剣を置かずに、手を休める
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:王立治療院を離れ、ソルヴィアへ来た解呪師。エルナの腕に残る術式の結び目を観察し、分かったことと推測を記録した。
・エルナ・ヴァルク:剣を握ると右腕が硬直する護衛。黒槍の塔で退却を守った際の経緯を話し、方法を聞いてから次の相談を受けるか決めることにした。
朝の中庭には、まだ日が差していなかった。
リオは机の上へ、二つ折りの紙と洗った布を置いた。夜の間に乾かした布は端が少し硬い。指で揉んで柔らかくしてから、椅子の背に掛ける。
エルナは向かいへ座らず、まず紙を見た。
「窓口の返事、先に聞いていい?」
エルナが紙の端を指した。右腕のことを話す前に、確かめておきたいらしい。リオは椅子を引く手を止めた。
「ええ。何を確かめてきたか、お話しします」
市の窓口が開くのを待って、昨日の観察記録を持っていった。袖を留めた係員は、予定していることを一つずつ確かめた。今日行うのは、身体へ魔力を流さない観察と、負担を避けるための持ち方の助言、布による支え方まで。呪いへ働きかける施術は含めない。
その確認を、リオは紙へ残していた。
正式な申請の説明は、改めて受ける。今日の確認だけで、施療所の看板を出せるわけではない。
「今日、僕がしたいことも書きました。その下です」
リオは、折り目の下を指で示した。
エルナが紙を引き寄せた。
灰金色の髪は昨日と同じく低く結んでいる。襟に挟まった一房を左手で外し、文字へ目を戻した。
「剣を握らせない。腕の力も試さない……。それで、何が分かる?」
紙を読み終えたエルナが顔を上げた。リオは、彼女の腰の剣へ視線を移す。
「まず、その剣を見せてもらえませんか。エルナさんには握ってもらわず、僕が調べます」
腰の剣へ視線を戻したエルナが、左手で鞘の金具を押さえた。リオは机の上を空け、彼女が決めるのを待った。
「……見終わったら、返してくれる?」
エルナの左手が、鞘の金具を押さえた。リオは、その手を見てから頷く。
「はい。ここで見て、お返しします。抜くときも、先に訊きます」
エルナは紙の端を押さえた。
「右手が動かなくなったとき、剣を取り上げられるのが、一番嫌だった」
リオは返事を急がなかった。
台所の方から、焼けたパンの匂いが来ていた。皿を運ぶ足音が庭の入口で折れ、二人の机までは来ない。
「指が離れないなら、取り上げるしかないのは分かるよ。でも、そのあとも、剣を返してもらえなかった。……返してって言う私の方が、困らせてるみたいだった」
リオは、自分の前に空けていた場所から鞄を退けた。
「置く場所も、エルナさんが決めてください。僕の手元でなくて、かまいません」
エルナは長椅子の端を選んだ。
左手で腰の帯を外し、膝を使って鞘の重さを受ける。滑らかだったが、最後に金具を持ち替えるところで、右手が柄の方へ動きかけた。
指先が触れる前に、彼女自身が止めた。
「……また、やった」
低い声に、腹立ちが混じった。
「持たないようにって、ずっと考えてれば平気。でも、荷物の方を見た途端に、手が行くんだ」
リオは、剣よりも先に、外した帯を見た。
剣を抜くための配置と、剣を抜かずに一日働くための配置は、同じでなくていいのかもしれなかった。
*
鞘は、使う者の手で磨かれていた。
吊り金具の内側に黒ずみがある。革の表面には細い擦り跡。乱雑に放り出された傷ではない。同じ位置へ何度も戻したことでついた跡だった。
リオはエルナに確かめながら、鞘を机へ移した。
「剣に触らずに腕を見ていた昨日と、今とで、見える線は変わりません」
「離しておけば、消えるわけじゃない」
リオは、昨日の図の横へ小さく書き足した。
「はい。剣から離れても、線は残っています。そこは、昨日より分かりました」
エルナの右手は膝の上にあった。
人差し指を曲げ、布の皺を伸ばしている。手の甲の術式は、その動きについていく。リオは昨日の図の隣に、今朝の形を描いた。
思い出した形をなぞるのではなく、目の前にある折り返しを写す。
リオは鞘口へ手を添え、エルナを見た。
「ここで抜いても、いいですか?」
「いい。切っ先は、そこの壁へ向けて」
彼女が指す位置には、人の通る入口がなかった。
机の脚を動かし、刃の先に誰も入らない向きにする。鞘口を引くと、油を引いた鉄の匂いが、朝の空気へ薄く広がった。
刃は手入れされていた。
大きな欠けはない。鍔の根元に、細い黒ずみが残っている。
汚れに見えた。
けれど、リオが顔の角度を変えると、表面の光とは違う位置に、もう一本の線が残った。
指で擦る代わりに、拡大鏡を寄せた。
輪を閉じかけて、片側だけが開いている。
「……何か見つけた? さっきから、息が止まってる」
エルナに言われ、リオは息を吐いた。
鏡を持つ指に、力が入っていた。
「すみません。見つけたものを、答えだと決めつけそうになってました」
「じゃあ、何かはあったんだね」
身を乗り出したエルナに、リオは鏡を少し上げて見せた。
「鍔にも、術式の痕跡らしいものがあります。腕の線と、折り返す向きが似ているんです」
リオは鏡を置き、図へ描いた。
エルナにも位置を示す。ただし、彼女に同じ線が見えると決めて説明しない。彼女には鉄の黒ずみだけが見えるのだと、返事で確かめた。
「それなら……この剣を封じれば、腕も戻る?」
エルナの声が、そこでわずかに上がった。リオは、すぐに頷きたくなる自分を止めた。
その問いが来るまでに、返事を用意しておくべきだった。
リオは、描いた線と腕を見比べた。
「……まだ、分かりません。剣が呪いを起こしているのか、別の何かと繋がっているだけなのか。そこを確かめずに封じるのは、怖いです」
エルナの視線が落ちた。リオが言葉を探していると、彼女は先に鍔を見直す。
「でも、私の腕だけ見ていても、分からないものがあったんだ」
「はい。エルナさんが話してくれたことと、この剣。両方から、調べられることが増えました」
エルナは机へ両肘をつかなかった。
膝に置いたままの右手を見てから、鍔へ視線を戻した。
「……私が、剣の握り方を忘れたわけじゃないんだね」
リオは、その言葉には頷いた。
剣を持てない事実から、彼女の剣技まで失われたと考える理由はなかった。
*
観察を切り上げると、リオは先に剣を返した。
刃を鞘へ収め、エルナの指定した長椅子へ戻す。そのあとで、机に掛けた布を取った。
「昨日、通りで腕が固まったときのことを、もう少し伺ってもいいですか。繰り返してもらうのではなく、そのあとのことです」
エルナは頷いた。
リオは、どこが痛んだか、腕を下げたときと支えたときで何が違ったかを尋ねた。
剣を手放したあとの指を、反対の手で開こうとして痛んだこと。腕を抱えて待てば、先に肘の方から楽になったこと。
本人の言葉を聞き終えてから、布を卓上へ広げた。
「指を開こうとすると痛むなら、無理に伸ばさず、腕と剣の重さを支えられないかと思います。動かせている今のうちに、布の掛け方を試してみませんか」
「今は動くのに、吊るの?」
エルナは、膝の上の右手を握って開いた。リオは広げた布の上へ、自分の腕を置く。
「固まって、重さがつらいときだけです。今は動かせているでしょう。一日中、吊ったままにはしません」
まず、リオが自分の腕で示した。
布を前腕の下へ通し、手首を押し上げず、肘と一緒に受ける。指先は外へ出す。痛みが増すなら、その形を守るために我慢しない。
次にエルナが、左手で自分の右腕の下へ布を通した。
布端を引くと、結び目が顎の下へ寄った。
「これだと、ひとりで外せない」
エルナが左手を顎の下へ差し入れた。リオは布端を引っ張らず、左の鎖骨の下を指す。
「結び目を、ここまで下げてみましょうか。届きますか?」
結び目を左の鎖骨の下へずらす。
エルナが一度ほどき、もう一度結んだ。昨日、別の人間に剣を返してと言えなかった話をした人が、自分で外せることを先に確かめている。
リオは手を出さず、布の端だけを示した。
「手先が冷たくなる、痺れが増す、休ませても痛みが引かない。そういうときは、このやり方を続けず、施療を受けてください。普段出来ている動きまで出来なくなった場合も」
「前に診てもらったところへ、持っていけるように書いて」
「はい」
エルナは、布をほどいた。
右腕を普通に曲げ、袖の皺を直す。
呪いを変える処置はしていない。剣を握れるようになったわけでもない。
それでも、次に何が起きたら何をするのかが、彼女の手の中へひとつ増えた。
*
帯の掛け方については、エルナの方が詳しかった。
「左で抜くつもりなら、逆へ吊る。けど、今の仕事で抜く必要があるかは、先に決めた方がいい」
彼女は灰色の外套を椅子へ置き、帯を机に並べた。
長年ついた折り目へ、指を差し込む。
「普段の位置にあると、右で押さえる。荷を下ろすときも、馬車へ乗るときも」
「一日中、右手を見張っているのは、疲れますね」
リオが帯の位置を確かめると、エルナは鼻から短く息を吐いた。
「今朝だけで、もう疲れたよ。鞄を取る前にも、右手を見そうになった」
彼女は小さく笑った。
その笑いに合わせて、襟に触れていた髪の先が揺れる。
新しい道具を買う前に、持っている帯の掛ける位置を変えた。柄へ手が行く側に、外套の留めを置かない。鞘を支えるときは、左手で掴める吊り金具を使う。
エルナは椅子を馬車の段に見立て、腰を下ろしてから立ち上がった。
剣が脚へ当たる。
「これは駄目。歩くと、膝に来る」
すぐに帯を戻した。
リオはその試みを失敗と書きかけ、位置を一つ戻した、と書き直す。
もう少しだけ吊る高さを変えると、次は膝に当たらなかった。
エルナは庭を一周した。
井戸の脇を通るときだけ、歩幅を狭くする。石の継ぎ目を越えて戻ってくると、外套を羽織った場合も確かめた。
机の前で見たときには、リオにも問題のない掛け方に見えていた。
だが、彼女が肩を回すと、留め具の端が布を噛んだ。
「仕事で着る物まで戻さないと、分からない」
エルナは留め具を外し、布を引っ張らずに逃がした。
「リオの言う支え方も、これと同じだね。今、出来る形を覚えておいて、痛むときに使えるかは、そのとき確かめる」
リオは、鞄へしまわれる布を見て頷いた。
「はい。今日、やり方は覚えられました。でも、これで呪いまで軽くなったとは考えません」
彼女は、布を自分の鞄の上へ置いた。
持ち歩くならどこが取りやすいかを、左手で一度探してから、蓋のすぐ下へ入れる。
リオの鞄へ戻さなかったことが、嬉しかった。
必要になったとき、彼がいなければ使えない支えでは、今日の相談の続きにならない。
「この位置、明日も同じにしておく」
エルナが言い、鞄の紐を締めた。
その手元を見てから、リオは控えに、布の置き場所も一行加えた。
食事を運ぶ宿の主人が、庭の入口で声を掛けた。
二人は机を空けた。主人が去ってから、エルナは一度腰の位置を見て、自分で椅子を引いた。
右手は椅子の背へ、左手は鞘の金具へ。
小さな移動が、途中で止まらなかった。
「今の持ち替えは、考えてからでしたか?」
リオが訊くと、彼女は少しだけ眉を上げた。
「最初だけ」
エルナは皿のパンを右手で割り、欠片を口へ運んだ。まだ湯気の残る表面へ触れた指を、今度は見張っていなかった。
「……冷める前に食べられた」
その小さな声に、リオも自分の皿へ手を伸ばした。
日常の動きが戻っていることは、昨日から知っていた。
けれど、動かせるところまで常に見張って暮らすのは、別の疲れだったのだと、リオはようやく想像した。
*
食後、エルナが古い道の図を広げた。
黒槍の塔は、ソルヴィアの外にあった。
リオが指先で町から道を辿ると、彼女が途中で止める。
「その道は、荷馬車向け。人だけなら北へ回れる。でも、調べ物の荷があるなら、短いだけでは選べない」
紙には載っていない、水の取れる場所と、崩れやすい斜面がある。
彼女は覚えている箇所と、今も同じか分からない箇所を分けた。昔通れたというだけで、二人の道が出来上がるわけではなかった。
「塔へ行けば、治せる?」
また、答えを急ぎたくなる問いだった。
リオはパンの屑を紙から払い、町と塔の間を空けた。
「塔へ行けば治る、とまでは言えません。まず、当時の記録と、戻ってきた方の話を聞きたいです。現地へ行くかは、それから考えましょう」
リオは、地図の上へ置いた手を引いた。
「今の腕で、もう一度戦ってほしい、という話ではありません」
エルナの指が、退路の辺りで止まった。
「帰ったあと、腕のことばかり聞かれた」
彼女は図を見たまま言った。
「階段が、どう塞がったか。どこで敵の動きが変わったか。そういう話は、報告書へ置いてきた。治療の話には、もう要らないのかと思ってた」
リオは、描きかけていた図から手を離した。
「聞かせてください。エルナさんが見てきたことを、僕は知らないんです」
リオは、新しい頁を開いた。
エルナが歩いた場所を、彼女の説明に合わせて描く。塔の中を勝手に四角で埋めず、覚えている曲がり角だけを置いていった。
「敵を食い止めていたのは、この辺りですか?」
リオが角の手前を指すと、エルナはその先へ指をずらした。
「もう少し奥。右の壁に、黒い筋があった」
「それは、剣を振る前からありましたか?」
彼女は即答しなかった。
右手でパンの最後の欠片を置き、目を閉じる。
「そこは、覚えてない。振ったあと、壁が一瞬明るくなった。それを、味方の灯りだと思った」
リオは、壁の線を描く代わりに、彼女の言葉をそのまま書いた。
剣の痕跡と繋げるのは、まだ早い。
だが、腕を診ているだけでは、決して聞けなかった話だった。
「同じものを見た人が、いるかもしれない」
エルナが言った。
「報告書の写しを取れるか、私が確かめる。そこまでなら、今決められる」
リオは新しい頁の上へ、報告書、と書いた。
「お願いします。僕は、観察を続けるための申請を進めます。次に何をしてよいか、窓口でもう一度相談してきます」
治療の全てを引き受ける契約も、塔へ同行する約束も、まだなかった。
彼女は自分の剣を腰へ戻した。
左手で金具を持ち、右手は記録の控えを取る。
「じゃあ、この記録は預かる。……剣の方は、自分で持って帰るよ」
彼女が持ち上げたのは、剣の方ではなかった。
今朝分かったことと、次に確かめることを記した紙だった。
庭へ差し始めた陽が、頁の白さを強くした。
リオは自分の控えにも、同じ問いを残した。
あの壁は、何に応えて光ったのか。




