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引き返しても、銀貨八枚

【前回までの人物】

・リオ・アルヴェン:王立治療院を離れ、自治市ソルヴィアで独立を目指す解呪師。市の実技審査と開業許可は、まだ済んでいない。

・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。日常の動作や剣を使わない技能は保たれており、リオに自分の治療を依頼した。

 薬材の値段を三行書いたところで、リオのペンが止まった。


 庭の稽古を終えて部屋へ戻ると、袖の内側にはまだ汗が残っていた。机に並べた器具は、院を出る時に自分で持ってきた物だ。どれも使える。けれど、使えば減る物もある。

 封じ布。観察用の薬液。傷を洗う水と、割れ物を運ぶ箱。

 塔までの往復を足せば、紙の余白が財布より先になくなりそうだった。


「その顔、私の腕より難しい物を見てるね」


 戸口に立つエルナが、灰金の髪を結び直した。彼女の右手は紐を結べる。腰の剣へは触れないまま、机の端を覗き込む。


「足りない物を、足しています」

「足りる物も書けば。地図と、帰り道を覚えてる人」

「それは、別の紙に」

「財布の隣にも置いて。無い物だけ数えると、二人とも消える」


 リオは少し笑い、地図を机へ戻した。

 彼女の護衛の対価も空欄だった。払えないから書かない、という形にしてはいけない。

 金を借りるなら、返す見込みもいる。院にいた時は、薬材を頼めば翌朝に届いた。その値段を知らなかったわけではない。ただ、自分の名で払う日は、見ていた数字の輪郭が違った。


 階下で車輪が鳴った。

 宿の裏へ荷を運ぶ小さな手押し車だった。扉を二度叩き、誰かが声を掛ける。


「失礼。薬材が要る人が泊まってるって聞いたんだが。今、見本を見てもらえる?」


 訪ねてきたのは、赤褐色の巻き毛を短く整えた男だった。緑の上着の袖を肘までまくり、片方の爪に荷紐の黒い染みが残っている。笑う前から口元に笑い皺があった。

 だが、車を止める時には、窓の下の逃げ道を塞がない側へ寄せた。


「ダリオ・セント。薬材やら、薬材に見えない瓶やらを扱う、小さい商会だ。主人に紹介を頼んだのは俺。部屋へ上がってよかったかな」

「リオ・アルヴェンです。売っていただく相談なら、したかったところです。でも、まだ注文は」

「してない。分かってる。押し売りの足音だったら、階段でもっと重く歩く」


 ダリオは箱を机へ載せる前に、よいかと目で尋ねた。リオが場所を空けると、底の埃を自分の布で払ってから置く。

 エルナは戸口に残らず、リオの横へ椅子を寄せた。


「私はエルナ。塔へ行く準備の相談をしていた」

「黒槍の?」


 笑い皺の間から、笑みが一つ消えた。


「だったら、瓶の前に道だな」


     *


 箱から出てきたのは、荷道を描いた二枚の紙だった。


 板に釘で留め、端を布で覆ってある。一枚には、塔の東を通る古い荷道。もう一枚には、先月そこを見に行った御者が戻った位置まで印がある。

 リオはエルナの地図と並べた。

 彼女が指を置いたのは、二つの線の離れる所だった。


「この橋は、私が通った時も荷車では渡っていない。車は下に置いた」

「やっぱりか。こっちは『人が渡れた』までなんだ。俺はそれを、車にも使えるとは売れない」

「塔の物を運ぶんですか」

「今は逆だ。外の集落へ薬と食料を運びたい。遠回りの道はあるが、雨で川が膨らむと一日余分に掛かる。車を置き、最後を人で運べるなら、その分の便を組める」


 便利な近道を知っている商人の話ではなかった。

 川が増えた日に、どこまで荷を運べるか。先に売ってしまった日数を、誰の背で埋めるか。ダリオの指は、塔そのものより、道端の平たい所を探していた。


「リオさんたちが同じ辺りへ行くなら、頼める仕事がある。塔の中身を持ってこい、じゃない。荷を置ける場所と、人が戻る道。そこを見て、分かった分を持って帰ってほしい」

「塔の外だけなら、調べる所が重なる」

「でも、僕たちも、今の道が通れるかは知りません」

「だから買いたい。知ってる話を、俺にもう一度言ってもらう代金じゃないんだ」


 ダリオは紙をこちらへ押しつけず、手元へ戻した。


「通れないって返事にも値段を付ける。ただし、見てもいない橋へ、通れる印を打つ人とは組まない」


 エルナの目が上がった。

 彼女は紙にある御者の名を読み、知らない名だと首を振った。あの時の部下のことを、交易の証拠に使う必要はなかった。


「戻れない所まで確かめろと言うなら、受けない」

「戻れなかったら、次の便の相談も出来ない。俺も困るよ」


 軽い言い方のあと、男は値段を書く方の紙を出した。

 リオは、ようやくペンを持ち直した。


     *


 薬材を広げると、部屋が乾いた木の匂いで満ちた。


 封じ布は紐を解かず、端の見本を触らせてもらった。織りが粗い物は丈夫だが、リオの細い器具へ巻くには厚すぎる。

 ダリオは、小さい方の包みを出した。


「それなら、こっち。高い方を出す台詞に聞こえるだろうけど、量は半分で足りると思う」

「薄い分、破れやすくありませんか」

「裂け方は見せられる。封じの強さは、俺の口じゃなく検め札を見てくれ」


 紙の端にある検めの印と、布を作った工房の名。リオは父の薬箱に、同じ工房の包みが入っていたことを思い出した。

 懐かしいからと選ばず、用途を一つずつ書く。腕へ巻く物と、採取した欠片を包む物は同じ量ではなかった。


 ダリオが見本の瓶を傾けた時、リオはその手を止めた。


「その蓋、少し浮いています。開ける前に、横へ」


 男の動きが止まる。嫌な顔をして瓶を突きつけることはしなかった。

 リオは浅い皿を寄せ、瓶をその中へ置いてもらう。薬液の匂いに、ほんの僅か、酸っぱい物が混じっていた。


「……仕入れた時は、蓋は浮いていなかった」

「輸送の間、暖かい所へ置きましたか」

「荷台の上段だ。雨除けを掛けた。昨日は晴れたな」


 リオは瓶越しの沈み方と、検め札の保存条件を比べた。まだ中を確かめる段階ではない。商人の瓶に勝手に術を掛け、呪いを見つけたことにもしたくなかった。


「この液は、試験に使いません。封は切らず、仕入れ先へ確かめた方がいいです。熱だけなのか、ほかに混じったのか、ここでは決められないので」

「売る前でよかった。……いや、あんたが買う時に言ってくれてよかった、か」


 ダリオは瓶を別の包みへ移し、箱にも自分の印を付けた。


「同じ箱の分は?」

「店へ戻ったら分ける。リオさんに、箱全部をここで診てもらうんじゃない。店の仕事だ」


 リオへ笑いを戻したが、額には少し汗があった。

 爪の染みがある指で、男は残りの瓶の数を数えた。問題の一本を箱から出して終わりにはしない手つきだった。

 リオは、持ってきた別の一本の検め札まで見せてもらった。こちらは封と保管の記録を確かめられる。必要なのは、相手を負かして値引きを引き出すことではなかった。


「今日、僕が買いたいのは、こちらと布です」

「なら、そっちの値段を出そう。最初の瓶の迷惑料を、薬材の質で埋めるような売り方はしない」


     *


 机の上に、二枚の紙が並んだ。


 ダリオが出した最初の額は、調査の報酬が銀貨八枚。必要な薬材の支給が、別に二枚分だった。

 エルナへ経路の判断と地上の護衛で六枚、リオへ観察と記録で二枚。準備の前渡しは、そのうちの三枚とする。

 道が使えると分かった時だけ払う、とは書いていなかった。


「通れなかったら、戻った場所までの記録で?」

「そう。塞がった道を便から外せる。開いてる道しか買わないなら、俺の依頼の書き方が違う」

「奥まで確かめなかった、と後で言わないね」

「それを決めるのは、現地のあんたたちだ。ただ、どこを見て、どこから先を見なかったかは残してほしい」


 エルナは紙を取り、地図にある橋の手前へ小さく線を引いた。

 川が増して戻れなくなること。崩れた斜面を横切ること。護衛が一人で足りない数の魔物がいること。確かめるために、それらを越えはしない。

 ダリオは、一つも消さなかった。


「親父の車輪、『あと少し』で二つ折れたことがある。荷は届いた。でも次の便が出せなくなった。俺は、帰ってくる車にも金を払う方だ」


 笑い皺はあっても、今度は冗談の声ではなかった。

 リオは報酬の紙と、支給品の紙を並べた。二枚分の薬材は商会の経費。リオの二枚の技術料から、あとで引かれる物ではない。

 使わなかった分は、そのまま返す。使った分は記録を残す。商会の都合で中止した場合と、二人が自分の都合で出発を取りやめる場合は、前渡しの扱いも変わる。曖昧なまま口で済ませず、三人で一行ずつ読んだ。


「調査で使った薬材は、治療費へもう一度足しません」

 エルナが、自分の取り分の欄へ指を置いた。


「私の六枚を、そのまま治療代にすることにも、まだ頷いていないよ」

「そこは二人で、治療の見積もりが出てから。俺が買うのは道の情報だ。人の腕の値段まで、荷札に書かない」


 エルナが頷いた。リオも、そこで初めて受取の欄へ名を書いた。

 銀貨三枚が机へ置かれる。

 リオの前渡しが一枚、エルナの分が二枚。帰着して記録を渡したら、残りはそれぞれ一枚と四枚になる。

 薬材二枚分は別の控えとともに渡された。品物を受け取るために、先に受け取った報酬をそのまま商人へ戻すことはなかった。

 机から銀が消えても、自分の仕事の値段まで消えずに残った。


「僕、二枚を借りる相談になると思っていました」

「貸せるかどうかは、返す当てを見てからだよ。今日は頼みたい仕事があった。そっちが先に決まっただけ」

「次も同じではない、だね」

「うん。だから今日の分を、帰ってから続きの話が出来る仕事にしてほしい」


 ダリオは大きな約束を売らなかった。その代わり、出すと言った銀を、その場で出した。


     *


 契約のあと、リオは小箱を鞄へ入れようとして、蓋の向きを変えた。


 底へ置けば重さは落ち着く。しかし、その上へ地図と水を積むと、調べるたびに全部を地面へ出すことになる。

 エルナが、庭で使った丸め布を椅子に置いた。


「それを持って、半歩下がってみて」

「ここで、ですか」

「割らない位置で。使える薬を、運ぶ間に割ったら困る」


 リオは空いた床へ立ち、肩紐を掛けた。

 下がった足が止まるより遅く、小箱が腰へ当たる。痛くはない。それでも、箱を庇おうとすると、右肘が不用意に開いた。

 エルナはその肘を棒で叩く代わりに、鞄の外側を軽く押した。


「箱を持つ時の手と、逃げる時の手が、いま違った」


 リオは息を吐き、紐を短くした。瓶の仕切りへ余った布を足し、器具箱を体に近い所へ寄せる。

 ダリオも、見ているだけではなかった。普段荷役へ使う短い結び方で、遊んでいた紐の端を留めてくれた。引けば解けるが、歩く振動では緩まない。


「こっちは荷の重さが教えてくれる。魔法より、俺の方が少し先に習った所だ」

「母も、いつもここを結び直していました」

「薬材を扱う家?」

「はい。父が診て、母が薬材を揃えていました」


 説明してから、リオは自分が、院の役目だけで名乗らずに済んだことに気づいた。

 ダリオは院を辞めた理由を訊かなかった。母の扱う包みの大きさを尋ね、道で濡らさない置き方の話を続けた。

 リオが二度目に下がると、瓶は鳴らなかった。

 エルナが床を指す。


「今のなら、私の後ろへ来られる」


 朝より半歩が軽かった。

 軽くなったのは、荷そのものではなかった。


 契約は、明後日の朝を出発予定にした。


 明日は道の最新情報と、報告書の写しの返答を確かめる。市で必要な実技審査が残っている以上、現地へ出る相談と、正式な施術を始める話は分けた。今回の契約は外の経路調査で、塔内の攻略を強いる物ではない。

 リオは市へ提出する控えに、薬材の検め札と、施術へ転用する時は改めて判断する旨を挟んだ。患者本人の名が入る記録は、ダリオの商いの紙には写さない。

 ダリオが印を押し、二人も署名した。

 新しい銀貨をしまう時、エルナの右手が小袋の紐を引いた。剣を握れない手にも、働く前に受け取る物があった。


「じゃあ、帰ってきたら、次の荷の話も出来るかどうか聞かせてくれ」

「次の患者さんの輸送ですか」

「そこまで先回りしない。まず、あんたたちの帰りだ。俺にも売る瓶がある」


 男は箱を閉じ、悪くなった疑いのある瓶だけを、自分の手の届く側へ置いた。

 リオは見送る時、頭を下げすぎなかった。礼と、これからする仕事が、同じ胸の中に並んでいた。


 部屋へ戻ると、エルナが地図を畳んでいた。


「財布の隣、増えたね」


 リオは机を見た。

 荷は増えた。契約も、明日までに確かめることも増えた。

 足りない物を三行書いた紙の横へ、二人で出来る仕事と、それに払われる値段が置かれている。


「はい。帰る分も、書けました」


 封じ布の包みを鞄へ収めると、底が少し硬くなった。

 その重さを持って歩くのは自分だ。

 それでも、出る前より帰ったあとの話が多い旅を、リオは初めて準備していた。

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