いた紙へ場所と順を書き込んだ。紙の外では、エルナの杖が石に置かれている。書き終えるたびに、彼女の顔と、戻る側の道へ目を移した。
そこで、乾いた音がした。
石を引きずるよりも重く、鉄の先で床を叩くより、長く尾を引く音だった。
エルナが杖を引いた。リオは紙を畳み、鞄の口を閉じる。
「戻りますか」
声にしてから、奥を見た。裂けた壁の向こうで、黒い突起が、光の下へゆっくり現れる。
エルナの右肩が小さく上がった。左手は杖から離れない。
「一度、石の陰へ。こっちを見てるか、まだ分からない」
二人は来た道を数歩戻り、低い壁の内へ身を寄せた。リオは鞄を手前へ置き、自分が彼女の退路を塞いでいないことを確かめた。
黒い槍のようなものが、白い線の上を横切る。
エルナの唇から、笑いのない息が漏れた。
「あれを、覚えてる」
リオは彼女の手を掴まなかった。握れるようになったつもりの剣へ、彼女を押し出すこともしない。
「今日は、どこから見ますか」
彼女は一度目を閉じ、開いた。槍の先ではなく、その下の足元を見ている。
「ここ。私が、動く方を見る。リオは、壁の光を。離れる時は、二人で離れる」
リオは頷き、鞄をさらに自分の側へ寄せた。
抜かれていない剣が、彼女の腰にあった。そのままで、エルナはもう、二人の次の一歩を選んでいた。




