院章のない申請書
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:ソルヴィアで再出発した解呪師。エルナの腕と剣に似た術式の痕跡を見つけ、観察を続けるための申請を進めようとしている。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する護衛。日常の動きは保たれている。布と帯の扱いを試し、黒槍の塔の報告書の写しを取れるか、自分で確かめると申し出た。
申請書の所属欄で、リオのペンが止まった。
王立治療院、と書きかけたわけではない。もう書けないことは分かっている。それでも、何もない白い枠を前にすると、肩から白衣を引き剝がされるような心地がした。
窓の外で、荷車の輪が石の段を越えた。机の水差しに小さな波が立つ。リオはペン先を浮かせ、乾く前の滴を紙の端へ逃がした。
「所属のない方は、そこは空欄で結構です」
向かいの係員が、別の欄を指した。昨夕と今朝、相談を受けてくれた市の施療窓口の女性だ。袖を留める紐の端に、青いインクが付いていた。
「以前の院籍は、こちらで証明しますか」
「勤務歴の確認には使います。今の所属にはなりません。取消通知と、在籍していた期間を分かるようにしてください」
リオは鞄から通知を出した。院長の署名を見せる動作には、まだ慣れない。だが係員は署名を長く眺めず、日付を確かめて申請書の横へ置いた。
「こちらでは、市の審査を受けていただきます。院籍をお持ちの方も同じです」
「取り消されていなければ、省かれるのだと思っていました」
「町で診療される以上、町が確かめる項目は省けません。院の勤務歴で説明が短くなるところはありますが」
彼女は一枚の紙を手前へ滑らせた。記録の確認、実技、診療場所と連絡先。欄外には、診る範囲を変える際は改めて届ける、とある。
院章があるかないかで、紙の表と裏を分ける仕組みではなかった。
救われた気もしたし、逃げ道がなくなった気もした。リオはその両方を抱えたまま、六年、と勤務期間を書いた。
「呪いの観察を続けたい患者さんがいます。今朝ご相談した方です。正式な施術の申請も、ここへ付けてよいでしょうか」
「希望する範囲を書いてください。判断は担当の施療士がします。今日は予備の面談を受けられますが、待てますか」
壁際には、背に一本だけ継ぎ板を入れた長椅子があった。
待つ場所がある。そのことに、思いがけずほっとした。
「待ちます。お願いします」
*
廊下へ出てきた施療士は、リオの通知より先に、椅子の隣の鞄を見た。
「重そうだね。階段を上がるけど、持てる?」
短い胡麻塩の髪。褐色の上着の肘は、色の違う布で補修されていた。書類を受け取った右手の小指だけが、少し伸びたままだった。
市の登録施療士、グレタ・フォルン。予備面談の担当だと名乗ってから、彼女は階段の方へ顎を向けた。
「自分の道具ですから。大丈夫です」
「自分の物でも重い物は重いよ。そこに置く台がある。要る物だけ持っておいで」
言われて抱え直すと、箱の角が肋骨へ食い込んだ。リオは観念して、拡大鏡と記録帳だけを取り出した。
グレタは笑わなかった。自分の書類も台へ置き、必要な二枚だけを抜いた。
二階の面談室には、薬材の乾いた甘い匂いがした。壁に掛かった布の袋から、短い茎が覗いている。机には使い込まれた丸い染みがあり、中央を避けるように紙が置かれていた。
「ここ、湯をこぼすと紙が駄目になる。前の担当がやった」
グレタが染みを指してから、自分の胸を親指で示した。
リオは堪えきれずに笑った。座る前から張っていた背中が、少しだけ緩んだ。
「院に六年。診ていたのは?」
「主に、道具を使う動作で症状が出る方です。薬で日常に戻れても、働こうとすると戻ることがありました」
「薬が効かなかった、ではないんだね」
「ええ。薬で出来るようになった動きもあります。ただ、それで仕事まで戻れるとは限りませんでした」
グレタはそこで紙に短い線を引いた。
「今の相談の記録は、見せられる範囲がある?」
リオは記録帳を開きかけ、止めた。エルナに、どの相手へどこまで見せるかは、まだ訊いていない。
「個人の記録を見せる許可は、取っていません。氏名と経過を除いた、僕の観察図なら説明できます」
「それでいい。分からない所をこちらで患者に訊けるわけでもないからね」
新しい紙を一枚もらい、リオは腕と剣に見えた折り返しを、別々に描いた。昨日から今朝にかけて、何を見たか。本人がどの動作で困り、剣を持たない間は何が出来たか。
話しているうちに、ペンが二つの図の間を結ぼうとした。
途中で、リオ自身の手が止まった。
「今、引こうとした線は?」
「……繋がっているかもしれない、と考えた線です。見えたわけではありません」
グレタは取り上げるように紙を引かなかった。肘を机へ置き、彼の手が動くのを待つ。
リオは紙の端へ、別の印を作った。目で追えた形には実線を使い、まだ確かめていない関係は、離した場所へ言葉で書く。
図が、少し頼りなくなった。
その代わり、何をまだ知らないかは見えるようになった。
「治したいと思うと、この間を埋めたくなります」
「私も、痛む所の印を見つけたら、それを全部の理由にしたくなる。外した時に困るのは、描いた人だけじゃない」
グレタは右手を紙の脇へ置いた。伸びた小指の先が、机に触れる。
「これは昔、荷の下へ手を入れた。呪いの印はない。診る人が、自分の得意な物を探しすぎなければ、それだけでも話は早くなる」
リオは頷き、それから顔を上げた。
「僕の図に印が見えることと、痛みの全部を説明できることは、別ですね」
「その二つを分けて書いてくれれば、次に読む人が助かるよ」
間違っていると突き返されたのではなかった。どこまでなら他の人へ手渡せるのかを、一緒に見られていた。
リオは、離した二つの図の下に日付を入れた。
*
次にグレタが出したのは、架空の相談だった。
「仕事道具を握ると痛い人が来る。明日の仕事を休むと、食事代が足りないと言う。今すぐ何とかしてくれと頼まれたら?」
院で、何度も聞いた言葉だった。
リオの胸に、石工の大きな手が浮かんだ。道具を落としたあと、自分で拾おうとする手。父の柄を箱へしまうまでの沈黙も覚えている。
「まず、痛みが仕事の動作だけなのか、他でも出るのかを伺います。腫れや色も見たい。今すぐ手当ての必要な変化があれば、原因の調査より先にそちらを」
「本人は、握れるか試した方が早いと言ってる」
「もう分かっている痛みを、見せるために繰り返してもらいません。どの道具で、何をしたあとか、まず話を聞きます」
グレタは、自分の左手に右の親指を押し当てた。
「手を使わないで仕事をしろ、と言われたと怒っているよ」
リオは、すぐに次の手順を答えられなかった。
休んでください。その言葉を口にする側は、明日の食事を失わない。自分はそれを、つい昨日まで院の机から言っていた。
「仕事をやめてほしいのではない、と伝えます。その人の仕事を、僕はまだ知りませんから。何を持ち、どの作業なら残せるのか、本人に聞かせてもらいます」
「代わりの仕事がなかったら?」
「あると言って安心させることは出来ません。僕が出来る手当てと出来ないことを説明して、それでも不足する分は、相談を繋げられる窓口があるか調べます」
口にしてみると、まだ空いている箇所が分かった。この町の患者が、仕事を休む時にどこへ相談するか。自分は知らない。
グレタはその空白を、彼の代わりに上手な答えで埋めなかった。
「下の窓口で聞いておくといい。河港の救護所にいた頃、私は手当てが終われば仕事も終わりだと思っていた。帰りの舟賃がなくて、戸口から動けない人に教わったよ」
言い終えると、彼女は口の端を曲げた。
「もっとも、何でも抱えて診療を止めるな、とは後で怒られた。繋ぐ先を知るのも仕事のうちだね」
リオは聞くべきことを、紙の余白へ書き足した。治療の外にある暮らしを、自分一人で解決する、と書くのではない。
自分が知らないまま別れないための、次の一件だった。
窓の下では、川へ向かう荷車が並んでいた。荷を降ろす人と、受け取る人は別だった。片方がいなければ、もう片方がどれほど力を入れても荷は届かない。
父は、患者の家へ行く前に薬屋と宿の名を確かめていた。旅慣れた人の用心だと思っていたが、今になって、それも診療を続けるための仕事だったのかもしれないと思う。
リオは余白の下へ、連絡を渡したあと、本人が辿り着けたか確かめる、と小さく書いた。
*
面談の終わりに、グレタは申請書を返した。
「今日は実技をしていない。許可が出たとは患者に言わないでね」
「はい。これから受ける審査の説明として、伝えます」
「記録の写しは、本人の許可を取ってから。方法を試す段階になったら、何が変われば中止するかも付ける。場所と連絡先も、泊まっている宿の名だけで済ませないこと」
指で示された項目は、どれもリオの鞄には入っていなかった。院なら受付や病棟が担っていたことだ。
自分の名前で働くとは、好きに研究することだけではない。その実感が、白衣を失った時とは違う重みで肩へ乗った。
「院の記録を提出できないものもあります。記憶から、都合よく書き直したくありません。こちらで本人に許可をもらい、最初から残してもいいですか」
「もちろん。過去の仕事を証明する物と、これから診る人の記録は分けて。六年をなかったことにはしないけど、六年あるから新しい記録は要らない、ともならない」
リオは、初めて申請書の名前をまっすぐ見た。
所属の欄は空白だった。氏名は、その下にある。
印を押す前に、自分がどこへ何を書いたか、もう一度読んだ。
階下では、係員が提出分と本人控えを分けた。必要書類を揃えてから実技の日を確かめること、今日は申請を受け取った段階であることを、リオ自身が控えへ書き添えた。
料金の案内も受け取ったが、支払いや実技はまだ済んでいない。
最後に、仕事を休む住民の相談先を尋ねた。係員は別の窓口の場所を教え、当人の事情を聞かずに受給の見込みまで約束しないでください、と付け加えた。
リオは場所と受付時間を書いた。紹介するだけなら簡単だ、と考えた自分を、少し恥ずかしく思った。
窓口を出ると、朝より石畳が乾いていた。
箱を抱え直し、途中の軒下で荷を下ろす。呼吸を整えてから歩き出した。重い物は重い、という声が耳に残り、一人で小さく笑った。
*
宿の中庭へ戻ると、エルナが地図を畳んでいた。
「箱は増えてないね。書類だけ?」
低く結んだ灰金の髪を肩の後ろへ送り、彼女は机の端を空けた。右手で紙を押さえ、左手は鞘の金具から離れている。
「書類だけです。けれど、次に持っていく物は分かりました」
リオは控えを広げた。許可証ではないことを先に伝え、記録の提出に本人の許可が必要だと説明する。エルナは署名欄よりも、診る範囲と中止の条件を読んだ。
「院を辞めた理由も、訊かれた?」
「はい。でも、何を観察したかの方を、長く訊かれました」
そこまで言ってから、自分の声が少し弾んだことに気づいた。
エルナが目を上げた。からかう前のような細い笑みを、今日は隠さなかった。
「それは、よかったね」
リオは紙を揃えようとして、端を二度ずらした。
「……ええ。よかったです」
エルナも一枚の紙を出した。塔から戻った時の報告書、その写しを取り寄せられるか問い合わせた控えだった。報告書そのものではない。返事を受け取る先と、照会した箇所が記されている。
「私の方も、すぐには出てこない。けど、壁のことを誰かが覚えてるか、訊く場所は作れた」
二枚の控えを、彼女が机の上へ並べた。
治る、と書かれた紙はなかった。すぐ塔へ行ける道も、まだ出来ていない。それでも、今朝まで分からなかった相手へ届く手順が、二人分ここにあった。
「この欄、私も持っていていい?」
エルナが、方法を決める前に本人の希望を聞く、という行を指した。
「もちろんです。何を頼むか、決めるのはエルナさんですから」
彼女はすぐに頷かなかった。右手で控えを持ち、左手で腰の剣を確かめる。鞄の蓋の下には、今朝の布がある。
「じゃあ、少し考える。治ったあと何をするかも、一緒に」
リオは新しい頁を開いたが、答えを書いて待つのはやめた。
彼女が自分の言葉を持って戻ってくるために、そこを空けておく。
上の方へ日付と、今の自分の名だけを書いた。
所属のない名前は、もう、何もない枠には見えなかった。




