黒い槍が走る前に
【前回までの人物】
・リオ:塔の光を記録する解呪師。推測と観測を分け、退く判断も自分で引き受けようとしている。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。剣を抜かず、足場と退路を選ぶ役を担った。
黒い槍の先が、白い光を切った。
低い石壁の陰で、リオは息を止めかけた。槍に見えたものは、獣の額から伸びた角ではない。肩から前へ突き出す、黒い骨のようなものだった。四本の脚が床を擦るたび、石を引きずる音が尾を引く。
エルナは左手の杖を寝かせ、石壁の縁へ目だけを出した。右手は腰の剣から離れている。
「こっちを見た?」
「目は分かりません。けれど、壁の線が光ったあとに、頭を上げました」
「順番は?」
「奥、門柱、あれです」
口にしながら、リオは紙を出さなかった。覚えるための言葉を、いまはエルナへ渡す。
黒槍獣が一歩進んだ。
肩の突起が壁へ触れる。触れた場所から白い筋が走り、門柱の方へ消えた。獣は鼻を鳴らし、今度ははっきり二人のいる石壁へ向いた。
「来る。後ろへ三歩。走らない」
エルナが先に下がる。リオは鞄を胸へ抱え、彼女の杖の先を踏まないよう横へずれた。
白い筋が、足元で瞬いた。
「今です」
獣の四脚が沈んだ。
次の瞬間、黒い槍が石壁を割った。砕けた石の粉が頬を叩く。リオは腕で目を庇い、来た道へ転がるように身を伏せた。
獣は壁を貫いたまま、首を振った。抜けない。だが、止まったのは一息だけだった。石を削る音が増し、肩の黒い突起が少しずつ戻っていく。
「右へ回る。リオ、立てる?」
「はい」
「返事だけじゃなく、足」
言われて、リオは自分の左足へ力を入れた。痛みはない。鞄の留めも閉じている。
「立てます」
二人は割れた壁の反対側へ回った。エルナは杖で床の欠けを確かめ、黒槍獣の正面から外れる。剣を抜けば届く距離ではない。それでも彼女の声は、戦場で順番を配る時の短さを取り戻していた。
「前脚が沈む前に、壁が光った?」
「はい。奥から二つ目の継ぎ目が先です」
「次も同じなら、あの線を越える前に離れる。違ったら、もっと離れる」
正解だと決めない言い方だった。
黒槍獣が突起を抜いた。欠けた石が落ち、甘い鉄錆の匂いが広がる。傷ついたのは壁だけに見えた。黒い表面には、白い細線が根のように這っている。
獣が向きを変える。
リオは奥の継ぎ目を見た。白い光が下から上へ走る。
「来ます。今度は左へ」
「見えた」
エルナが杖を床へ突き、低い段差を越えた。右腕は体の近くへ寄せたまま、左肩と脚で姿勢を保つ。
獣が突進する。
黒い槍は、二人がいた場所を通り、壁の継ぎ目へ刺さった。だが今度は浅い。獣はすぐに引き抜き、後脚で床を蹴った。
「二度目は、抜けるのが早い」
「壁が違うからか、あれが学んだからか、まだ分かりません」
「分からないままで、次を避けよう」
エルナの口元が強く結ばれた。
その言葉の直後、右腕がわずかに跳ねた。剣の柄へ伸びようとした指が、中途で曲がる。彼女は左手の杖を握り直し、右手を自分の腹へ押し当てた。
「握ろうとしましたか」
「体が先に。抜いてない」
「痺れは」
「指の付け根まで。今は聞かないで。次の足を見て」
治療者として確かめたいことが、喉まで上がった。だが獣は待たない。リオは一度頷き、壁へ目を戻した。
光の順番が変わった。
奥の継ぎ目ではなく、黒槍獣の肩から白い線が走り、床へ落ちる。
「エルナさん、今度はあれが先です」
「下がる」
二人は石段の下へ戻った。
黒槍獣は追ってこない。肩の光を壁へ流すように体を寄せ、白い線を吸い上げていた。長い息が、胸の奥で炉のように鳴る。
リオの背に冷たい汗が流れた。
「あれは、壁から力を受けているんでしょうか」
「見たものは、肩と壁が繋がった。力をもらったかは、まだ」
エルナが訂正する。リオは、自分の言葉を頭の中で書き直した。
黒槍獣が壁から離れた。
今度は突進せず、横へ歩く。二人の退路と、白い継ぎ目の間へ入ろうとしていた。
「追い出す気です」
「たぶんね。前に部隊で来た時も、あれは人より道を見てた」
エルナの声が低くなる。
「私たちを刺すだけなら、まっすぐ来ればいい。あいつは、錨へ近づく道を塞ぐ」
錨。その言葉に、リオの胸が強く打った。
塔の術式を留める何かが、この奥にある。だが今ここで、それを見つけたことにはできない。
「前にも、同じ光を見ましたか」
「白い線は見た。順番までは、見ていない。退く人を数えていたから」
過去の自分を責める声ではなかった。あの時に見たものと、今見えるものを分ける声だった。
黒槍獣が退路側へもう一歩寄る。
「石段を取られる前に、場所を変えます」
リオは周囲を見た。割れた壁の向こうに、倒れかけた門飾りがある。根元は白い継ぎ目の上に載り、細い亀裂が床まで続いていた。
「エルナさん。あの門飾り、最初の突進で揺れました」
「倒す?」
「倒れるか確かめていません。けれど、あれの槍が当たれば、道を塞ぐかもしれません」
「私たちの道もね」
「はい。だから、戻る側では使えません」
エルナは一度だけ門飾りと奥を見比べた。
「奥へ一歩誘って、外へ回る。私は杖で音を出す。リオは光。突っ込まなかったら、そこで終わり」
「終わり、というのは」
「帰る。うまくいくまで試さない」
リオは頷いた。
だが、移る前に、エルナが左手を上げた。
「待って。あそこまでの床、前と同じじゃない」
門飾りへ向かう途中に、白い砂が薄く積もっている。最初の突進で落ちた石粉だ。黒槍獣の重い足なら滑るかもしれない。二人の靴でも、同じように滑る。
「僕が先に確かめます」
「一人で行かない。杖を出す」
エルナは左手の杖を寝かせ、先端を砂へ滑らせた。表面だけがさらりと崩れ、その下には斜めの石がある。
「ここを踏まない。壁側の濃い石を二つ。私は先、リオは私の足跡」
「はい」
「返事が早い。どこを踏む?」
「壁側の濃い石を二つ。砂へは入らない」
「よし」
戦いの最中に、彼女は聞き返させた。分かったつもりの頷きで、二人を同じ穴へ落とさないためだった。
黒槍獣は、すぐには近づかなかった。肩を白い継ぎ目へ当てたまま、二人の動きを見ている。目の位置は黒い外殻に隠れ、どこを見ているか分からない。それでも、前脚の向きは退路側へ揃っていた。
リオは自分の呼吸を数えた。三つ吸い、四つ吐く。紙を開かない代わりに、見た順を口の中で繰り返す。肩、床、門。奥、床、肩。違う二つを、怖さの中で一つにしない。
「リオ。今、何を見てる?」
「次の光です。けれど、エルナさんの位置も見ます」
「私が動いたら、光を捨ててこっち。書くのは帰ってから」
前なら、観測を続けることが彼女を助ける唯一の方法だと思ったかもしれない。今は、観測をやめる条件も二人で決める。
「分かりました。声が届かない、腕の痺れが増える、退路へ入られる。そのどれかで帰ります」
「あと、あんたが転ぶ」
「それも」
エルナの口元が一瞬だけ緩んだ。
獣の肩から光が離れた。今度は突進ではなく、黒い槍を低く振る。石の破片が二人の前へ飛んだ。エルナは杖で大きな一つを逸らし、リオの胸を左肩で押して壁へ寄せる。右腕は使わない。剣へも触れない。
「目は?」
「大丈夫です。頬だけ」
細い石片が肌をかすめ、熱が残った。血が出ているかを今ここで確かめるより、獣の次の姿勢を見る。
黒槍獣は振った勢いで左へ傾き、前脚を一歩開いた。肩の突起は強いが、横へ振る時には体の向きを直す間がある。
「突く前と、振る前で、足が違います」
「見えた。突く時は揃える。振る時は開く」
「壁の光は、振る時には出ませんでした」
「なら、光だけ見てたら遅れる」
失敗になり得る観測を、その場で捨てず、使える範囲へ狭める。
「次は、場所を変えるふりだけしてみる」
エルナは杖の先を左へ出し、体は動かさなかった。黒槍獣の前脚が、杖の方へ一度向く。すぐに戻る。
「杖の動きは見ています」
「音かもしれない。一回だけ」
エルナが杖で、自分たちから離れた石を軽く叩く。獣の肩が音の方へ向いた。目で見たのか、耳で聞いたのかは分からない。だが、注意を一瞬ずらせる。
「門飾りへ誘うなら、僕たちが近くへ立つ必要はありません」
「そうだね。私が音を出す。あんたは光を言う。走る役は、二人」
作戦の中に、剣を握る役はなかった。エルナはそれを悔しそうに言わず、自分ができることを小さく見せもしなかった。
二人は割れた壁の内側へ移った。エルナが杖で床を二度叩く。乾いた音が塔の奥へ返る。
黒槍獣の肩が上がった。
白い継ぎ目が光る。奥、床、肩。
「同じ順です。来ます」
リオが声を上げる。
エルナは杖を引き、彼の外側へ回った。
「今、右!」
二人が亀裂を越えた直後、黒い槍が門飾りの根元へ突き刺さった。
古い石が悲鳴を上げる。獣が槍を抜こうと首を振り、亀裂が上へ走った。
「離れる!」
エルナの声と同時に、門飾りが倒れた。
石の柱は獣を押し潰さず、肩の突起と床の間へ斜めに落ちた。黒槍獣が暴れ、柱の下で脚を滑らせる。白い光が乱れ、壁の線が一つずつ消えた。
二人は立ち止まらなかった。石段を上がり、最初の見張り場所まで戻る。
背後で、重いものが砕ける音がした。
振り返ると、黒槍獣は柱を割り、奥の暗がりへ退いていた。倒してはいない。追う理由もない。
床には、肩から欠けた黒い薄片が一つ残っていた。
「取りますか」
リオが聞くと、エルナはすぐに答えなかった。退路と獣の消えた方を見てから、杖の先で薄片を自分たちの側へ引き寄せる。
「手で触らない。包む。ここで腕も見る」
「はい」
「それから帰る。今日は勝ち切る日じゃない」
リオは布を出し、黒い薄片を包んだ。表面の白い線は、壁から離れてもかすかに残っている。
エルナは石へ座り、右腕を膝の上へ置いた。指の付け根の痺れは、休むうちに少し引いたと本人が言った。剣は一度も抜いていない。腕が治ったとも、呪いが弱まったとも言えない。
それでも、二人は黒槍獣の突進を三度見て、光の順が同じ時と違う時を分けた。道を守るように動くことも、壁から離れると白い線が薄れることも見た。
「前は、あれを倒さないと退けないと思ってた」
エルナが、包んだ薄片を見る。
「今日は、倒してない。でも、私たちで帰れる」
「次に来る時の道も、残しました」
「門飾りは壊したけどね」
「壊れた場所も、地図へ残します」
彼女は短く笑った。
帰り始める前に、二人は来た道の石をもう一度見た。門飾りが倒れたことで、行きに使った濃い石の一つは割れている。次も同じ足場へ来られるとは限らない。
「次は、今日の右側から入れません」
「左は、黒槍獣が退いた方へ近い」
「では、同じ場所へ戻る前に、外から別の段を探します」
「戦った場所だけを覚えて、道を忘れないでね」
「はい」
リオは門飾りの倒れた向きと、通れなくなった幅を目で測った。正確な数字は、外から縄を使える時に取り直す。いまの目測を確定値にはしない。
エルナも、左手の杖で帰りの床を一つずつ確かめた。右腕の痺れは完全には消えていない。握りを試すために剣へ触れることもしなかった。
「次に来るまで、剣は?」
「宿で抜かない。張りと痺れを記録する。あんたがいない所で、治ったか試すのもなし」
「僕がいるから試せる、という意味にもしたくありません」
「分かってる。私が選ぶ。今日は選ばない」
その言葉を、リオは紙より先に覚えた。
黒い薄片を包んだ布には、直接触れた者の名と時刻を書く。光が消えるか、熱を持つかを、帰る途中でも外から見る。薬材と同じ袋へは入れない。
「これが錨の一部なら」とリオが言いかける。
エルナが眉を上げた。
「なら、じゃなくて?」
「黒槍獣の肩から欠けた薄片。白い線が残っている。錨との関係は未確認です」
「よし」
患者に訂正されて、リオは笑った。
自分が教える側だけではない。そのことが、戦いのあとにはっきり残った。
リオは紙を開き、初めて今日の順番を書き始めた。黒槍獣に勝った、とは書かない。錨を見つけた、とも書かない。
戦いの中で見えた光と、二人が自分で選んだ退路を、一つずつ別の行へ置いた。




