戻る力が、獣を守る
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
先に石段へ足を置いたエルナが、リオを振り返った。
「図、しまって。ここからは、私の番」
翌朝の塔は、壁の半分を日陰へ沈めていた。灰金の髪の先だけが光り、彼女の左手にある杖が、昨日描いた段の縁を叩く。
リオは紙を畳んだ。
塔の中を流れる線なら、自分の方が見える。だが、それを見ながら歩くと、足の置けない所まで、地図の続きにしてしまう。
「そこ、欠けてる。私が上がってから、同じ左側」
「はい」
彼は、彼女が置いた足の跡へ靴底を合わせた。
右腕の呪いは残っている。包んだ剣も背にある。その二つを置き去りにして元気になったのではなく、今の身体で通れる側を選んで、彼女は先へ立っていた。
下では、保全担当が革袋を肩へ掛け直した。
灰色の帆布には、朝から使ったらしい白い石粉が付いている。
「踊り場の低い壁より手前までだぞ。奥の閉じた戸は開けるな。俺は、下の留めを見てから戻る」
男は通路を指した。
今日の巡回に合わせ、二人が昨日示された石段を使うことは、入口で確かめてある。古い継ぎをさらに剥がす許可を、もらったわけではない。
「昼の鐘より前には、ここへ戻ります」
リオが答えた。
「鐘が聞こえない時は?」
エルナが横から訊く。
彼は鞄へ手を入れかけ、やめた。持っていない時計を、今から取り出すわけにはいかない。
「踊り場までを見たら戻ります。先の部屋へは入りません」
「うん。そっちなら、私にも分かる」
彼女は段の上を見た。
男も頷き、自分の仕事の方へ下りていく。
誰かを待たせているから帰る、ではなく、二人で決めた所まで行って帰る朝だった。
*
石段は、壁の内側へ緩く曲がっていた。
上がるたび、入口から来る風が弱くなる。古い埃の匂いが濃くなり、靴底の擦れる音が、すぐ近くで返った。
エルナが、途中の広い段で止まる。
「ここ、下りる時は、身体を横にする。右側へ剣の包みが当たる」
彼女は一度、実際に向きを変えた。
リオも後ろへ戻り、鞄を壁と反対側へ持つ。試しに下りる一歩を置いてから、二人はまた上へ向かった。
足の動きを覚えておく作業が、遠回りに感じられなかった。
塔の線を追うことと、人が戻る道を作ることは、どちらか片方を選ぶ仕事ではない。
上には、横長の踊り場があった。
床の端から先は、低い壁で区切られ、その向こうに、暗い広間が見える。石段はそこへ直接落ち込まず、右へ折れて、閉じた戸へ続いていた。
エルナは戸へ行かなかった。
床へ杖をつき、低い壁から二歩離れた所で止まる。
「見るなら、ここから。上へ乗らないで」
「何か、いますか」
「まだ、形だけ。向こうの柱の間」
リオは目を細めた。
最初に見えたのは、獣の頭ではなかった。
縦へ並んだ、黒い槍のような突起だった。
背から肩へ、何本もの黒い刃が生えている。
その下に、四つの足があった。石と金属を重ねたような厚い胴が、広間の中央で沈んでいる。
リオの息が浅くなった。
黒槍獣。前に飾り枠を落として退いた時と、同じ形の背だった。
あの獣がこの広間へ移ったのか、別の一頭かは、まだ分からない。それでも、エルナが後ろへ足を引く、その短い動作の理由は分かった。
「似てる」
彼女は言った。
「私が、最後に見た背中に」
声を低くした彼女へ、リオはすぐ、何本あったかを尋ねなかった。
灰緑の目が、広間の入口と、二人の来た石段を交互に見る。
覚えている人へ、昔の怖さを説明してもらう前に、今日の立つ場所を空けたかった。
「ここから、離れますか」
「今は、ここ。あれが、こっちへ狙いを定めたら、下へ戻る」
彼女は、自分の杖の先を見た。
「剣は、抜かない」
「僕も、頼みません」
それを聞き、彼女の肩が少しだけ下がった。
*
リオには、獣の胴より先に、床を伝う線が見えた。
昨日、継ぎの外側で見つけた折返し。そこへ続くように、低い壁の下から、細い明滅が広間へ流れている。
腕に残る線と同じだ、と言いたくなった。
彼は、その言葉を口へ出す前に、エルナの足元を見た。彼女は、今日、右袖を上げていない。
今、見ているのは塔だった。
「壁の下から、獣の方へ行く道があります」
リオは小声で言った。
「獣へ、入る?」
「背の板へ。そこから、まだ先は見えません」
「じゃあ、背中の方を覚える。顔へは近づかない」
エルナは壁から離れた位置で、膝を少し曲げた。
昔の敵を前にしても、彼女の仕事が、怯えている人の役だけになるわけではなかった。
リオは、紙へ壁と柱を描く。
丸い印を獣の位置へ置き、術の線は、その外側へ別に引いた。
広間の奥で、石が鳴った。
二人とも、顔を上げる。
獣が、頭を持ち上げた。
目のような細い光が、柱の間を横へ動く。眠っていると決めてよい相手ではなかった。
エルナが、リオの袖へ左手を添えた。
「今、動かない」
彼は頷く。
黒い背の突起が、一つ、壁の方へ傾いた。
何かを探している。
自分たちのどちらを見ているかは、ここからでは分からない。音を聞いたのか、術の流れを感じたのかも。
リオは、持っていた鉛筆を、紙へ落とさないよう握り直した。
足元の線だけが、少しずつ、明るさを変えている。
*
その明滅には、順番があった。
床から背へ光が走り、遅れて、槍の根元が濃くなる。
獣が足を一つ動かすと、背の外側の板へ、薄い膜のようなものが張った。
リオは、昨日の試験糸へ触れた。
人の腕を代わりに置くための物ではない。外へ漏れている流れの向きを、短い間だけ分けて見る物だ。
ここで流れが見えたからと、同じことが安全にできるとは限らない。
彼は糸を取り出さず、まず壁の下へ目を落とした。
こちら側へ出ている細い経路がある。
触れずに戻れば、このまま図へ残せる。それでも、戻る線がどちらかだけ、ここで見分けられれば、次はエルナに剣を握ってもらわずに、防御の仕組みへ近づける。
「エルナさん。短い試験を、考えています」
彼女は獣から目を離さなかった。
「今度は、どこを動かすの?」
「壁のこちらへ出ている流れです。向こうへ攻撃は送りません。糸を置き、戻る方が見えたら外します。あれが動いたら、見る途中でも戻ります」
「糸を、置く所を見せて」
リオは、まだ空の指で位置を示した。
彼女は低い壁と、石段までの床を見比べる。
「私の後ろへ回り込まないで。あんたの逃げる方、左に空ける。声は、一つでいい」
「戻る、ですね」
「うん。分かったら、返事より先に足」
彼は頷き、試験糸を二本だけ出した。
糸を掛けたのは、壁の外へ淡く漏れている二つの明滅だった。
石の溝を削ることも、広間へ糸を渡すこともない。
リオは、一本目を自分の手元へ置いた。
二本目へ目を移す。
昨日は、二つの間に遅れがあった。今日は、一つが明るくなる時、もう一つは薄くなった。
戻る道が、今も働いている。
彼は息を詰めかけ、ゆっくり吐いた。
獣の背へ、光が来る。
膜が一枚、外側へ張り出した。
その時、二本目の糸の先が、低い壁の方へ強く引かれた。
糸は、彼の指の間で短く伸びる。彼は追って腕を出さず、手元の経路をすぐ外した。
一本目を持つ手にも、熱が来た。
「戻る」
エルナが言った。
リオは立ち上がりながら、二本目の端を掴んだ。
紙を先にしまう暇はない。畳んだ図は上着の内側へ押し込み、糸を手元へ引く。
壁へ、乾いた音が走った。
獣が突進したのではなかった。
背の一本が、こちらへ向けて細い黒い光を伸ばしたのだ。
リオが身を屈めた時、エルナは既に石段の入口へ立っていた。
「そっちじゃない。柱の内側!」
彼は足を変えた。
黒い光が、低い壁の上を過ぎる。
石の角が欠け、粉が肩へ落ちた。
リオは、反射で術をぶつけ返しそうになった。
相手の動きを、一瞬止めたい。
そのために魔力を押し出す、いつもの考えが先に来る。
だが、さっき見た膜の光が、目の奥へ残っていた。
糸へ戻った力は、獣の背が強くなる直前に増えた。
彼は、伸ばしかけた手を引いた。
代わりに、最後まで残っていた自分の試験経路をほどく。
黒い光が消えたわけではない。それでも、膜を重ねていた背の板が、一瞬、暗くなった。
エルナが彼の腕を掴む。
「こっち!」
二人は、柱の陰から石段へ入った。
今朝、一度下りた幅だった。
彼女の剣の包みは壁へ引っ掛からず、リオの鞄も、二人の間へ挟まらなかった。
*
段を下り切るまで、彼らは立ち止まらなかった。
入口から来る冷たい風が、リオの頬へ当たる。
下にいた保全担当が、顔を上げた。
「何が来た」
「黒い光が、一度。踊り場の壁の角へ。ここまでは、追って来ていません」
エルナが答えた。
男は上へ駆け出さず、二人を入口側へ退かせた。
「壁の外へ出ろ。俺も、今日は上を使わない。戸には触ってないな」
「触っていません」
リオが言った。
自分の声が、思ったより強く震えた。
男は革袋から控えを出した。二人を英雄だと褒めるより先に、通路へ入る次の人へ何を知らせるかを尋ねる。
エルナが、壁の欠けた位置を彼の図へ示した。
リオは、保全担当の書く石の損傷へ、自分の術の解釈を混ぜなかった。
獣の形。壁の上を来た一撃。下の段まで追っていないこと。
まず、その三つを渡した。
塔から離れた石へ座り、リオは手を開いた。
試験糸は二本とも戻っている。指に、焼けた傷はなかった。熱を感じたことと、皮膚を焼いたことは違う。
それでも、あの場所へ、もう一度すぐ戻るつもりにはなれなかった。
「途中だった」
彼は言った。
エルナが隣へ腰を下ろす。
「うん。だから、帰れた」
短い返事だった。
リオは、彼女の右腕を見る。その袖へ、今朝と違う痙攣が起きてはいない。剣を握る動作はさせていないし、ここで治癒の検査へ移る理由もない。
「僕が、試すと決めました。こちらの流れなら、短く見られると思って」
「思った通りの物も、見たんでしょ」
「戻る力が、背へ入る所は。ただ、あれがこちらへ反応することまで、分かっていませんでした」
「じゃあ、そっちも、書いて。見えた線の方だけ、上手くいった日にしないで」
彼は頷いた。
彼女の言葉は、失敗を許すために事実を小さくする声ではなかった。
同じ場所へ、次に二人で戻るための声だった。
*
落ち着いてから、リオは図を広げた。
獣の背と、壁の外の折返しを並べる。
外部へ置いた試験経路が働いた時、背の膜が増えた。経路を外した直後、膜が一瞬薄くなった。
それだけで、剣から奪われた力と同じだとは証明できない。
だが、塔へ向かう力が、どこかへ消えるだけではなく、目の前の防御を厚くする可能性がある。
エルナは、その説明を最後まで聞いた。
「私たちは、殴っても、殴った先が硬くなったと思ってた」
彼女は広間の丸へ指を置いた。
「硬いから、もっと力を入れた」
リオは顔を上げた。
過去の部隊が愚かだったのではない。
敵を倒すための正しい動作が、見えなかった道を通って、相手の防御へ回されていたのかもしれない。
「次は、その道を、先に分けます」
彼は言った。
「どう切るかより、どこへ戻るかを、見失わないように」
「私は、斬る時を選ぶ。見つけたら、すぐ、じゃなくて」
彼女が、少し笑った。
「今日は、抜いてもないけどね」
「はい。抜かないで、僕を連れて戻ってくれました」
その言葉には、彼女はすぐ答えなかった。
代わりに杖を手元へ引き、土の付いた先を布で拭く。
「次も、それは、やる」
帰りの道へ、二人は立った。
腕の呪いも、黒い獣も残っている。
けれど、相手へ強い一撃を重ねればよいだけではないことを、今度は、リオ自身の指が覚えていた。
エルナは紙の空いた所へ、踊り場の柱を二本描いた。
敵の前へ立つ場所だけでなく、戻る時に身を隠せた場所として。
次は、あの柱の向こうで、逃げる一歩ではない一歩を選ぶ。
リオは、そのために必要な流れの図を、彼女の地形の隣へ描き始めた。
彼女は二本の柱を、同じ大きさにはしなかった。
広間へ近い方は、低い壁の向こうを見る時に邪魔になった柱。石段に近い方は、戻る時、黒い光から二人を隠した柱だ。
「こっちからなら、背中を見ながら、下へ戻れる」
エルナが、後ろの柱の外側へ指を置く。
リオは、そこへ立った時に見えた線を思い出した。獣の胴へ真っ直ぐ向かう道より、継ぎへ戻る細い道の方が、壁の手前へ残っていた。
「次は、この位置から始めます。近い方へ立ち直してから考えるのを、やめます」
彼女は頷いた。
同じ場所へ戻るとしても、同じ失敗の立ち位置へ戻る必要はない。二人の図には、敵のいる所だけでなく、次に自分たちの立つ所が、もう描かれていた。




