三呼吸だけ、私の手で
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
剣を置く場所を決めたのは、エルナだった。
翌朝の食事を終えた部屋で、彼女は机の端を左手で撫でた。昨日、右腕を預けた布が、畳まれている。
「ここだと、柄が私に近すぎる。もう少し向こう」
リオは鞘ごと動かし、彼女を見る。
「この辺りですか」
「うん。先に、紙を見たい」
灰金の髪を結び直した彼女は椅子へ座った。右腕を見せる支度ではなく、昨日二人で描いた図を広げる支度だった。
リオは剣の隣へ手を伸ばしかけ、紙の束の方へ戻す。
もう一度、手を開けるようにしてほしい。
昨夜、眠る前に、彼女が自分から頼んだ言葉だ。前に補助を受けた時には、支えられた柄から指を開くことができた。それが次にはできなくなるのではないかと、確かめたい日と、確かめたくない日があるという。
今朝の希望は、その続きを、彼が勝手に長くする許しではなかった。
紙の上には、腕の内側から見た線と、外側から見た線がある。
リオは、古い図の一点へ自分の指を置いた。
「ここを、僕は一本の道だと思っていました」
「昨日、折れて見えた所?」
「はい。こちらからだと、その手前にも線が重なっています。前の補助で受けていたのは、両方ではなく、こっちだけだったかもしれません」
早くなった声を、自分で少し落とした。
エルナは頷かず、図を斜めにする。
「私には、線そのものは見えない。丸を変えてくれる?」
リオは、エルナが指した二つの丸を見比べ、古い図の丸を塗りつぶさなかった。昨日見えた方へ短い横線を足し、その横へ、腕の外側、と書く。
塔の設備を直せたから、腕も同じ手順で直る。そんな都合のよい橋は、紙の上にも架かっていない。
ただ、前に自分が何を支え、どこを見ずにいたかを、少し具体的に問い直せる。
エルナが、左手で自分の右袖を触った。
「それで、今日は何を変える?」
「腕の中へ掛ける術は増やしません。前に剣の鍔から外へ支えた経路を、こちらの角度から見直します。剣は机から持ち上げない。指を閉じて、三つ息をしたら、開く所まで」
「三つ数えるの、あんた?」
「いえ。エルナさんの息で」
「なら、私が、開くって言う」
彼女は剣を見た。そのあと、机から少し離れて立ち上がる。
「その前に、一回、窓を開けよう。朝から、ここだけ狭い」
リオも立った。
治療の話をしていると、机の周りだけが、その人の一日だと思い込みそうになる。窓の留めを外すと、下の通りで車輪が石を踏む音がした。
昨日見た青い花は、ここからは見えない。代わりに、向かいの軒で干された布が膨らんでいる。
エルナは風へ顔を向け、ゆっくり息を吐いた。
*
リオは机の布を広げ直した。
剣は鞘に収まったまま、柄の先まで台へ載せる。転がる場所をなくし、彼女の右肘を布で支えた。腕を伸ばして柄へ届かせるのではなく、椅子と剣の方を近づける。
彼女はその間、左手を膝へ置いていた。
「手、冷たい?」
訊かれ、リオは自分の指を見た。
「少し」
「じゃあ、先に温めて。触られる方まで、びっくりする」
彼は笑いかけ、頷いた。
緊張しているのを、患者に悟られない方がよいと思っていた。だが、冷たい指を平気な顔で差し出すことは、落ち着いていることとは違った。
掌を擦り、触れる前に、彼女へ見せた。
エルナは自分の左指で一度だけ確かめた。
「うん。今ので」
その声を待って、彼は右袖の留めへ手を添えた。
術式の線は、昨日見た位置にある。
見える角度を探すため、彼女の肩を捻ることはしない。リオが椅子をずらし、灯りを遮らない所へ膝を置いた。
古い図に従えば、ここで一つに束ねてしまう。
彼は、その手前で止まった。
細い線の一つは、腕の表へ続くように見える。もう一つは、そこへ重なって見えただけで、奥へ曲がっている。
曲がった先の全体は、まだ見えない。
「今、何をしてる?」
エルナの声が近くで来た。
「見る位置を決めています。まだ、掛けていません」
「分かった。黙って止まると、私には始まったのか分からない」
「すみません。ここから、外の支えを作ります」
彼女が頷いた。
リオは、前と同じく剣の鍔に残る経路を外へ受けた。身体の奥の線を切るのではない。剣へ戻ろうとする細い張りを、手元で支える。
昨日の図のおかげで、見ている所と、支える所を混同せずに済んだ。
それがどれほどの差を生むかは、これから彼女が決めた短い時間の中でしか分からない。
「閉じる」
エルナが言った。
右の指が、柄へゆっくり回った。
剣は動かない。鍔の下の布に、鞘の重さが残っている。
リオは彼女の顔へ目を上げた。
灰緑の目が、机の上の自分の手を見ていた。肩は上がっていない。左手の爪だけが、膝の布へ少し掛かる。
一つ目の息。
彼の見える線が、細く張った。
二つ目。
エルナの唇が、わずかに開いた。何か言うかと思ったが、彼は先に問いを差し挟まなかった。
三つ目の息が終わる。
「開く」
その言葉と一緒に、指が柄から離れた。
先に小指が開き、ほかの指も続いた。
机の上へ、右の掌が戻る。
リオは外の支持をほどき、剣へ手を添えたまま待った。
エルナは、もう一度握ろうとはしなかった。
「今、私が、離した」
彼女が言った。
強い声ではない。確かめるような、少し掠れた声だった。
「はい。見ていました」
「前も開いた。でも、今日は、開くって言ってから、開いた」
リオは頷いた。
彼にとっては、細い線の張りをどう受けたかが新しい。彼女にとっては、次の息まで待たずに、自分の言葉で終わらせられたことが新しかった。
同じ一回を、違う所から見ている。
「もう一回、見たい顔」
彼女がリオを見た。
彼は返事に詰まり、それから正直に頷いた。
「見たいです。でも、今日の約束は終わりました」
「うん。私も、もう一回できるか、知りたい。だから、今日はしまって」
彼は、剣を彼女の手から離れた方へ動かした。
成功したから続けられる、という順番へしない。その手を離したことで、今朝の一回を失敗へ変えたくなかった。
*
エルナは袖を戻し、左手で留めを閉じた。
リオは紙へ、三呼吸、と書く。その横へ、台上、挙上なし、自発開放一回、と短く足した。
持てた、とだけ書けば、次に読む自分まで、剣を持ち上げた姿を思い浮かべるかもしれない。
治った、と書く場所は、まだない。
「痛みは、増えていませんか」
「今は、ない。熱いのも、ない。少し、怖かった」
彼はペンを置き、彼女を見た。
「どの時ですか」
「二つ目。次を吸ったら、開かなくなる気がした」
リオは、二つ目の線の張りへ、丸を置きかけた。
怖かったことと、術式の動きが同じ瞬間だったかは、まだ確かめられない。彼は丸をやめ、彼女の言葉を別の欄へ残した。
「言おうか迷った。でも、言う前に三つ目だった」
「次に試すなら、途中の言葉も決めたいです。息を数えるのと、同じ役目にしないで」
「途中で終わり、でいい。長い名前は、出てこない」
彼女はそう言い、窓へ目を向けた。
リオは、その短い言葉を、次の用紙のいちばん上へ置いた。今日、使わずに済んだ言葉が、次も要らないとは限らない。
しばらく座ったあと、彼女は自分で立った。
右手を働かせるためでなく、昨日の紙を左手で包む。布の角が一つ折れ込み、リオがそこだけを押さえた。
「こういう時、手伝ってもらうのは、変わらないんだね」
彼女は包みを見た。
「はい。布を結ぶ方は、僕も片手では難しいです。ここだけ、持ちます」
「うん。先に全部、できる顔に戻さなくていいか」
リオは、はい、と答えた。
彼女が布を引くと、結び目ができた。
治療の前にもできたことだ。それでも、今朝の成功のあとへ並べた時、元へ戻った証拠のようには見えなかった。
*
部屋を出る前に、エルナが空の紙を一枚取った。
「昨日の続き、教えて。私が立った所を、間違えずに描く方」
リオは窓と扉を見た。彼女が見える物だけで部屋の図を作るなら、机の寸法を全部測る所から始めなくていい。
彼は扉を一つ、窓を二つ描き、紙を彼女へ向けた。
「ここへ、今の椅子を」
エルナは左手で線を引いた。最初の線は、窓の隣へ近づきすぎる。顔を上げ、椅子と窓の間にある鞄を見ると、自分で消し直した。
「見てる時は、こんなに離れてると思わなかった」
「僕も、塔の扉を反対へ置きました」
「先生の失敗、もう知ってる」
彼女が笑った。リオも笑い、紙を押さえる手だけを残す。
次に、彼女は剣のあった所を描いた。
リオから見れば机の右端だ。彼女の向きからは左にあった。二人は紙を回し、扉の位置を先に揃えた。
「ああ。私が言ってた、もっと向こうって、これ」
エルナの指が止まる。
リオは、朝、剣を動かした距離を思い出した。怖さの説明を尋ねる前に、机の上で変えられる位置があった。
「次の時、この図も使えますね」
「今日と同じ机なら。よその机は、また描く」
彼は頷いた。
自分がどこへ座りたいかを、彼女自身の図で残せた。術が見えなくてもできる仕事を、ただの補助として片付けなくて済む。
エルナは、曲がった椅子の線を直さなかった。扉と窓と向きが合っていれば、リオにも場所は分かる。
彼が紙の端を離すと、彼女は自分でそれを畳み、鞄へ入れた。
昼前、二人は部屋を出た。
廊下の手摺へ、エルナは左手を添えたままだった。右で試さないの、とリオは訊かなかった。
食事の席へ着くと、彼女はパンを左手で割る。
皮の硬い端が、思ったより大きく残った。
「これ、三呼吸じゃ、ちぎれない」
彼女が言い、リオは顔を上げた。
口元が、少し笑っていた。
「僕が、そちらを持ちます」
「そっちじゃなくて、こっち。大きい方、私が食べる」
彼は言われた方を持った。
二人で引くと、乾いた皮が小さく鳴った。彼女の皿へ大きい方が残り、リオの指にはパン屑が付く。
朝の手の話を、そのあとずっと続ける食卓にはならなかった。
昨日の馬車の青い花。塔へ行く時だけ通る畑。次に行くなら、戻りの窓を反対側へしてみたい、と彼女が言った。
彼は、図の余白へ花を描こうかと思い、やめた。塔の控えを渡す紙へ二人の道中まで全部詰める必要はない。
代わりに、自分の帳面の隅へ、小さく青と書いた。
部屋へ戻ると、エルナが先に椅子を引いた。
「今度の塔は、どこを見る?」
「下へ回った線の続きです。ただ、同じ通路から届くか、まだ分かりません。管理の方へ、裏の下端を見られる場所があるか、聞きたい」
「奥へ入る許可まで、一緒に頼む?」
「いえ。まず、どこまで保全の範囲なのか。そこから先なら、僕たちだけで決めません」
彼女は頷き、自分の位置の図を開いた。
塔の奥へ進む話が出ると、リオの目は細い術式へ向かう。エルナの指は、扉と段差をなぞった。
行ける所と、戻れる所。
どちらも描けなければ、新しい線を見つけたことだけでは、次の道にならない。
彼女は、前に灯りを置いた場所のそばへ、左手で小さな印を足した。
「ここなら、私は立てる。次に見る時も、最初の場所はここがいい」
リオは、その紙を、自分の図の下へ隠さず並べた。
依頼状には、今日の腕の成果を、許可を急がせる言葉として書かなかった。
覆いの裏の線を見たこと。下端の先を、通常の保全で見られるか尋ねたいこと。見られないなら、入れる範囲を先に知りたいこと。
書き終えると、エルナへ読んでもらった。
「これなら、私にも分かる」
「術の説明を、だいぶ減らしました」
「あの人へ、今朝の私の腕まで、預けなくていい」
彼は頷き、封をした。
右腕を取り戻すための仕事は、まだ長い。だが、彼女の望みまで、資料と一緒に人へ回してしまう必要はなかった。
エルナは、剣を包んだ場所へ一度だけ目を向けた。
「三つで、足りた」
リオは、何に、と聞き返さなかった。
自分で閉じ、自分で離し、そこで終える。
今朝の三呼吸が、彼女の一日を全部使わずに済んだことを、彼もようやく嬉しいと思えた。




