触れる前から、そこにある
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
封筒を差し出すと、窓口の女は、リオの顔ではなく宛名を見た。
「塔の保全担当へ、お取り次ぎですね」
「はい。下端の記録を閲覧できるか、お聞きしたくて」
灰色の袖を肘で留めた女は、紙を預かる前に、横の籠を指した。薬包の籠とは別に、封書だけを集めた浅い箱がある。
「こちらは午後の便です。今日、お返事が来るとは限りません」
「分かりました。返事はこちらで受け取れますか」
「お名前をお願いします。受け取る方が違う時は、その方のお名前も」
リオは自分の名を書き、隣にエルナの名を添えた。女は二人へ紙を向け、読み違いがないかを確かめる。
エルナは左手で杖を持ち直し、頷いた。
「これで合ってる。私が来ても、同じ手紙を受け取れるんだね」
「はい。届いていれば、お渡しします」
女は封筒を箱へ入れた。奥へ運ぶために立つと、別の用紙を抱えた者へ短く声を掛ける。二人だけの頼みで、その午後の仕事が止まることはなかった。
建物を出ると、日差しが石の継ぎ目を白くしていた。
エルナは一段低い敷石へ左足を置き、杖の先を確かめてから下りる。リオは、隣で歩幅を緩めた。
「出したら、少し軽くなった顔」
彼女に言われ、リオは空になった鞄の口を見た。
「紙一枚しか減っていませんけど」
「頭の中に、何枚もあったんじゃない」
彼は笑った。昨夜から、返事に何が書いてあるかまで考え、まだ渡してもいない手紙を何度も開いていた。
「エルナさんが受け取る時、先に開けてかまいません」
「あんたがいない所で?」
「はい。僕が戻るまで待たなくていいように」
彼女はすぐには返事をせず、窓の多い通りを見た。
「読めない術の名前があったら、そこは後で聞く」
「その時は、一緒に読みます」
「うん。じゃあ、私の鞄にも場所を空けとく」
封書の返事は、まだ来ていない。それでも、二人で待つための置場が、リオの机の上以外にも一つできた。
*
翌朝、エルナは剣の包みを解かずに机へ置いた。
リオは昨日の記録を出したが、その紙の上へ新しい試験の見出しを書かなかった。
台の上で、三呼吸だけ柄を握り、自分の合図で指を開く。昨日できたことは、昨日の紙にある。
今日も同じことをすれば、何が分かるのか。
彼が言葉を選んでいる間に、エルナが椅子を引いた。
「今日は、握らない方を見てほしい」
リオは顔を上げた。
「右腕の、普段の状態ですか」
「剣に近づく前。昨日、朝は平気だったのに、机へ向かった時から、ここが気になった」
彼女は右手首を、左指で軽く囲んだ。
「痛かった?」
訊きかけたリオは、途中で敬語へ言い直そうとして口を閉じた。エルナは首を振る。
「痛い、ではなかった。だから、昨日は書く所がないと思った」
「今、教えてもらった言葉のまま、残していいですか」
「いいよ。昨日のことは、昨日のこと。今朝も同じかは、知らない」
リオは新しい紙を手前へ引いた。
剣を持てるか、離せるか。そこへ目を向けるあまり、剣へ手を伸ばす前を、何も起きていない時間として扱っていた。
彼は、柄に触れる前、と書いた。
窓を一つ開けた。通りでは荷車の車輪が鳴り、遠くで焼くパンの匂いがした。
エルナが椅子をずらし、自分の描いた部屋の図を開く。
「昨日と、椅子を同じ所にする?」
「最初は、今、座りやすい場所でお願いします。僕が図へ書きます」
「こっち。机を向くと、右肩を引きたくなる」
彼女は少し斜めに座った。リオは、その向きを自分の都合で直さず、彼女の右側へ回る。
包んだ剣は机の奥。彼女が触らずにいても、鞘から柄までが視界へ入る位置だった。
「剣は、そこから動かします。ただ、動かしたあと、すぐ手を伸ばしてもらうことはありません」
「うん。途中で終わり、は今日も同じ?」
「同じです。今から掛ける術も、ありません。まず、見るだけにしたい」
エルナは右の掌を布へ載せた。
袖を少し上げ、彼へ目を向ける。リオはその返事を受けて、腕の外へ残る線を探した。
*
線は、静かではなかった。
昨日の図で折れて見えた所に、細い明滅がある。いつも見えていたはずなのに、握った時の大きな張りと比べれば見落としてしまいそうな、弱い動きだった。
リオは息を止めそうになり、鼻からゆっくり吐いた。
「見えました。まだ、触りません」
「私は、今は何も感じない」
エルナが言った。
「はい。そこも別に書きます」
彼は一度目を離し、紙へ小さな点を置いた。点の横には、見ていた側と、彼女の袖を開いた時刻を添える。次に自分が読み返す時、絵の形だけから、今朝とは違う姿勢の腕を思い浮かべないようにした。
見えることが、そのまま本人の感じることではない。昨日、怖くなった時を、線の張りへ重ねかけたのと、向きの違う間違いをしそうだった。
「今、剣の包みを、机のこちらへ動かします」
リオは包みの端を持った。
「ああ、待って。布が、私の図に乗ってる」
彼は手を止めた。エルナが左手で紙を引き、鞄へ戻すまで待つ。
紙の端が布へ引かれかけていた。術式を見るための準備で、その人の描いた物を折り曲げるところだった。
「もう、いい」
声を聞いてから、彼は剣を机の手前へ移した。
エルナの右指は、布へ載ったまま動いていない。
線の明滅が、一つ、遅れたように見えた。
リオは剣を見る。それから、腕を見る。
「何か、変わった?」
「変わったように見えました。ただ、僕が向きを変えた時でもあります。剣の位置だけが理由だとは、まだ」
「じゃあ、私はこのまま。あんたの椅子を、さっきの所へ戻して」
彼は頷いた。
自分の目の場所を戻すと、明滅はまた見えた。前より強いとまでは言えない。だが、柄へ指が掛かる前にも、腕の中の細い経路が動いていることは、確かめ直せた。
昨日、分かれたと思った線は、単に二つの線として並んでいるわけでもなさそうだった。
リオは、剣の近い方へ手を伸ばしかけた。
「何する?」
エルナの声で、止まった。
「鞘の上から、経路を受けてみようとしました」
「それ、見るだけの続き?」
彼は手を戻した。
「違います。いま、決めていない方へ進みました」
「見つけた時の、その顔は分かるようになった」
怒鳴る声ではなかった。それが、いっそう彼を恥ずかしくした。
見たいと思った所に、そのまま自分の手を伸ばせるのは、道具の試し方だ。ここには、昨日の二呼吸目を覚えている人が座っている。
「少し、紙に戻らせてください」
リオが頼むと、エルナは右袖を戻した。
「私も、水を飲む。次をするかは、飲んでから」
彼は椅子を引いた。剣の包みを片付ける前に、彼女へどこに置くかを尋ねた。
「今日は、寝台からも離れた所。机の奥でいい」
言われた場所へ置くと、エルナは自分で立ち、左手で杯を取った。
昨日、柄を離した右手は、今朝の杯を持つ手にはなっていない。
そのことを、彼女が失った成果のように数えずにいられるか。リオには、術式とは別に、自分の見方を戻す仕事があった。
*
紙の上には、二つの腕の図ができた。
左は、包みが机の奥にあった時。右は、机の手前へ動かした時。
リオは明滅を同じ太さで描いた。大きくなったと思い込まないためだ。その代わり、剣を動かした時に間が違って見えた、と脇へ言葉を置く。
昨日までの図には、指が柄へ閉じる所から先しかない。
今日の図を、その前へ並べた。
剣に触れることで、初めて始まる呪い。
自分は、いつのまにかそういう形で考えていたらしい。目立つ症状が現れる所と、その術が始まる所を、同じ場所へ置いてしまっていた。
「ここ、空いてる」
エルナが杯を置き、紙を指した。
彼が剣の絵と腕の絵の間へ残した余白だ。
「はい。間がどう繋がっているか、まだ分からなくて」
「分からない所に、昨日の線を伸ばさなくてよかった」
リオは紙を見た。
怖かった時刻と術式の動き。手に触れた時と、その前。別々に残した隙間が、描き忘れではなく、次に調べる場所になっている。
「今日は、もう一つ、見たい所があります」
彼は先に言葉へした。
「右腕を動かさず、剣の方だけ、包んだまま離した時です。ただ、同じような違いが見えても、距離が原因だと決めません。僕の見る位置も、部屋の物も変わるので」
「私は、何をすればいい?」
「楽な所へ座っていてください。袖を開く時と閉じる時は、エルナさんが決めて」
彼女は椅子を見た。それから、机を離れた壁際を見た。
「ここで。窓が見える方がいい」
リオはその前へ、自分の椅子を運んだ。
*
包んだ剣を、離れた棚へ移す。
エルナが剣へ手を伸ばす場面は、一度もなかった。
袖の端から覗く経路を、リオは先ほどと同じ側から見た。遠くなった剣を同時に見ようとして、自分の首を回さないようにする。
明滅は、消えなかった。
彼は、少しだけ奥歯を噛んだ。
離せば弱くなるなら、調べ方は分かりやすかった。剣を封じることにも、別の意味が見つかるかもしれない。都合のよい答えが、そこへ来なかった。
「外れ?」
エルナが尋ねた。
「消えません。少なくとも、僕が今、見える所は」
「なら、消えない方が分かったんだね」
リオは頷きかけ、彼女を見る。
「がっかりしています。剣を遠くへ置くだけで楽になるなら、と考えました」
「私も、それなら助かる。でも、今、楽になったって言うと、あんたは、それで考えるでしょ」
彼は、はい、と答えた。
「だから、今は、変わらない。剣を握ってないから、昨日の時みたいな怖さも来てない」
エルナは一つずつ言い、袖を戻した。
「ここまで」
「はい。終わります」
リオはすぐに椅子を下げた。
外の支持も、身体へ掛ける術も、今日は使わなかった。剣を離しても消えず、柄へ触れる前から動いていた線。少なくとも二つの観察が、腕の中へ残るものを、剣だけの働きとして片付けることを止めてくれた。
ただ、どう外すかは、まだ分からない。
剣を棚から戻すと、エルナが布の端を持った。
「そこ、もう一回結び直す。片方、お願い」
彼は布を押さえた。
昨日より指が開くようになったかを試していない朝にも、手伝ってほしい場所を彼女が言ってくれる。
その頼みを、成功しなかった日の慰めへ変えたくなかった。
「今日の図、二枚とも、私の方にも欲しい」
「写します。どの部分を?」
「剣を遠くへ置いても、袖の所が光ってた方。私には見えなかったから」
彼は頷いた。
「消えなかった、と、大きく書いてくれる?」
「はい」
「その下は、リオにはこう見えた、も」
彼は少し笑った。
「そこが抜けると、僕の絵が本物みたいになりますね」
「前に、扉を反対へ描いた人だから」
エルナの口元も緩んだ。
*
昼前、リオは昨日の問い合わせ状の控えを出した。
新しい発見を追って、追加の手紙をすぐ送ろうとはしなかった。窓口へ預けた一枚は、塔のどこを見られるかを尋ねる物だ。今朝の腕の観察まで相手へ背負わせる紙ではない。
代わりに、自分の調査帳へ一行を加える。
供給される道だけでなく、受けたものが身体側に残る仕組みも調べる。
それは結論ではなく、今まで調べる場所から落としていた問いだった。
「返事が来たら、塔を見る目も変わります」
彼が言うと、エルナは畳んだ図を鞄へ入れた。
「腕の続きを、塔の中へ探すのは、同じ?」
「同じです。ただ、塔で見えたものを、そのままエルナさんの腕へ当てはめたくない。どちらから、何が来ているのか。今度は、そこを分けて見たい」
「なら、私は、戻る所を同じにしておく」
彼女は杖を取り、扉の前へ立った。
「次の調べ方が決まっても、今日の昼ご飯まで遅くしないで」
リオは帳面を閉じた。
「もう、行けます」
「その返事、さっきの紙より短くていい」
廊下へ出ると、パンを焼く匂いは朝より濃くなっていた。右腕が治る時刻は、まだどの紙にも書けない。
それでも、分からない所を見つけた二人が、分からないまま食事へ向かう道は、昨日よりはっきりしていた。




