私の剣で、帰ってくるために
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:院籍を失い、ソルヴィアで独立を目指す解呪師。市の申請は受理されたが、実技審査や開業許可はまだ。患者の記録を提出するには、本人の許可が必要だと持ち帰った。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する護衛。黒槍の塔の報告書の写しを問い合わせ、自分が治療に何を望むのか考え始めている。
中庭に、二本の線が引いてあった。
石畳の継ぎ目を使い、細い棒で土を寄せただけの線だ。その間へ立つように言われ、リオは鞄を椅子に置いた。
エルナは外套を脱いでいた。低く結んだ灰金の髪の下で、旅着の肩が動く。腰の剣には触れず、左手で一本の棒を持っていた。
「そこから、後ろへ一歩。私が前へ出たら」
「今ですか」
「今の質問の間に、出られるよ」
彼女の靴が石を踏んだ。
リオも足を引く。引いた踵にもう片方の靴先が当たり、膝がぶれた。転ぶ前に止まれたが、線の外だった。
エルナは追わなかった。棒の先を下げ、彼が両足を揃え直すまで待っている。
「剣の腕は、普通だと言っていたね」
「……院の護身訓練では、普通でした」
「院の皆さんを連れていくわけにはいかないから、リオの足を見たい」
言い返す材料がなく、リオは線の内側へ戻った。
日向の石は、朝より温まっている。薬材の箱を運んで痺れた指よりも、いまは履き慣れたはずの靴が気になった。
彼女はつま先の向きを少し変えた。
「大きく逃げなくていい。まず、足を交差させないで。見てる物まで揺れる」
二度目は半歩で止まれた。棒の先が、今度はリオの胸から外れた所を通る。
それだけで、胸の奥に小さく息が戻った。
「そこ。薬の瓶を持ってても、そのくらいで動ける?」
「両手が空いている時よりは、遅くなります」
「なら、持った時にもう一度。今日は瓶を割らない代わりの物で」
エルナが鞄から丸めた布を出した。先ほど彼女に渡した物ではない。着替えを巻いた、自分の荷だった。
リオは受け取る。彼女が棒を持つ左の腕には力がある。右手も、鞄の口を留める動きは滑らかだった。
剣を握れないことと、目の前の人が戦えないことは違う。
そう考えていたつもりでも、実際に彼女へ追われてみるまで、自分の身体で分かってはいなかった。
*
三度目を終えると、エルナが先に休もうと言った。
「息が上がってる」
「僕のですか」
「庭の誰の息を数えるの」
リオは笑いかけ、息が足りずに失敗した。
椅子へ座ると、背へ貼り付いた服が風で冷える。エルナは水差しから二つの器へ水を注ぎ、片方を渡してきた。右手で持った器は傾いていない。
水が喉を通ったあとで、リオはようやく尋ねた。
「塔へ行く時のことを、考えていたんですか」
「考えたいから、まず見た。頼む前に、知らないことを減らしておきたかった」
彼女は棒を壁へ立て掛けた。机へ戻した手には、まだ申請の控えを持っていない。
「私、農家の娘だったんだ」
不意に始まった話に、リオは器を置いた。
エルナは庭の端の小さな畑を見た。宿で使う香草が、木の囲いの中に植わっている。
「冬に土が硬くなると、剣を振るより鍬の方が重いって、父が言ってた。私は比べたくて、村へ来た兵の訓練を見に行った」
「勝ちましたか。鍬に」
「比べる前に、棒を落とした」
あまりに即答だったので、リオは今度こそ笑った。
エルナも器へ目を落として笑っている。武勇の始まりの話ではなかった。
「奨学の枠へ入ってからも、上手い子はいた。早く覚えられる子も。それでも、昨日出来なかった足の運びが出来ると、帰る時、ずっと地面を見てた。もう一度やったら、今度も出来るかって」
リオは、線の間へ視線を戻した。
歩幅にいちいち戸惑っていた場所が、彼女には別の記憶に見えている。
「部下を連れて帰る仕事は、嫌いじゃない。家へ金を送れることも、大事だよ。けど、それだけ言うと、私の手が戻る理由を、皆のためにしなきゃいけなくなる」
エルナの親指が、器の縁を一度撫でた。
「私が、また振りたい。自分の剣を」
短い言葉だった。
リオは、その先へ立派な理由を足したくなかった。助けた人数や、彼女を待つ人の期待で、言葉の重さを増やす必要もなかった。
「はい」
返事をすると、エルナが少し眉を上げた。
「それだけ?」
「いま、ほかの理由を探したくなかったので」
「……うん。それだけで、聞いてほしかった」
彼女は水を飲み切った。飲み終えた器を置く音が、二人の間にはっきり響いた。
リオは記録帳を手元へ引いたが、まだ開かなかった。
*
「塔の話をしてもいいですか」
尋ねると、エルナの目が机へ戻った。
「頼む。分からない所も、そのままで」
リオは帳面を開き、腕と剣の図を並べた。グレタとの面談で書き直した、自分の観察図だ。二つの間には線を引いていない。
「似た形は見えました。でも、これだけで塔のどこかへ繋がるとは言えません。報告書と、エルナさんが覚えている場所を照らしたい。行くとしても、最初から奥へ入る計画には出来ません」
「外の道を確かめるところからだね」
「ええ。僕は現地を見ていないので、地図の道が今も通れるか、分かりません」
エルナが自分の地図を開いた。折り目の一つを押さえ、塔の手前へ指を置く。
「私たちが使ったのは、こっち。荷を引ける道だった。ただ、帰りは別の斜面へ抜けた。ここの印から向こうは、戻ってからも見てない」
リオは、彼女の指が止まった位置を見た。
迷わず指したことと、いま通れることは別だった。それをエルナ自身が分けている。
「ここで、剣を使ったんですか」
「その印の先。退いてた二人を追わせないために、壁際へ寄せた。振ったあとで、壁が光ったのは前にも話したね」
声が少し平らになった。
器へ伸びかけた右手が、机の上で止まる。もう空なのだと思い出したように、指が開いた。
リオは地図の先を指さなかった。
「今日は、そこまでにしましょうか」
「……今、先を話せなくなったのが分かった?」
「手が止まったので。でも、理由は訊かないと分かりません」
エルナは唇を一度噛み、それから口を開いた。
「また同じ場所へ行って、今度は人を帰せなかったら、って思った」
リオの喉に、治します、という言葉が上がった。
それを言えば、この場の沈黙は短くなるだろう。彼女が一瞬だけ安心するかもしれない。
だが、その安心を根拠に塔へ歩かせるわけにはいかなかった。
「僕には、同じことが起きないとは言えません」
声を落としても、残酷さが減る言葉ではなかった。
リオは視線を逸らさずに続けた。
「だから、途中で戻れる道と、戻る判断を持って行きたい。調べる僕が、あと少しだけと言い出した時に、止める人も要ります」
「リオを止める人?」
「僕を含めて、です」
エルナの息が、そこで少し抜けた。
「さっきの足なら、止めるのは難しくないね」
「引きずられる前に、返事をします」
彼女が笑った。笑いが消えたあとにも、机から地図を引き取る手は出なかった。
*
二人で、行かない条件を書いた。
通れると確かめた帰路がなくなること。日常の動作にも硬直や痛みが出ること。リオの疲れで術式の観察が続かなくなること。予定の時刻を越えること。
そのどれも、二人だけで塔へ入ってよいという許可ではない。地図、物資、護衛の組み方、現地の状況。確かめる物がまだ残っていた。
エルナが、紙の最後へ一本線を足した。
「これも。動けるから行ける、は無しにしたい」
「腕以外のことでも?」
「怖くて足が止まるかもしれない。その時、剣士なのにって言って、進みたくない」
リオは彼女が書いた言葉を読んだ。
どちらかが戻ると言ったら、まず退く。理由を長く説明出来ない時も。
彼はその下へ、自分の字で同じ条件を書いた。片方にだけ許される逃げ道にはしたくなかった。
エルナは、地図の道を爪の先で辿り直した。撤退の矢印を、来た道へそのまま重ねず、荷を下ろして待てる広さのある所へ一つ寄せる。
何もかも捨てて走る線より、息を整えて帰るための線が増えた。
リオはその横へ、器具を出す前に帰りの荷をまとめる、と書いた。院の机なら、使いかけの物を置いて次の人を呼べた。塔では、置いた箱を誰かが代わりに運んでくれるとは限らない。
いま庭へ置いた自分の鞄を見て、彼は持っていく物をもう一度選ぶつもりになった。減らすのは患者へ出来る仕事ではなく、帰り道で自分を止める重さだ。
「僕にも、使わせてください」
「うん。見栄で残られる方が困る」
エルナは紙を折りかけ、まだ一つ、と開き直した。
「私の腕を審査の人に見せるのは、構わない。でも、部下の名前は書かないで。あの時の話を、私が全部持ってるわけじゃないから」
リオは提出する範囲を、新しい紙へ分けた。
本人の氏名、観察した日付、出来る動作と症状の出る条件。本人が語った経過。腕と剣の図は、観察と推測を区別する。
部下の氏名や部隊全体の評価は、提出しない。塔の報告書は、写しが届いてから扱える範囲を改めて確かめる。
「市の審査担当へ、この範囲ですね。ほかへ渡す時は、もう一度相談します」
「私も一部持てる?」
「同じ物を作ります」
複写を待つ間、エルナは剣の鞘を膝から外し、椅子へ当たらない向きへ直した。柄に手を掛けて症状を見せようとはしない。
リオも、署名の前に一度だけ試しましょう、とは言わなかった。
痛みを繰り返してもらわずに始められる仕事が、机の上にあった。
*
控えを読み終えたエルナは、ペンを取る前に背筋を伸ばした。
「リオ・アルヴェン。私の腕を診てほしい。元へ戻す方法を、一緒に探してほしい」
いつもの呼び方に姓が付いた。
リオは、紙を押さえていた手を離した。
「塔へ行く必要があるなら、私も行く。守ってもらうためだけじゃなくて、私が知ってる道と、出来る仕事を持って」
彼女の右手は、机へ置かれたままだった。
剣を握れなくても、その依頼を他の人に代わってもらう必要はない。
「引き受けたいです」
答えた途端、リオの胸に熱が広がった。
院の外で初めて名前を呼ばれたわけではない。けれど、自分が出来ないことまで話したあとで、なお呼ばれた名前は、さっきまでと少し違って聞こえた。
「正式な施術は、市で認められた範囲が決まってからです。費用も、今はまだ出せません。薬材や同行者に何が要るか、見積もりを作ってから、選んでください」
「今日、治療全部の代金を決めたことにはしない、だね」
「はい。今日決まったのは、依頼を受けて調べ、方法と費用を提案すること。記録を市へ見せる範囲。それから、一緒に塔へ行くための準備を進めることです」
エルナは頷いた。
「払う分を、黙って仕事で埋めたりもしない。護衛を頼むなら、そっちも値段を出して」
リオは、少し驚いて彼女を見た。
「治療してもらうから、何でも引き受ける人にはならないよ」
「……ええ。僕も、エルナさんの仕事を知りたいです」
守られる側だと決めていたのは、自分だったのかもしれない。
リオは別の紙へ、現地で頼みたい仕事、と書いた。道を選ぶこと、敵から離れる指示、戻る判断。彼が線を引く隣で、エルナが、そこは私だけで足りるかまだ分からない、と一つずつ止める。
任せられる人が出来ることは、全部を任せてよいことではなかった。
その相談が出来るのが、嬉しかった。
署名を終えた紙を、二人で一部ずつ持った。
風が抜け、乾いたインクの匂いへ庭の香草が混じる。エルナが押さえた紙の端へ、灰金の髪が一筋落ちた。
「治ったら、最初はどこで振りたいですか」
尋ねてから、リオは付け加えた。
「答えを、今決めなくても」
「決まってる」
エルナは庭の二本の線を見た。
「広い所。誰かを急いで逃がすためじゃなくて、一度、最後まで振り切れる所がいい」
リオは頷いた。その場所を地図の上へ急いで描かなかった。
彼女がそこへ立つために、いま必要な一歩なら分かる。
「まずは、僕が倒れずに下がれるようにします」
「それなら、今日もう一回だけ。休みは取れた?」
エルナが立ち上がり、棒を取った。
リオも、今度は器を片づけてから立った。布の荷を自分から持つ。
机の上には、まだ治癒の証明も、開業の許可証もない。
だが、患者のために先回りして埋めていた頁に、今日は本人の望みが書かれていた。
彼女が前へ出る。
リオは半歩、下がった。
足を交差させず、彼女の顔を見たままで。




