剣を抜かない護衛
【前回までの人物】
・リオ:王立治療院で呪いを診ていた施療師。研究の公開を巡って院長と折り合わず、院を離れて自治市ソルヴィアへ向かう。
・ケルン:王立治療院の院長。医療基金を支える収入を守る立場から、リオの研究公開に条件を付けた。
・オルド:西通りの石工。仕事の木槌を握ると痛む右手の診察を受け、経過観察が続いている。
・ローナ:王立治療院で働くリオの同僚の施療師。院を去るリオから、オルドの治療を引き継いだ。
ソルヴィアの門で止められたのは、リオの方だった。
「施療の仕事を希望されるなら、こちらもお読みください」
門番が、通行票と一緒に薄い冊子を渡してきた。
リオは鞄の紐を肩へ戻し、表紙を見た。市内の施療と、診療所の開業について。手持ちの募集要項より新しい改訂日が、下に小さく記されている。
「募集の条件が、変わったんでしょうか」
リオが表紙を見直すと、門番は冊子の下を指した。
「いえ、提出先です。前の建物は、屋根の修理中でして。まずはこちらへ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
危うく、着いて最初の用事から間違えるところだった。
王都を発って五日目の午後だった。
乗合馬車を二度乗り継ぎ、途中の宿場では一泊余分に待った。車軸の傷を見つけた御者が、交換の済むまで出発しなかったからだ。
旅費は予定よりかかった。代わりに、五日間、車輪が外れる心配はしなくて済んだ。
リオは礼を言い、門の内へ入った。
道は広いが、静かな町ではなかった。
荷車の轍が幾筋も重なり、香草を売る屋台の隣で、革鎧の採寸が行われている。風が変わるたび、刻んだ葉の青い匂いに、革へ塗る油の匂いが混じった。聞いたことのない言葉が、値段の相談だけは実に分かりやすい調子で飛び交っていた。
王立治療院の白い廊下とは、何もかも違う。
ただ、誰かが荷物を持ち上げるときの、短い掛け声は同じだった。
馬車の終点は、門の内側にある共同の荷下ろし場だった。
リオの箱は、積荷の一番奥にある。
自分の物を待つ間、彼は通行の邪魔にならない壁際で、市の案内図を広げた。
「そっちの角を先に上げて。車止めは外さない」
よく通る女の声がした。
少し離れた荷車で、大きな木箱を下ろしていた。二人の荷役人が横木を握り、もう一人が荷台で向きを調整している。
その脇に、剣を帯びた女が立っていた。
灰色の外套の裾に、街道の土が白く乾いている。首の後ろで低く結んだ灰金色の髪が、荷車を振り返るたび肩へ触れた。背丈はリオとそう変わらず、外套の下の肩には荷を支える厚みがある。
背筋が伸び、足の置き方に無駄がない。左手で革の手袋を締め直しながら、木箱の底を見ていた。剣を帯びて荷の周りを確かめる姿から、この便に雇われた護衛なのだろうと思った。
「待って。下の桟が割れてる。そこへ手を掛けないで」
剣を帯びた女が、箱の底を指した。横木を持つ荷役人が覗き込み、仲間へ顔を向ける。
「本当だ。板をもう一枚、頼む!」
彼らは手を止め、荷台から厚い板を渡した。女がそれを受け、割れた桟の下へ滑らせる。
左手だけで。
右手は、腰の近くにあった。
怪我人のようにかばってはいない。肘も指も、荷の揺れに合わせてわずかに動いている。それなのに、重さを受ける場面では、必ず左が先に出た。
箱が持ち上がった。
女は、通りへ半歩出て、入ってくる別の荷車を止めた。
「少し待って。今、下ろすから」
箱は無事に地面へ着いた。
それから横木の下で、古い桟が乾いた音を立てて折れた。
荷役人が、板を見下ろした。
「あぶねえ……助かった。積む前にも見たんだがな」
折れた桟を持ち上げた荷役人へ、女は首を振った。
「向こうを出たときは、割れてなかったよ。途中の段差で鳴ったんだ。下ろすまで、保ってくれてよかった」
女は誰かを叱るようには言わなかった。
荷車から降りてきた商人へ、受取印のある紙を差し出す。
「これで全部。途中で気になった箇所も、ここに書いてある」
女が受取票を示すと、荷主の商人はその端を押さえた。
「ああ。中を確かめるまで、待ってもらえるか」
「日が落ちる前までなら、待つよ」
リオは案内図を畳んだ。
誰かが助かったときに、その理由を説明できる人は貴重だった。
患者を診る仕事でも、たぶん、護衛でも。
*
自分の箱を受け取ると、御者が、件の女へ軽く顎をしゃくった。
「宿を決めてないなら、あの人に聞くといい。安いだけの宿は勧めねえから」
「あの方を、ご存じなんですか?」
箱を下ろしていたリオに、御者は頷いた。
「別の便だが、何度も一緒に走った。安い宿の話より、眠れる宿の話をする人だよ」
女は、荷下ろし場の端で水を飲んでいた。
右手で水筒を持っている。
栓を締めるのも、右だった。
リオは視線を戻し、十分に距離を取って声を掛けた。
「お仕事中、失礼します。宿について伺ってもいいでしょうか」
女が振り向いた。
近くで見ると、リオとそう年は違わなさそうだった。目の下には旅の疲れが残っている。けれど、灰緑色の目がこちらへ定まると、返事を急かさずに待った。遠くへ指示を飛ばしていた声も、今は二人の間へ収まる低さになっていた。
「宿? 今夜だけ? それとも、しばらく?」
水筒の栓を閉め、女はリオの箱へ目をやった。
「ひとまず泊まって、仕事と部屋を探そうと。荷物は、これだけです」
「それなら、施療師通りの手前かな。仕事を探すのは、商人の組合?」
「いえ。市の施療師の審査を受けに来ました」
彼女の視線が、リオの襟へ動いた。
何もついていないところを見て、すぐに顔へ戻る。
「王都から来たの?」
「はい。今日、着いたばかりです」
女は空いた襟元から、リオの顔へ目を戻した。
「あそこは、院章がないと働けないんじゃなかった?」
「ええ。……こちらは、仕組みが違うと聞いています」
答えてから、自分が質問を避けたことに気づいた。
女は追及しなかった。
「案内図、持ってる?」
広げた紙へ、彼女は左の人差し指を置いた。
「ここが今の窓口。宿はこの二本隣。井戸のある中庭側なら、夜、荷車の音が少ない。大通り側は朝が早い」
「その宿に、泊まったことがあるんですか?」
「あるよ。大通り側でね。朝の荷車の数まで、覚えそうになった」
リオは笑い、場所に印をつけた。
薬材を買える通りも教わった。安い店ではなく、量を小分けで頼める店だった。今の財布には、そちらの方がありがたい。
「ありがとうございます。井戸の側を、訊いてみます」
リオが地図へ印をつけるのを見て、女は水筒を袋へしまった。
「うん。私も来たばかりの頃は、道を聞いてばかりだったから」
そのとき、検品をしていた商人が、二人を呼んだ。
「エルナ、悪い。もう一つだけ頼めるか」
女が水筒をしまった。
「まだ、何か残ってた?」
呼ばれた女が振り向くと、商人は通りの先を示した。
「倉庫まで頼みたい。二つ角を曲がるだけだが、人が多くてな。荷役は手配してある」
「ここまでの報酬に、含める話じゃないよね」
「ああ、延長で。暮れる前には終える」
彼女は距離と時間を確かめ、追加の報酬を聞いた。
折り合いがつくと、商人が契約票の余白へ書き足す。
「剣の必要な場所じゃないから、頼めるんだ」
商人はそう言って、余計な言い方だったと思ったのか、口を閉じた。
エルナは紙を受け取った。
「……抜かずに済ませるのも、護衛の仕事だよ」
声は変わらなかった。
だが、契約票の折り目を押さえる左手に、一度だけ強く力が入った。
*
宿へ行く道と、倉庫へ向かう道は途中まで同じだった。
リオは箱を抱え、少し後ろを歩いた。
エルナは荷車の前へ出たり、横へ回ったりしていた。
露店の客を乱暴にどかさず、先に荷車を止める。すれ違うには狭い場所で、自分の身体を壁へ寄せ、車輪を見ながら御者へ合図する。
荷台から物が落ちるより先に、エルナの目が動く。リオが窓口の場所を覚えている間にも、彼女は通りの先と車輪の脇を何度も見ていた。
剣を抜くところだけが、この人の仕事ではないのだ。
通りの角で、彼女が足を止めた。
人だかりが出来ていた。倒れた籠から、丸い果物が石畳へ転がっている。
荷車の御者はもう手綱を引いていたが、子どもが一人、車輪の近くへ手を伸ばしかけた。
「待って。そこは私が取る」
エルナが、子どもの前へ手を差し入れた。
右手だった。
掌で止まれと示し、しゃがんで果物を二つ拾う。痛そうな様子はない。
子どもが籠へ戻す間に、店の人が残りを集めた。
リオも足元の一つを拾い、店先へ置いた。
「ありがとう、助かったよ」
籠を抱き直した店の人へ、リオは最後の一つを渡した。
「まだ、車輪のそばに一つあります。止まっているうちに」
店の人が拾い上げると、通りはまた動き始めた。
荷車が角を曲がるとき、向こうから、大きな背負い荷を載せた男が来た。
背の枠から伸びた棒が、エルナの剣の柄へ当たりそうになる。
彼女は身体をひねった。
右手が、反射的に柄へ行った。
その瞬間、指が止まった。
触れただけのはずだった。
けれど、肘から先が、別のものになったように固まった。喉の奥で小さく息が詰まる。
エルナは右手首を左で押さえ、剣から離した。
「おい、大丈夫か。今、俺の荷が当たったか?」
背負い荷の男が立ち止まり、肩の枠を押さえた。
「当たってない。そちらは、そのまま行って」
エルナは壁際へ寄った。
数呼吸の間、手が開かなかった。曲がった指に引かれ、手袋の縫い目が張っている。彼女が息を吐くと、頬へ掛かった灰金色の髪だけが、細く揺れた。
リオは荷車へ目をやった。御者も異変に気づき、車を止めている。後ろから来る人を、商人が脇へ誘導していた。
こちらが割り込んで、大声を上げる必要はなかった。
リオは抱えていた箱を少し持ち上げ、エルナの目がこちらへ戻るのを待った。
「この箱なら、座れます。ここへ置いてもいいですか?」
遅れて頷くのを見て、壁際へ下ろした。手は彼女へ伸ばさず、箱の蓋へ添える。
「よかったら。立っているより、楽かもしれません」
「……じゃあ、少しだけ」
彼女は座った。
右の指を見つめながら、息を細く吐く。
やがて、人差し指から順に力が抜けた。
「いつも、同じようになりますか」
リオは訊いた。
エルナは顔を上げた。さっき宿の場所を教えていたときとは、違う目だった。
「……今の、診ようとして訊いてる?」
エルナが顔を上げた。リオは、記録帳を出しかけていた手を止める。
「はい。ですが、先に名乗るべきでした。答えるかどうかは、聞いてから決めてください」
王立治療院にいた、と続けそうになって、やめた。
今の自分を知ってもらうなら、先に話すべきことがある。
「僕はリオ・アルヴェンです。治療院で六年、解呪をしていました。王都を出て、今日で五日目です。院籍は、出発の前日に取り消されています」
エルナは、襟ではなく顔を見ていた。
「取り消されたのは、どうして?」
「診断の手順を、地方の施療所にも伝えたかったんです。公開の条件で、院長と合意できなくて」
エルナの左手が、膝の上で止まった。
「患者に事故を起こしたとか、そういう話ではない?」
「通知に書かれているのは、契約と所属の条件です。書面も、見せられます。ただ……院長と揉めた僕の方が正しい、と、それだけで信じてほしくはありません」
彼女は、わずかに眉を動かした。
「……売り込み、下手だね」
エルナは、そこでようやく息を吐いた。リオも、空いた襟元へ一度指をやる。
「看板を失くしたばかりですから。何を言えば信用してもらえるかも、まだ」
そこで初めて、エルナの口元が少し緩んだ。
「エルナ・ヴァルク。今は、街道と荷の護衛」
彼女は開いた右手を、膝へ載せた。
「剣を握ろうとすると、こうなる。荷物も持てるし、文字も書ける。握る力がなくなったわけじゃない」
「はい。水筒を開けたときも、果物を拾ったときも、右手は動いていましたね」
「治療は、受けたよ」
短い言葉のあとに、何かを試すような沈黙が来た。
治せなかった人を、ここで否定するか。
リオは、たぶんそこを見られていると思った。
「前に診た方からの説明も、今の薬も、聞かせてほしいです。ここでは落ち着かないでしょう。仕事が終わってから、話せる場所はありますか?」
「見ただけで、分かったとは言わないんだ」
「痛む動きは見ました。でも、何が起きているかを調べたわけではありません」
エルナは、荷車を見た。
待たせている仕事へ戻る目だった。
「……先に、この便を終わらせたい」
荷車へ目を戻したエルナに、リオは頷いた。
「待ちます。宿へ荷物を置いてきますから」
「うん。それからなら、話せる」
立ち上がる彼女に合わせて、リオも箱を持った。
差し出しかけた手は引っ込めた。彼女は自分で立てる。必要なら、そう言う人だろう。
エルナは商人へ、待たせた分の時間を伝えた。
追加の荷は請けられないとも言った。商人はうなずき、倉庫の入り口を指した。
まだ仕事は、彼女のものだった。
*
宿の中庭には、鉢植えの小さな木があった。
リオが部屋を借り、箱を置いて戻ると、エルナは井戸の脇で靴の土を落としていた。
「ここ、話をするなら夕食前まで使えるって」
彼女は宿の主人に断ってくれていた。
診察の場所として使えるかは、まだ分からない。けれど、事情を聞くには通りよりずっといい。
「今日は話を伺うだけで、薬を変えたり、無理に剣を握ってもらったりはしません」
「話を聞くのも、料金が掛かる?」
エルナが鞄へ手をやったので、リオは冊子を開いた。
「費用も、診られる範囲も、先にお伝えします。まだ、この市の窓口で確かめることがあって。そこで働く審査も、これからなんです」
「なら、先に行ってきて。閉まったら、明日まで気になるでしょう」
エルナは腰の剣を外し、鞘ごと椅子の横へ立てた。
左手で扱えば、ひどく自然な動作だった。
「このくらいなら待てるよ。仕事は、もう終わったから」
リオは冊子を開いた。
投げ出された患者ではない。
自分で働き、自分で待つと決めて、そこにいる人だった。
「戻ったら、聞かせてください。剣が持てるようになったら、まず何をしたいですか」
彼女は、傍らの剣を一度だけ見た。
「抜けるようになるだけじゃ、足りない」
風が、中庭の葉を鳴らした。
「抜いたあと、ちゃんと誰かを守れるところまで戻りたい」
リオはうなずいた。
その願いを、今日、果たせるとは言わなかった。
「その剣は、長く使っている物ですか?」
尋ねると、エルナは鞘の先へ左手を添えた。
「部隊にいた頃から。手入れは、今もしてる」
金具に錆はなかった。革の継ぎ目も、擦り切れる前に縫い直してある。
使えなくなった物を、誰かに預けてしまったわけではないのだ。
「仕事の間も、持っていたいんですね」
鞘の継ぎ目へ目を落とすリオに、エルナは少し考えて答えた。
「最初は、置いていったよ。その方が楽なはずなのに……ないと、腰の方ばかり気になってね」
彼女は少し笑った。
「腰が軽くなれば楽かと思ったんだけど。左へ寄って歩く癖が、なかなか抜けなくてね」
荷下ろし場で見た、無駄のない足運びを思い出した。
剣を使っていた頃の身体を、彼女は今も持っている。
痛みのせいで出来ないことと、長く積み上げたことは、同じ場所に残っていた。
「診てもらうなら、治るかどうかだけじゃなくて、何をすればいいか知りたい」
「分かったことと、分からないことは、分けてお伝えします」
エルナが頷いた。
リオは、新しい記録帳の最初の頁を開いた。
空けていた名義欄の下に、初めて一人の名前を書いた。
エルナ・ヴァルク。
相談を希望。今日の夕刻。
それから、閉まる前の窓口へ向かって、少し早足で歩き出した。




