剣を抜かない、英雄の道
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:王立治療院を離れ、自治市ソルヴィアで独立を目指す解呪師。現地で働くための審査を受けている。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。日常の動作や護衛の経験は保たれ、リオに治療法の調査を依頼した。
・グレタ・フォルン:ソルヴィアの登録施療士。リオの予備面談を担当し、記録と実際の判断を確かめている。
翌日の実技で、リオは最初の一本を切らなかった。
市の施療棟には、乾かした薬草と、洗った布の匂いが混じっていた。試験台の上にあるのは人の腕ではない。薄い石板に、何本もの光る筋を走らせた模擬盤だった。
端の灯りを暗くする。それが、最初に与えられた課題だ。
リオは拡大鏡を置き、石板の下へ目を向けた。
「裏も見せてもらえますか」
向かいのグレタが、伸びたままの右小指を避けて盤を持ち上げた。短い胡麻塩の髪が、窓からの光で白く見えた。
「上の筋では足りない?」
「灯りへ入る線は見えました。でも、このまま断つと、下へ逃がしている分の行先が分かりません」
「なら、どこまでなら言える」
「まだ、切らない方がいい、までです」
答えてから、リオは口を閉じた。
院にいた六年を、ここで長く話しても盤の裏は見えない。
グレタは、台の下へ小さい鏡を差し入れた。
「見えないからやめる、だけで終わる人もいる。見えるようにする頼み方は、覚えておいて」
鏡には、別の細い筋が映った。
表から来た流れを分け、小さな蓄えへ戻している。リオはその線を紙へ写し、供給を止める場所と、残った力を逃がす順を指した。
グレタが一度、供給のつまみを戻す。
リオは光が細くなるのを待ち、器具の先を入れた。
盤の端の灯りが消える。下の筋は、最後まで青く揺れてから静かになった。
「……今なら、触れます」
「私が触って決めるんじゃない。あなたが、何を見てそう言ったかを書いて」
リオは紙へ目を戻した。
指が少し汗ばんでいた。うまくいった、と先に笑いたくなる手で、消える前の筋の長さを記す。
グレタは書き終えるまで待ち、実技の欄へ印を付けた。
「今日見せてもらった判断は通す。開業の許可は、提出した記録を合わせてから。ここで患者を診ていいという札には、まだならない」
「はい」
「外へ出るなら、審査に通った手より、戻って書ける手を持って帰って」
褒められたのだろうか。
リオが少し迷った顔をすると、彼女は道具の布を畳みながら笑った。
「昔、私が道具だけ先に宿へ返したことがある。持ち主が戻ったのは、翌朝だった。そういう実技は、増やさなくていい」
リオも、ようやく息を吐いて笑った。
試験台の灯りより、自分の肩の方が、遅れて静かになった。
*
エルナは、施療棟の外で地図を読んでいた。
灰色の外套を肩からずらし、低く結んだ髪を首の横へ逃がしている。リオの紙を見ると、すぐ結果の印を探した。
「今日の分は?」
「通りました。全部では、ありませんけど」
「全部じゃなくても、今日やった分だよ」
彼女が地図を畳む。
よかった、と言われるより先に、その言葉が胸へ入ってきた。
「明日は、予定どおりでいい?」
「はい。僕も、行きたいです」
言い終えてから、窓口で受け取ったもう一つの包みを出した。
黒槍の塔の報告書。エルナが問い合わせていた写しのうち、渡せる範囲をまとめた物だった。部隊の私的な連絡先などは除かれ、欠けた頁があることも別紙に記されている。
彼女は封を破らず、受取の欄と、頁数を確かめた。
「これが全部、にはしないでね」
「除かれた所と、元から無かった所を、分けて読んでみます」
「うん。今夜、私も見る。私が覚えてる道と違っても、すぐ紙の方を間違いにしないで」
手渡すと、エルナは自分の鞄の平たい所へ収めた。
以前ここを出た兵士たちにも、帰る時に書けた範囲と、書けなかったことがあったはずだ。
その余白まで、リオが診察室の想像で埋めてはいけなかった。
夜、宿の机へ写しを広げると、エルナは、塔へ入った時の道を指した。
紙にある曲がり角を、一つずつ追っていく。その指が途中で止まる。
「ここから先、私は、戻る人の背中を見てた。前と同じ道を、逆に歩いたとは言えない」
リオは、その先へ引こうとしていた線を止めた。
入口を覚えていることと、傷を負って戻った道を覚えていることは、同じではない。
「思い出すために、もう一度、そこまで行く必要はありません。まず、外から分かる所を見ます」
「うん。私も、記憶の穴を埋めに行くつもりではいたくない」
エルナは指を離した。机の端には、出発用に揃えた二本の旅の杖が並んでいる。
リオは報告書の頁番号を確かめ、道の控えを別に畳んだ。
明日、怖くなっても、空白へ勝手な線を足さずに済むように。
*
出発したのは、その翌朝だった。
門の外へ出ると、車輪の音が少しずつ離れ、靴底の砂がよく聞こえるようになった。リオの鞄では、昨日までに詰め直した瓶が、歩いても鳴らない。
道の情報は、出る前に新しい連絡と照らした。渡れるか分からない橋には、分からない印のまま線を残してある。
商会へ持ち帰るのは、二人が自分で見た分だ。
「肩、上がってる」
先を歩くエルナが、振り返らずに言った。
「瓶が割れないかと思うと」
「瓶の代わりに肩を固めても、保たないよ。昼までに、先にそっちが割れる」
「肩も、検め札が欲しいですね」
「私が書いたら、扱い注意だらけになる」
リオは肩紐を引き、少しだけ緩めた。
エルナの左手には、宿で用意した旅の杖がある。先の地面を軽く突き、土の硬い所へ足を置く。腰の剣は、結び留めたままだった。
彼女はそれを隠さなかった。リオも、見ないようにはしなかった。
剣がここにあることと、いま抜くことは違う。
畑の道を離れると、草の匂いが濃くなった。
陽は高くなっても、木陰の地面には、前の雨が残っている。背の低い枝を避けようとして、リオは一度、鞄の上を引っ掛けた。
止まって外す。
エルナは先から戻らず、見える所で待っていた。
「急がせないんですね」
「そこで急がせて瓶を割ったら、私が待った時間より長くなる」
「そういう待ち方も、仕事なんですね」
「仕事じゃなくても、目の前で枝と喧嘩してる人は置いていかない」
リオが顔を上げると、彼女は笑っていた。
ようやく外れた枝が、後ろで小さく揺れた。
*
古い水路を横切る所で、エルナの杖が止まった。
前に、小さな木橋がある。
手摺のない、人が一人ずつ渡る幅だった。車を通せないというダリオの紙と、そこは合っていた。
だが、橋の向こうの草が、道の外へ強く踏まれている。
エルナは橋へ足を掛けず、風上の斜面を見た。
「ここで待って。水路の中へは降りないで」
声の調子が変わった。
リオは、瓶を押さえようとしていた手を止める。庭で教わったように、両肘を体の近くへ戻した。
橋板の向こうで、灰色の耳が動いた。
二頭いた。
犬に似ているが、口の脇から白い牙が長く出ている。細い脚が、草の中へ半分隠れていた。片方が頭を下げると、リオの喉も、勝手に細くなった。
「灰牙犬。橋へ寄らない」
エルナはリオの前へ出た。
走って追い払うのではなく、杖の石突きを、靴のすぐ横へ下ろす。道を広く使い、二頭の間へ自分から入りはしなかった。
「私が下がる分だけ、一緒に。先に走らないで」
「……はい」
一頭が低く唸った。
音より、歯の見える近さが怖かった。リオは腰の器具へ目をやり、すぐ戻した。
治療の瓶を投げて、獣に効くか賭ける場面ではない。
エルナの左肩が、僅かに下がる。
飛び込んできた一頭へ、杖を大きく振りかぶらなかった。長い先を口元の前へ送り、牙が届く位置を横へずらす。
獣の前脚が、濡れた橋板を掻いた。
彼女は足を動かし、杖の硬い部分を肩へ短く当てた。
鈍い音。
灰色の体が横へ跳ね、橋の端へ爪を立て直す。
追わない。
エルナは、もう一頭の方へ杖の先を戻した。
「リオ、後ろの石まで」
言われて、初めて背中側を見た。
平たい石が、道へ出ている。そこまで下がれば、水路の窪みへ足を落とさずに済む。
リオは半歩、下がった。
鞄が腰へ当たっても、瓶は鳴らない。
もう半歩。
石の縁で、靴が止まった。
低い唸りが近づく。先に押し返された獣が、今度は草の外から回ろうとしていた。
リオは息を吸い、見るべき所を探した。
枝ではない。牙だけでもない。
その脚の下の、地面を見る。
「エルナさん。右の草の下、溝があります。水が、こっちへ流れてます」
「右は使わない。私の左へ」
短い返事が戻った。
リオは左へ足を送った。言われなければ、草で広く見えた方へ逃げていたかもしれない。
エルナも続く。右手は剣へ行かず、杖の後ろ側へ軽く添えられた。
日常の物を支えられる手だ。剣と同じ握りを、無理に作らせているのではなかった。
獣がもう一度、前へ出た。
エルナは、今度は声を鋭く飛ばした。
「来るな!」
杖の先が土を打つ。
飛び上がった小石へ獣の耳が伏せ、足が一瞬止まる。その間に彼女は、リオのいる石の横へ下がった。
二人が離れるにつれ、獣も橋から先へは追ってこなかった。
草の奥に、噛み裂かれた何かの骨が見える。
エルナはそれを確かめても、取りに戻らなかった。
「ここを守ってる。今日は、ほかを通る」
リオは頷いた。
返事をしたつもりが、空気だけが喉を通った。
エルナがこちらを見る。少し待って、声を落とした。
「立ててる?」
「はい。……足が、勝手に細かく動きます」
「止めようとしなくていい。もう少し離れて、それから休もう」
彼女の声が、庭で聞いた速さへ戻った。
リオは、ようやく自分の杖を持ち直した。
*
水路の上手にある石の浅瀬までは、遠回りになった。
ダリオの紙にある道から外れる前に、エルナは木橋と斜面の形を写した。獣のいた位置。踏まれた草。車を置いて待つにも向かない場所。
渡れたかどうかだけなら、橋板は残っている。
だが、荷を背負った人が安全に戻れるかという問いには、違う印が要った。
リオは、自分が見つけた溝の位置を足した。
ペンを持つ指が、一度、紙を擦った。
「すみません。守ってもらっているのに、ほとんど何も」
「左へ動けたよ。溝も教えた」
「それくらいで」
「それを、橋の上で初めてやられる方が困る」
エルナは紙から目を上げた。
髪の結び目が少し緩み、首の横へ灰金の細い束が落ちていた。
「出来なかったことも覚えて。でも、出来たことまで消さないで。次に同じ声を掛けた時、そっちの方へ戻ってほしいから」
リオは言い返さず、紙を支えた。
彼女が棒を振るところは、腕が治ってから初めて見られる物ではなかった。
強さは残っている。
そして、その強さが残ることは、剣を振れなくなった痛みを、小さくしてよい理由でもなかった。
浅瀬では、水の冷たさが靴の縁まで届いた。
流れを確かめたエルナが先に渡り、リオが続く。器具の鞄を高く抱え直すと、対岸から手が伸びた。
「杖を貸して。最後の一歩だけ、こっちへ」
リオは杖の端を差し出した。
人に守ってもらう時にも、言われたことを聞き、こちらから渡す物がある。
踏み出すと、底の石が少し動いた。だが、次の足はもう、乾いた土へ届いていた。
*
森の切れ目から塔が見えた時、エルナは笑わなかった。
黒い石の縦長の影が、葉の向こうに立っている。
まだ外壁の細部は見えない。それでも、彼女の目は、地図から離れたまま戻らなかった。
リオも隣に止まった。
先ほどの獣へ向けた杖が、いまは地面をしっかり支えている。
「……あそこから、出た」
言葉は、それだけだった。
リオは、大丈夫です、と言わなかった。
塔は遠くから見ただけで、腕の中の結び目まで変わるほど親切な場所ではない。
「今日は、外の休める所までにしましょう。報告書を、そこで読みたいです」
「私も読む」
エルナが答え、鞄の平たい所へ手を置いた。
市で受け取った紙と、ここまで歩いて増えた印が、同じ鞄に入っている。
書いてある塔と、目の前にある塔。
どちらかを簡単に正しくしてしまわず、二人で比べる場所まで来た。
「帰る道、増えましたね」
リオが言うと、エルナはようやくこちらを見た。
「増やしたんだよ。二人で」
彼女は左の杖を持ち上げ、次の一歩を選んだ。
腰の剣は、まだ抜かれなかった。
それでも、リオの前には、ずっと護衛が歩いていた。




