返ってきた図の、黒い継ぎ目
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
返書を先に開いたのは、エルナだった。
翌日の昼前、リオが部屋へ戻ると、彼女は机の向こうから封筒を持ち上げた。灰金の髪を低く結び、右腕を椅子の脇へ預けている。左手の指には、開いたばかりの紙の端が挟まっていた。
「読めない所、三つ」
彼女は言った。
「思ったより、少ないです」
「二つは、あんたの字より読めた」
リオは笑い、隣の椅子を引いた。
返事が来たことより、そこに自分がいなくても、彼女が受け取って読んだことが先に嬉しかった。封筒を手元へ引かず、彼女の指す行を見る。
黒槍の塔の保全担当からだった。通常の保全に合わせ、下端の外装を開けられる日と、立ち会える範囲が記されている。
その日は、今日だった。
「午後、早い所。急げば、行ける?」
エルナは道の控えを出した。
リオはすぐ頷かず、窓の外を見た。空は明るいが、二人の支度と往復は、字を読んだ瞬間には終わらない。
「出る時刻を決めて、戻る道を暗くしないなら。僕は、行きたいです」
「私も。剣を使うためじゃなく、あの修理の下を見たい」
彼女は返書を机へ置いた。
昨日まで、腕の中で消えなかった線を、紙の上で見ていた。今日は、その線の供給側に、同じような折返しがあるかを見られるかもしれない。
だが、手紙は治療法を送ってきたのではない。
リオは、許可された範囲の行へ指を置いた。
「ここから奥は開けない、とあります」
「うん。開く所だけで、何が見えるかを先に見よう」
エルナは杖を取り、包んだ剣へ目をやった。
「こっちは、今日も包んだまま」
「はい。試しに握る予定も入れません」
彼女が頷く。そこで初めて、リオは鞄へ記録を入れた。
*
道の土は、上だけ乾いていた。
エルナは杖の先を一度押し込み、足を置く場所を少しずらした。リオは後ろから追い越さず、彼女が見ている地面を見る。
塔へ来るたび、同じ道を歩いているつもりだった。それでも、昨日までの風と、今日の土は違う。
「そこ、右じゃなく左」
彼女が杖で示した。
リオは頷き、石の縁へ足を移した。
「僕の方が、紙の上を歩いていました」
「今、何を見つけるかまで、歩いてた?」
「少し」
「じゃあ、こっちを見て。帰りにも、踏むから」
彼は土へ目を戻した。
今日見えた物を持ち帰るための道は、行きの期待と別に残しておかなければならない。
塔の外壁が見えた所で、リオは一度立ち止まった。
エルナが顔を上げる。
「休む?」
「いえ。昨日の図を、一度、しまい直します」
鞄のいちばん上には、右腕の明滅を描いた紙があった。それを奥へ入れ、空白の紙を手前へ出す。
似た線を見つけたいと思いすぎれば、壁の割れ目まで、腕へ続く道に見えてしまう。
彼が理由を話すと、エルナは少し考えた。
「じゃあ、私の図は、最後に出す。先に、ここの形を描こう」
「そうしてもらえますか」
「私には、光る方が見えない。その代わり、石の方は、見てる」
彼女は返書を鞄から出した。
できない方を無理に埋めるためでなく、見える方を別に持つ二人として、塔の入口へ向かった。
*
保全担当は、灰色の帆布の上衣を着ていた。
革袋から鏡を出しかけて、二人に気づく。
「間に合ったな。こっちも、今から下を開ける」
リオは返書を示し、礼を言った。担当は紙を確かめ、壁の下端へ歩く。
エルナは彼のすぐ後ろへ入らず、足元の溝を見た。
「立つの、こっちでいい?」
「ああ。その石より内側へは、まだ来るな。蓋を下ろす場所を空ける」
男は先に留めを緩め、外装を支える木を据えた。
石が擦れる音がした。外れた薄い板の裏から、乾いた土と古い金属の匂いが来る。
リオは、手を出さずに待った。
見えたばかりの暗がりへ、自分の顔をいちばん先に近づけたくなった。だが、蓋を持っている人の腕が戻るまで、そこは彼の仕事の場所だった。
「ここまで。奥の石は外さない」
男が言った。
リオは頷き、膝をついた。
外装の下には、前の図へあった細い溝が走っている。その途中に、色の違う継ぎが一つあった。
「これが、返書の修理痕ですか」
「そうだ。俺が替えた留めじゃない。古い方。いつ誰がやったかは、この控えにはない」
男は革袋から一枚を出した。
リオは、その言葉を、誰かが呪いを作り直した証言へ変えずに書いた。今ここにあるのは、古い継ぎと、作業者の分からない記録だけだ。
エルナが左側へ回り、石の角を見る。
「こっち、少し盛り上がってる。紙には、まっすぐだった」
彼女の杖の先が、壁に触れない所で止まった。
リオは見る位置を変えた。
溝が切れたのではない。継ぎの下へ潜り、外からは続きが見えなくなっていた。
*
術の線も、その場所で暗くなっていた。
リオは息を吐き、鏡を借りられるか尋ねた。
「持つのは、俺がやる。どこを向ける」
担当が言う。
「その角の裏を。鏡を奥へ差し込まず、こちらへ少し傾けてください」
男は頷き、手元を動かした。
細い反射の中へ、別の面が入る。
リオは、そこで声を止めた。
戻っていた。
塔の奥へ流れる一本だと思っていた線が、継ぎの縁で折れ、入口側の細い道へ戻っている。昨日、腕の中で見た明滅と、同じ形ではない。それでも、進む道と戻る道を一つに描くと、結び目の位置を見落とす形だった。
「リオ。何が見えた?」
エルナの声に、彼は顔を上げた。
「継ぎの横へ、戻る線があります。奥へ行くだけではなくて」
「私が見える方で言うと、どこ?」
彼は、自分の紙へ石の角を描いた。
その上へ、彼女が示した盛り上がりを足す。それから、見えている術の道を、別の色の線で置いた。
「この継ぎの、外側です」
エルナは紙と現物を交互に見た。
「剣へ戻る?」
「まだ、そこまでは分かりません。ただ、剣を置いた方とは違う側へ、一度回っています」
彼女は頷いた。
塔と右腕の間を、一本の長い紐で繋いだ絵が、リオの頭の中から少しずつ崩れていく。壊れたのは、彼女の身体ではなく、彼の描き方の方だった。
「その線、ここを直す時に触る物か」
担当が尋ねた。
「手で触れる溝とは別です。今、留めを締めてもらうだけで切れる物ではありません」
「なら、俺の留めの場所も、絵へ入れてくれ。あとで、石の方まで直せないと言われると困る」
「はい。混ぜないようにします」
リオは金具の位置を四角で描いた。
術の専門家ではない男が、その場を黙って譲ることも、自分の仕事を忘れて驚くだけになることもなかった。その頼みが、リオにはありがたかった。
*
リオは、持参した試験糸を出した。
人体や塔の奥へ差し込む物ではない。外へ漏れる流れを見るため、自分の手元で短い経路を作る、出発前に用意した細い糸だった。
エルナは、その手を見る。
「今日は、何をする方?」
「壁の外へ出ている流れを、二本へ分けて見ます。奥の結び目を切らず、どちらが戻る側かを、短い間だけ。エルナさんの腕へは掛けません」
「ここの石には、残る?」
担当が訊いた。
「終われば外します。刻みも、留めも増やしません」
男は開いた蓋を見た。
「その位置なら。こっちは、蓋を戻す前までだ」
リオは頷いた。
エルナにも方法を話す。彼女は右袖を上げなかった。
今日の自分の身体を、塔の図の答え合わせへ並べないと決めた、そのままの姿だった。
試す前に、リオは何も流していない二本を、担当へ見せた。
「こちらに、切った跡を残す予定はありません。終わったあと、同じ二本をしまいます」
担当は頷き、石の溝の外へ、置ける場所を示した。
エルナは、その手前に自分の杖を置かないよう持ち替える。
「私、そこへ立つつもりだった。先に決めてよかったね」
リオは顔を上げた。
頭の中で流れを分ける時、そこに立つ人まで、一本の線として動かしかけていた。彼は糸を出す位置を少し左へ移し、彼女が壁の形を見る側を空けた。
「こちらからでも、僕は見られます」
「うん。私は、石の角を、そのまま見てる」
彼女は左手で自分の紙を押さえた。誰かが無理な位置へ入って、その人の苦労を、術の成功に混ぜる必要はなかった。
リオは空白の紙へ、二人の足元も小さく記した。
糸の二つの端を、壁から離して置く。
リオは膝を少しずらし、鏡の中と糸の先を、同じ向きから見られるようにした。
細い流れが、一本目へ触れた。
二本目には、少し遅れて光が来る。
彼は急いで手を動かさず、流れの戻る方を目で追った。
継ぎの外側へ、短い輪が見えた。
「そこだ」
思わず声が漏れた。
エルナが紙を手前へ引く。
「どの、そこ?」
「さっきの戻る線と、奥へ行く線が、ここで結ばれています」
彼は言ってから、糸をそのまま長く置きたい欲を抑えた。
見つけた結び目が、塔の錨そのものかは分からない。ここを切れば腕が解ける、と言うには、調べていない所が多すぎる。
それでも、奥へ進む時、ただ線の続く方を追えばよいのではないと分かった。
戻る流れを分けて見なければ、同じ所を、何度でも入口だと思い直してしまう。
リオは糸を外した。二つの端が、どちらも手元へ戻ったことを確かめてから、紙へ目を移した。
壁へ残した物はない。試験前にあった明滅が、同じ所へ戻る。
担当が鏡を下げた。
「終わりでいいか」
「はい。ありがとうございました」
答えたあとで、リオは自分の肩に力が入っていたことに気づいた。
エルナが、水の入った杯を差し出す。左手の届く所で、彼へ渡せるように持っていた。
「先に、飲んで。今の説明、帰り道の分まで使ってる」
リオは受け取り、小さく笑った。
「まだ、話したいです」
「知ってる。だから、飲んで」
*
蓋が戻る前に、エルナが担当へ尋ねた。
「奥へ行く時、この辺を踏む道は使える?」
「蓋の上は駄目だ。通るなら、こっちの石段。前に見た通路へ続く」
男は紙の別の場所へ指を置いた。
彼女はその道を、自分の方の図へ写す。呪いの線ではなく、杖を置ける所と、曲がり角の幅を描いた。
リオは、その隣へ、自分が見た結び目の位置を足した。
同じ地図の中で、二人の線が初めて並んだ。
「これなら、次に見る場所へ、私が先に立てる」
エルナが言った。
「腕の治る順番を、待ってからではなくて」
彼は彼女を見た。
「はい。僕は、そちらを頼みたいです」
「じゃあ、今日は、道だけ持って帰る」
彼女は紙を畳み、杖を取った。
担当が留めを締める音を、二人は少し離れて聞いた。
古い継ぎは、蓋の向こうへ戻った。見えなくなっても、今日の図には、進む線と戻る線の結び目が残っている。
リオは最後に、試験糸の数を数えて鞄へしまった。
エルナの右腕は、今日も治っていない。
それなのに、塔の奥へ行く道は、昨日より一つ、具体的になった。
*
帰り道、エルナは行きに避けた土の手前で止まった。
乾いて見えた表面が、誰かの足跡の下で崩れている。
「ほら。帰りにも、使うって言った所」
「覚えていました。今度は、足の方で」
リオが答えると、彼女は笑った。
塔の流れは、壁の裏を回って戻っていた。二人は、同じ道を歩いて戻っている。
それを同じ仕組みのように説明する必要はない。ただ、戻る所があると、見つけた物を、一度、手放して帰って来られる。
部屋へ戻り、リオは最初に、昨日の腕の図を出した。
塔の新しい図を、その上へ重ねず、横へ置く。
「似てる?」
エルナが訊いた。
「折返す所は。ただ、腕にも同じ結び目があると、今日の塔だけでは決められません」
「じゃあ、ここは、まだ空ける」
彼女は二枚の間へ、指を一本置いた。
彼は頷く。
空いた隙間の下に、次に見る場所、と書き、今日持ち帰った石段を描いた。
いつか剣を握れるようになるために、明日も同じ柄へ触れ続けるのではない。
握れなくても、今の二人で近づける場所がある。
リオが顔を上げると、エルナは既に、次の道の曲がり角へ、小さな左足の印を描いていた。




