剣を握れない理由
【前回までの人物】
・リオ・アルヴェン:王都から五日かけてソルヴィアへ来た解呪師。当地で働く条件を確かめるため、市の窓口へ向かった。
・エルナ・ヴァルク:街道や荷の護衛。剣の柄を握ると右腕が硬直するが、普段は物を持てる。仕事を終え、夕刻にリオへ相談する約束をした。
窓口の板戸が閉まる寸前に、リオは市庁舎へ滑り込んだ。
外の通りには夕日の色が残っている。建物の中はもう薄暗く、受付台に置かれた硝子の灯りだけが、書類の角を白く照らしていた。石の床から上がってくる冷たさが、歩いて熱くなった靴底を通して伝わる。
「施療師の審査について、伺いたいのですが」
帳面を閉じかけていた女が、手を止めた。
市の施療窓口の担当者らしい。袖口を紐で留め、指の脇に乾いたインクをつけている。リオの顔と手に持つ冊子を順に見てから、閉めかけた板戸を少し戻した。
「今日は、申請でしょうか。それとも、先に相談を?」
閉じかけた帳面を開いた窓口の女性へ、リオは冊子を見せた。
「先に相談をお願いします。ここで施療の仕事をするには、何から始めればよいか知りたくて」
リオは取消通知を出した。
紙を受け取った女の視線が、院籍取消の文字で止まる。
「院を離れた理由も、お話しした方が――」
「まず、この通知を読ませてください。そのあと、足りないところを伺いますね」
言い急いだリオの前で、女性は紙へ灯りを寄せた。
彼女は灯りを寄せ、二枚目まで読んだ。最初の一行だけでリオを追い返すことも、王立治療院の名を聞いて通すこともしなかった。
「所属と契約の解消ですね。事故による業務停止の記載はありません。審査を受けられるかは、この書類だけでは決まりませんが」
「はい」
「患者の方は、もう決まっていますか」
思わず顔を上げると、彼女はリオの新しい記録帳へ目をやった。
最初の頁に、一人分だけ名前が見えていた。
「帳面に、お名前が見えましたので。もう、誰かと約束をなさったのかと」
女性の目を追って、リオは開いていた記録帳を閉じた。
「はい。事情を聞く約束をしました。薬や術式には、まだ手をつけていません」
担当者は頷き、申請書とは別の薄い紙を一枚出した。
「でしたら、相談と観察の内容を残してください。何を尋ね、何を見て、どこからが推測なのか。ここでの開業許可を得た、と患者へ説明することは出来ません」
「分かりました」
「器具を使う検査や、薬、呪いそのものに手を加える施療へ進むなら、先に範囲を確認します。詳しい申請の説明は明日の受付で。今日は、その方を待たせていらっしゃるのでしょう」
声に急かす響きはなかった。
遅い時間に来た人間へ、今日必要なことを先に渡しているのだと分かった。
リオは用紙を受け取り、頭を下げた。
戻る道で、折り目をつけないよう冊子へ挟む。
院章を失えば、技術まで消えるわけではない。
けれど、技術を持っていることと、他人の身体を預かっていいことも、同じではなかった。
*
宿の中庭へ戻ると、煮炊きする玉葱の匂いが風に乗っていた。
井戸の上の滑車が、誰かの汲んだ水の重さで軋む。中庭の隅では、エルナが椅子の脚を一つずらしていた。通路を塞がず、宿の台所からも離れた場所だった。
「間に合った?」
椅子から顔を上げたエルナへ、リオは受け取った紙を見せた。
「はい。今日は話を伺って、見るだけの観察まで。器具を使う検査などは、明日、範囲を確かめます」
「……今日は、剣を握らなくていいんだね」
「はい。あの痛みを、もう一度見せてもらうつもりはありません」
エルナの肩が、ほんの少し下がった。
強く張っていたのだと、そのとき初めて気づいた。
「前の先生にも、何度も試すなと言われたよ。私の方が、つい確かめたくなるから。昨日は駄目でも、今日はって」
リオは記録帳へ、本人による反復を控える助言あり、と書いた。
治らなかったという一言で、それまでに受けた世話が無かったことにはならない。
「今日の相談では、お金は頂きません。続けて診ることになれば、その前に費用をお話しします」
記録帳を開く前にそう伝えると、エルナは膝へ重ねた手を見た。
「聞いてもらったあとで、別の先生に相談してもいい?」
「もちろんです。今日の記録も、その方へ見せられるようにお渡しします」
エルナはリオを見たまま、少し間を置いた。
「なら、聞いて」
彼女は右の手袋を外した。
革の内側が、掌に貼りついていたらしい。左手で指先を引き抜くと、日に焼けた手の甲に、手袋の縫い目の跡が残っていた。
掌には剣を振ってきた人間の厚みがあった。
親指の付け根、指の下、古い擦り傷。
今は、見て分かるような腫れも変色もない。
「いま、普通に動かすぶんには、痛みませんか?」
リオの問いに、エルナは右の掌を開いてみせた。
「痛くない。今日は荷も持ったし、水筒も開けた。契約票も書けたよ」
「剣に触れたあとは、どんなふうに戻りますか?」
「指が曲がったままになる。伸ばそうとすると痛いから、待つ。そうすると、一本ずつ戻る」
通りで見たことと合っていた。
リオは、実際に見た動きと、本人から聞いたことを、帳面の左右へ分けて書いた。
「始まったのは、いつでしょう」
エルナが剣へ目を向けた。
鞘は椅子の横にある。手を伸ばせば届くが、今は膝の上で両手を重ねていた。
「黒槍の塔から、戻ったとき」
リオは筆を止めず、地名だけを書いた。
名前は聞いたことがある。だが、どの階で何が起きたのか、彼女がどんな任務を負っていたのかまでは知らない。
「塔の中で、その腕を傷めたんですか?」
「切り傷はあった。でも、浅かったし、もう塞がってる。……そのせいで剣が持てないとは、どうしても思えなくて」
エルナは、袖の上から腕を撫でた。リオは地名の下に余白を残す。
「塔で何があったか、聞いてもいいですか。話せるところだけで、かまいません」
庭へ、台所の扉が開く音が届いた。
誰かが夕食の人数を数えている。
エルナは声が遠ざかるまで待った。
「退く途中だった。通れた階段が、戻るときには通れなくなっていた。壁を崩して別の道を作るまで、後ろを止める必要があった」
彼女の説明は短かった。
誰が恐慌を起こしたという話も、仲間が役に立たなかったという話もない。道を確保する者がいて、負傷者を運ぶ者がいた。その時間を作るのが、自分の役目だったという。
「剣を振った。何度目かは、覚えてない。急に柄が重くなって、手を離せなくなった」
リオは、重い、と書いた文字の横で筆を止めた。
「剣そのものが重くなった、という感じでしょうか?」
「違う。手が、柄から離れなくなったんだ。動かすと、腕の中を逆へ引かれる。……うまく、言えないけど」
エルナは言葉を探し、右手を見た。
「仲間が、剣ごと腕を支えてくれた。そのままじゃ動けなくて。あの人がいなかったら、剣を置くことさえ、できなかったと思う」
最後だけ、エルナは鞘の方を見なかった。リオは急いで次の質問をせず、書いた言葉を読み返した。
リオはそこまでを書き、時刻の順に確認した。
負傷した直後か。塔から出てからか。意識が途切れた時間はあるか。
覚えていないところへ、答えを押し込ませないように。
「塔から戻ったあと、どんな治療を受けましたか?」
リオが経過を聞くと、エルナは鞄の口を開けた。
「傷を診てもらって、腕の魔力も調べてもらった。呪いかもしれない、とは言われたよ。でも、残ってる力が弱くて、どこまで関係があるかは分からないって」
エルナは外套の内側から、何度も折り直した紙を出した。
角に布が当ててある。旅の途中で破れないようにしたらしい。
「見せてもいい。ここへ持って来るものだと思ってたから」
「拝見します」
短い経過の記録だった。
傷の治癒、日常動作の回復、剣を扱う際の症状の持続。経過を診た施療師は、出来るようになったことも、出来なかったことも書き分けていた。
最後には、症状を強く出さずに観察する方法が必要、とあった。
リオは、その行を指で押さえた。
出来なかったから、考えていなかったのではない。
次に誰かが調べるための場所が、残してある。
「この記録の内容を、僕の記録へ写しても構いませんか。原本はお返しします」
「いい。名前も日付も、そのまま」
紙から、長く身につけていた革の匂いがした。
リオは必要な箇所を写し、元の折り目に沿って返した。
*
「腕を見るだけで、何か分かるの?」
訊いたのはエルナの方だった。
問い方が、最初より具体的になっていた。
「僕には、残っている術式の結び目が見えることがあります。今日は、こちらから腕へ魔力は流さずに調べます」
「見つかったら、解ける?」
問いかけたエルナの声が早くなった。リオは、膝へ置いた彼女の手を見てから答える。
「形が見えることと、安全に解けることは、まだ別なんです。どこから力が来ているかも、確かめなくてはいけません」
先に限界を置く。
それが不安を増やす場合もあると、リオは知っていた。
けれど、今ここで約束を大きくする方が、もっと悪かった。
エルナは椅子を灯りの方へ少し寄せた。
「見て。触る必要があるなら、その前に言って」
リオは頷いた。
自分の呼吸を、いつもの診察の長さへ戻す。
目の前にある輪郭の一つ一つを、見える順に追った。
皮膚の下に薄く残る魔力の流れ。
右手の甲へ続く、筋とは違う細い線。
指の付け根で、線が一度、折り返していた。
最初は、爪の際に残った汚れかと思うほど小さかった。
だが、エルナが右手で髪を耳へ掛けると、線は動きに遅れず、関節の内側へついていった。
手袋を外した跡でも、傷の跡でもない。
結び目だった。
リオは見失わないうちに、記録帳へ形を描いた。
ひとつ。それから、二本の線が合流する箇所。
手首に近いところで、折り返しがもうひとつ見つかった。
「……何か、見えた?」
エルナの問いに、リオは小さく頷いた。
「はい。もう少し、見せてください」
彼女が肩まで固くしたので、リオは顔を上げた。
「ああ、無理に止まらなくて大丈夫です。いま、動かせているときの線を見ていますから」
彼女は右手を膝へ置き直した。
重ねていた左手を離す。その掌へ、庭の木の影が揺れた。
細い線の一部が、手首の内側で途切れている。
切れているのではなかった。
こちらに見えている流れだけでは、閉じていないのだ。
リオは、自分が答えを急いだことに気づき、描きかけの丸を消した。
見えていないところまで線を繋げれば、都合のいい術式なら幾つでも作れてしまう。
描けるのは、見えたところだけだった。
通りで右手が固まった直後、皮膚の上へ一瞬、影のようなものが走った。
あのときは、人と荷車を先に止めるべきだった。観察のためにエルナをもう一度痛ませる理由にはならない。
「……その線を、今から切るわけじゃないよね」
エルナが、リオの小刀の収まった鞄を一度見た。
鞄へ向いたエルナの目を追い、リオは膝の上へ両手を戻した。
「今日は切りません。この線は、腕の中だけで閉じていないように見えるんです」
「外からも、引かれてる?」
「その可能性があります。どこへ続いているか分からないまま、ここだけ切るのは危ない。……いま言えるのは、そこまでです」
口にして、二本の線を改めて見た。
王都で診た石工の手を思い出した。道具に残った砂粒と、患者の身体。二つを分けて観察したことで、初めて見えた関係があった。
だが、同じ形ではない。
似たやり方で調べられるかもしれないことと、同じ原因であることを混ぜてはいけなかった。
帳面の端へ、剣の確認、塔での経過、既存の診療記録、と書いた。
どれも、答えではない。
答えに近づくために必要なものだった。
「エルナさん」
リオは筆を置いた。
「腕を見ていて、今、確かめられたことがあります」
彼女の指が膝の布を掴んだ。
布は、何事もなく小さく寄った。
「剣だけが持てないのは、傷のせいだけでは説明できません」
「それは、ずっと……」
エルナが言いかけた。リオは筆を置き、彼女へ向き直る。
「はい。エルナさんは、そう感じていたんですね。今日、僕にも、腕に残る結び目が見えました」
リオは帳面を、彼女から見える向きへ回した。
皮膚の絵ではなく、線だけを描いた頁だった。
「呪いは、残っています」
台所で器が重なる音がした。
エルナは返事をしなかった。
胸の前に吸った息が、長く止まっているように見えた。
「訓練を続けても変わらなかったのなら、その理由を、この線から調べられます。エルナさんの努力が足りなかった、と決める話ではありません」
リオは言い直しかけて、やめた。
治せる、と添えたくなったのだ。
その言葉を欲しがっているのが患者なのか、自分なのか。区別を失うべきではなかった。
エルナは、描かれた線へ左の指を近づけた。
紙に触れる直前で、止める。
「この線が、私の手を止めてるの?」
紙の上で止まったエルナの指へ、リオは描いた形を示した。
「症状との繋がりは、これから確かめます。でも、腕に術式が残っている。そこは、僕が見たこととして書けます」
「……分からない、だけじゃ、ないんだね」
低い声だった。
リオは頷いた。
「はい。分かったところは、ちゃんとお渡しします」
エルナは背もたれに触れるまで、ゆっくり身体を戻した。
右手を握る。開く。
剣から離れた、その小さな動きは、今日も変わらず出来た。
「剣を、捨てなくてよかった」
誰に向けたともつかない声が、庭の石の上へ落ちた。
リオはその言葉を記録しなかった。
代わりに、次に確認することを、彼女にも読める大きさで書いた。
何が、いつ、手を止めるのか。
術式の続きは、どこにあるのか。
どの順で調べれば、身体を傷つけずに済むのか。
「明日、この続きを相談してもいいですか?」
記録帳を閉じる前にリオが訊くと、エルナは自分の手袋を取った。
「何をするのか、先に聞きたい。それから受けるか決めても、いい?」
「はい。エルナさんが決められるように、お話しします」
エルナは手袋を戻した。
左手で一度、右の指先を整え、それから鞘の金具へ目をやった。
「塔へは、いつか戻るつもりだった」
夜の風が、中庭へ入り始めていた。
「でも、帰ってから何を持っていけばいいのか、分からなかった」
リオは、開いた記録帳を見た。
今日書いたものは、剣でも薬でもない。
それでも、彼女が持ち帰れるものにしなければならなかった。
「今日、見えたところから、一つずつ調べましょう。次に何をするかも、この紙へ書いておきます」
エルナが紙へ目を戻した。
窓から洩れる灯りが、二人の間の頁を照らしていた。




