↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/38

院章を返した日

  男は、治療用の椅子に座る前に、片方の靴へ手を掛けた。


「靴は、そのままで大丈夫ですよ。今日は、手を見せてください」


 椅子を引いた若い施療師に言われ、男は脱ぎかけた踵を見た。


「ああ、いや……床を汚すと思ってな」


 笑って取り繕うと、日に焼けた目尻に深い皺が寄った。灰色の混じる短髪の下で、太い首が小さくすくむ。大きな身体を椅子の前へ縮めた姿には、申し訳なさが残っていた。

 王立治療院の床は、朝に磨かれたばかりだった。湯で洗った布と乾かした薬草の匂いが、まだ部屋にこもっている。男の靴底には泥が詰まっている。入口からここまで、白い石の上に小さな土の塊が点々と落ちていた。


 リオ・アルヴェンは椅子を引くついでに、床へ足拭きの布を敷いた。かがむと、短く切った焦げ茶の前髪が額へ落ちた。白衣の袖口は、何度も洗ったせいで少し擦り切れている。

 この王立治療院で、呪いの診察を受け持って六年になる。それでも、痛む場所より先に床を気にする患者には、まず座ってもらいたかった。


「こちらへどうぞ。お名前を、伺ってもいいですか」


「オルド。西通りで、石を割ってる」


 男が腰を下ろすと、リオは記録帳に名を書いた。


「オルドさん。今日は、手で何をしようとすると痛みますか?」


 男は答えず、上着から小さな木槌を出した。

 柄を握る。指が閉じる寸前、右手の甲に黒い筋が浮き、木槌が床へ落ちた。


「……こうなる」


 顔に汗がにじんでいた。それでも男は、木槌を拾おうと椅子から身を乗り出した。

 リオが先に拾い、机に置く。


「槌は、ここに置きますね。もう見せてもらえましたから。痛みが引くまで、手を楽にしていてください」


 昨年、古い城壁を修繕していて、石に埋まった金属片を握ったという。

 初めの頃は、何を握っても指がひきつったという。抑呪薬を続けて、食事の匙が使えるようになった。妻の手も握れるようになった。

 仕事へ戻ろうと試したのは、先週だ。家にしまっていた木槌を出すと、握りに布を巻いて太くしても、痛みが走った。


「道具も持ってきてくれって、前の先生がな。……こいつを握るときだけ、まだ駄目なんだ。何か、違うのかと思ってよ」


 引き継ぎ欄にも、道具での再評価を希望、とあった。リオはそこを読み、持参品の木槌を記録した。


 診療記録には、握る力に反応する呪い、と書かれていた。

 リオはその一行に、細い紙片を挟んだ。


 リオは、机の上の布を丸めてみせた。


「この布なら、握れそうですか。道具のときと何が違うか、見たいんです。痛んだら、すぐに離してください」


 男の了解を得て、丸めた布を差し出す。

 男はしっかりと握った。黒い筋は出ない。


「そのまま、少し持っていてください。……かなり、しっかり握れていますね」


 リオの指を見るオルドの口元に、照れたような皺が寄った。


「そりゃ、石を相手にしてきた手だからな」


「はい。木槌のときより強く握れている。それが、知りたかったんです」


 リオは灯具を寄せた。

 自分の魔力を、ごく薄く指先に通す。男の手へ触れた途端、皮膚の下に絡んだ術式が、光の糸のように見えた。


 見えるのは、今そこにある結び目だけだ。

 誰が呪ったかも、どこの城壁かも、この目には映らない。


 右手の甲に三つの輪。そのうち二つは外から流れ込む力を受け、残る一つが指へ向かっていた。

 リオは、男の持参した木槌を見る。


 リオは木槌を持ち上げる前に、オルドへ顔を向けた。


「事故のあとも、この柄を使っていましたか?」


「頭は替えた。柄は……親父の代から、ずっとこれだ」


 オルドの視線は、磨けて黒くなった握りから離れなかった。リオは木槌を布の上へ戻した。


「大事な物なんですね。まず、巻いてある布を外して調べてもいいですか。木を削るときは、先にお話しします」


 許可をもらい、握りの布をほどいた。

 巻き終わりの下に、黒い砂粒が一つ、木へ食い込んでいた。


 金属片そのものとは限らない。持ち帰った粉が、汗と一緒に染み込んだ可能性もある。

 リオは記録用紙に、確認できたことと推測を分けて書いた。


 リオは、砂粒のある場所を指で触れずに示した。


「ここに、呪いの力を繋ぐものが残っているようです。薬で手が楽になっても、この柄を握るたび、力が流れ込んでいたのかもしれません」


「じゃあ……こいつを、捨てりゃいいのか」


 男は言いかけて、木槌を見た。


「いま、捨てると決めなくても大丈夫です。封じ箱へ入れて保管できますから。先に、別の柄なら持てるか、確かめませんか」


 オルドが顔を上げた。リオは、その目を見てから続けた。


「ただ、手にも術式は残っています。柄を替えれば今日から働ける、とまでは言えません」


 上がりかけた肩が、少し落ちる。

 リオは、そこを見落とさないようにした。


「力が失くなったわけでは、ありませんでした。あの布を握れたでしょう。仕事へ戻るために、まだ調べられることがあります」


 男は左手で膝をこすった。作業着のそこだけが、白くすり減っていた。


「なら、頼む。出来ることが残ってんなら」


 別の柄を使った検査は、隣室の施療師にも立ち会ってもらった。

 オルドはまず、木の棒を握った。それから、小さな試験用の木槌を持つ。

 右手の指が、ゆっくりと柄へ回る。

 黒い筋は現れなかった。


「先生。これ、振っても……」


 試験用の槌を握ったオルドの肘が、少し上がった。リオは掌を見せて待ってもらう。


「今日は、持てたところまでにしましょう。指が、まだ腫れています。せっかく握れた手を、ここで傷めたくないんです」


 男は物足りなそうに木槌を置いた。けれど、今度は自分の手で置けた。

 それを確かめるように、空になった掌を何度も見ていた。


 元の木槌は封じ箱に収めた。手の呪いが自力で残り続けるかは、経過を追う必要がある。

 リオは再診日を書き、男が通える曜日かを尋ねた。


     *


 その一時間後、リオ・アルヴェンは王立治療院から追放された。


 院長室の窓は、診察室よりずっと大きい。

 けれど厚い帳が日差しを遮っていて、机に置かれた書面の角だけが白く光っていた。


「……座りなさい、リオ。話は長くない」


 椅子へ腰を下ろすのを待ち、机の向こうの男は一枚の紙を差し出した。


「本日付で、君の院籍を取り消す」


 ケルン・ヴァイス院長は、差し出した通知から手を離した。こめかみの白髪が、背後の窓から射す光に透けている。襟元まで整えた上着にも、書類へ重ねた指にも、急いだ様子はなかった。

 怒鳴りもしなかった。リオが六年前に採用された日と同じ、よく通る穏やかな声だった。


 書面には、院外への研究提供に関する契約不成立と、所属条件の不履行、とあった。


「昨夜出した修正案は、お読みいただけましたか」

「読んだ。患者を特定できる記述を除き、診断手順を地方の施療所にも配る。君はそう書いている」

「三つの地方診療所と、症例の照合をしたいんです。こちらに来る旅費のない患者にも、近くで検査を受けてもらえる」

「そして、誤った手順で事故が起きたら、誰が責任を負う?」


 机の向こうで、院長が指を組んだ。


「紙を配るだけでは済まない。研修も監査も必要だ。君一人が、王国中へ出向くのか」

「ですから、段階を分けて――」

「その費用を支える収入まで、同時に減らそうとしている」


 リオは口を閉じた。


 反論できない部分はあった。

 抑呪薬を定期的に届ける収入で、王立治療院は貧しい患者の薬代と、冬の地方診療所を支えている。

 今朝の石工も、その基金がなければ診察料を払えなかった。


 ケルンは、それを立て直した人物だった。

 飢饉の年に閉鎖された診療所を、帳簿と契約を抱えて一軒ずつ開けて回った。研修中のリオは、その働きを職員たちから何度も聞いていた。


「君の研究を、無価値だと言っているのではない」


 別の契約書が差し出された。


「残る道もある。新しい研究室を、君に任せよう。助手を二人つける。薬材も、観察器具も、今のように順番を待たなくていい。……報酬も見直す」


 リオは契約書をめくった。

 研究成果の使用と公開については、治療院が独占的に決定する。

 先週の案と同じ条項が、同じ場所にあった。


「この条項は……公開の時期も、院が決めるんですね」


 リオが指を置いた行を、ケルンは一目だけ見た。


「そうだ。院の経営と、手順の安全を確かめてからになる」


「いつまでに、判断してもらえますか」


 ケルンは答える前に、契約書の端を揃えた。


「期限は、今は約束できない」


 廊下で車輪の音がした。

 薬材を運ぶ台車だ。この時間には、北側の病棟へ行く。

 六年いれば、扉の向こうを見なくても分かることがあった。


「今朝の患者さんは、十四か月、同じ薬を飲んでいました」

「報告は受けた。原因物の疑いを見つけたそうだな」

「まだ疑いです。処置の効果も追わなくてはいけません。でも、握力への反応だという最初の判断を、別の検査で確かめることはできた」


 リオは膝の上で手を開いた。


「この検査を、他の町の施療師にも使ってほしいんです。今日、あの人が持てた槌を、次の患者さんにも持ってほしい」


「必要な所には使わせる。そのために、この院がある」


 ケルンの返事は早かった。リオは、契約書へ視線を落とした。


「必要かどうかを決めるのも、収入が減る、この院だけですか」


 ケルンの指が止まった。

 部屋が静かになった。


「君は、治したあとの患者しか見ていない」


 初めて、院長の声から温度が消えた。


「私は、薬が届かなくなった町を見た。明日、何十人を救うかの話をしているときに、来月の金がなくなれば、何百人も取り残される。それも治療の責任だ」

「はい」


 リオはうなずいた。

 その責任を、軽いとは思わない。


「だから、収入の移し方も考えたい。治療して終わりではなく、研修と診断を支える契約に変えられないか。僕の案には、足りないところがあると思います」

「ある。それを、君はまだ賄えない」


 ケルンは机の帳簿へ掌を置いた。リオは、開いていた手を膝の上で重ねる。


「足りない分は、直します。何度でも。ですが……治せるかもしれない患者さんを、期限もなく待たせる約束はできません」


 ケルンは、しばらくリオを見ていた。

 やがて契約書を自分の側へ引き戻した。


「院の方針に従わない者を、院の名で働かせるわけにはいかない」

「……承知しました」

「今日の夕刻までに、院章と貸与品を返却しなさい。給与は規定どおり精算する。担当患者の引き継ぎは、必ず済ませるように」


 差し出された取消通知を、リオは両手で受け取った。

 薄い紙だった。

 薬材の注文書より、ずっと薄かった。


     *


 自分の机を片づけるのに、箱は一つで足りた。


 父から譲られた拡大鏡。刃こぼれを直しながら使ってきた小刀。昼食を包む布。

 研究用の観察記録には、院の管理印が押されている。患者名を伏せたものも含め、持ち出すことは認められなかった。


 リオは綴じ紐をそろえ、棚へ戻した。

 頭に残った手順までは、置いていけない。

 けれど新しい土地で使うなら、あらためて検証できる記録が要る。


「オルドさんの次の診察、私が受けます」


 戸口で、同僚の施療師ローナ・ヘスが言った。栗色の髪を後頭部で編みまとめ、記録を抱えた腕には白衣の袖を折り返している。

 午前の診察にも立ち会っていた、十歳年上の同僚だ。声は柔らかいが、年下のリオに対しても、検査の疑問を遠慮なく聞く人だった。


 差し出した引き継ぎ紙に、彼女はすぐ目を通した。


「別の柄で無反応。封じ箱で木槌を隔離して、手の術式の経過を見る。抑呪薬は勝手に中止しない、と」

「はい。指の腫れもあるので、そちらの処置もお願いします。原因物を離しても、関節まで治るわけではないですから」

「分かってる。……研究の棚、開けさせてもらうわ」


 彼女は記録の場所を確かめ、鍵の管理票に署名した。

 その手際を見て、胸の奥に張っていたものが、少し緩んだ。


「ありがとうございます」

「その前に、ここ。予約を待たずに来てもらうのは、どうなったとき?」


 ローナは責める声を出さず、ペンをリオの前へ戻した。


「今のうちに書いて。あなたを捜さなくても、私が診られるように」


 紙が戻ってくる。ローナの指は、再診日の下の空白を押さえていた。

 実施した検査と反応は書いた。だが、再診でどの変化が出たら予定を早めるかが抜けていた。

 自分の頭では分かっていることを、他人も分かる形にする。

 こんなときまで、そこが足りない。


 リオは椅子を引き戻し、ペンを取った。


 夕方、オルドは封じ箱の受取票を握って、会計の前にいた。

 木槌の保管手続きを済ませたところらしい。布を巻いていない右手は、まだ腫れていたが、指は開いていた。


「先生。さっきは、ありがとな。次も、よろしく頼む」


 オルドが受取票を持ち上げた。リオは足を止め、持っていた箱を両手で抱え直した。


「次からは、ローナ施療師が診ます。今日の検査も、詳しくお伝えしました」

「先生は?」

「……今日で、この院を離れることになりました」


 男が、リオの腕を見た。

 白衣はもう脱いでいる。襟についていた銀の院章もない。


「あんたが、悪いことしたのか」

「研究をどう使うかで、院長と意見が合いませんでした」


 リオは箱を持ち直した。


「治療は続けてもらえます。痛みが増えたら、次の予約を待たずに来てください」


 オルドは何か言いたそうに唇を動かし、それからうなずいた。

 木槌を握れない右手が、ゆっくりと上がった。


「……俺は、今日ここへ来てよかったよ。あんたに診てもらえて、よかった」


 箱の角が、指へ食い込んだ。リオは口を開いたが、すぐには声が出なかった。


「ローナにも、そう伝えます。……どうか、次も来てください」


     *


 門の外に出ると、焼いた玉葱の匂いがした。

 通りの屋台は夕食時で、仕事帰りの人が列を作っている。自分が職を失っても、腹の減る時間は変わらないらしい。


 何か食べようと思い、財布を開いた。

 寮は三日以内に退去。次の給料の代わりは、ない。

 リオは財布を閉じかけ、また開けて、具の少ない包み焼きを一つ買った。


 空腹のまま将来を考えると、大抵ひどい結論になる。

 父の教えで、いちばん何度も役に立ったのはそれだった。


 宿舎へ戻り、机に地図を広げた。

 王国の施療所の多くは、王立治療院の院籍を開業の条件にしている。今のリオが行っても、正規の看板は出せない。


 ただ一か所、指でたどる道の先に、別の印があった。


 国境のソルヴィア自治市。

 六日前、院内の掲示板で見た、市の施療師募集を思い出す。院籍の代わりに実技と記録の審査を課す、古い条約の町だ。

 募集要項の控えは、自分で受け取ったものが鞄にあった。


 開業審査には費用がかかる。住む場所も探さなくてはいけない。患者が来る保証は、もちろんない。


 リオは旅費を数え、必要な薬材を書き出した。

 母へ送る手紙の書き出しは、三度書き直した。


 心配しないでください、はやめた。

 心配させる内容を、その言葉で始めるのは卑怯な気がした。


『治療院を辞めることになりました。ソルヴィアで、独立の審査を受けようと思います』


 そこでペンを止める。

 次に書いたのは、薬材の相場についての質問だった。

 母は心配するだろう。そしてきっと、まず値段を調べてくれる。


 窓の外で、治療院の鐘が鳴った。

 長く通った建物が、通りの向こうに白く浮かんでいる。


 あそこには、まだ救える人がいる。

 自分がいなくても救う人もいる。

 そう思えたことに、ほっとした。


 リオは地図の端に、ソルヴィアまでの日数を書き込んだ。

 それから、新しい記録帳を開く。


 最初の頁に、いつもの癖で王立治療院と書きかけ、手を止めた。

 まだ、施療所の名前さえない。


 しばらく考えて、そこは空けておくことにした。

 誰が来て、何を取り戻したいと言うのか。

 それを聞いてからでも、遅くない。


 明朝の乗合馬車を確かめるために、リオはもう一度、灯りのある通りへ出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。