剣を握らずに、見つけた継ぎ目
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
返ってきた図の端に、リオの描いていない黒い丸があった。
塔の管理担当へ送ってから二日後の朝だ。丸の中には、壁だと思っていた細い隙間がある。
『覆いの継ぎ。見に来るなら、明日の保全時』
その下に、入れる時刻と、通れる場所が記されていた。
リオは文字を追い、食卓へ身を乗り出した。椀の湯気が鼻へ当たり、ようやく匙を持ったままだったことを思い出す。
「今、立ったら、私がそのパンを食べる」
向かいのエルナが言った。
「まだ立っていません」
「椅子が、半分立ってる」
彼は座り直した。灰金の髪を左手で耳へ掛けた彼女は、返送された紙を自分の側から見た。
右袖は膝の上にある。塔で音が止まっても、その腕は元には戻っていない。
「これ、明日まで待てる話?」
「待てます。待たないと、覆いを開ける仕事がありません」
「なら、今日のうちに行った顔をしないで。私の聞いた場所も、まだ描いてない」
リオは頷き、匙を口へ運んだ。豆の皮が思ったより熱い。
明日に用事ができた途端、今日を薄く使おうとしていた。
食後、エルナが紙へ描いたのは、音の線ではなく、足の置場だった。
扉の脇。段差の手前。灯りを置いて一度離れた所。
左手の字は曲がり、線も真っ直ぐではない。リオが定規へ手を伸ばすと、彼女は指を紙へ置いた。
「そこ、まだ伸ばさないで。こっちの壁が、私には見えてなかった」
「見えた所までですね」
「うん。音がこっちからした気がするのと、壁を見たのは、同じじゃない」
リオは定規を戻した。
彼の図には、顔を近づけて見た板の形がある。彼女の紙には、その板を見ずに聞いていた場所がある。
二枚を並べると、音が壁の中へ続いていたという印象と、機械の位置が、ぴたりとは重ならなかった。
間違いを消す図ではなく、明日そこへ立つための図になった。
「行く?」
エルナが訊いた。
「僕は、行きたいです」
「私も。今度は、最初からあっちの扉まで歩く。嫌になったら、そこで帰る」
彼は、帰る道を紙の端へ書いた。
これまでの彼なら、帰る条件を先に言われたことへ、少し落胆したかもしれない。今は彼女の足が明日へ向いたことの方が、強く胸へ残った。
*
翌日、塔へ向かう馬車の窓は乾いていた。
畑の境へ、小さな青い花が並んでいる。エルナはその名を知らないと言い、リオも知らないと答えた。
「二人とも知らない物、結構あるね」
「仕事に関係ないと、つい、見ないままです」
「青い、くらいは覚えて帰ろう」
彼女は窓へ顔を向けた。杖の柄を握る左手が、揺れに合わせて少し動く。
リオは鞄を開かなかった。
塔へ着けば図は広げられる。今、隣にいる人と見る花は、ここを過ぎれば見えなくなる。
通路の入口には、灰色の帆布の上衣を着た管理担当がいた。
革袋から短い鏡を取り出し、二人を見る。
「その丸、分かったか」
「僕が壁と描いた所は、覆いの継ぎ目でした」
「そう。線だけじゃ、分からん。今日は外す。見るなら、荷を置いてから」
彼は鏡を袋へ戻し、荷を置ける台を示した。
歓迎のために、塔の仕事を全部空けた人ではない。先に済ませる点検があり、二人はその横で待った。
エルナは前に灯りを置いた場所を見た。今日は何も鳴っていない。
鳴らないなら平気だ、とリオは思いかけた。
彼女の左指が杖へ強く掛かるのを見て、その言葉を飲み込む。
「前より、静かですね」
「うん。静かだと、今度は自分の足が聞こえる」
「戻りますか」
「まだ。足が聞こえるくらいなら、歩いてるから」
彼女は一歩だけ進んだ。リオも、同じ一歩へ追いついた。
*
外された覆いの裏には、細い溝が二本あった。
表から見れば、どちらも板を留める同じ金具へ続いている。だが、裏では一本が短く終わり、もう一本が下へ回っていた。
管理担当が鏡を傾ける。
「ここ、触るな。縁が立ってる」
リオは伸ばしかけた指を引いた。
鏡の中で、溝の端へ光が当たった。その少し外側に、別の光がある。
いつも目へ見える物とは違う、淡い、引かれるような線だった。
「鏡を、そのままにしていただけますか」
言葉が速くなった。
管理担当は鏡を止めたが、エルナの目はリオの手へ向いていた。
「リオ。今、どれを見てる?」
「溝の外です。術式の線が、下を通っているように見えます」
「まだ、そう見えるって所まで?」
彼は息を吐いた。
「はい。まだ、一本の続きかどうかは分かりません」
エルナが頷く。彼を正しい答えへ戻す係ではない。これから自分の身体へ関わるかもしれない物を、本人として聞いている。
リオは紙へ、まず溝だけを描いた。
管理担当に見てもらうと、端の折れが一つ足りないという。直し、鏡の向きも確かめる。
そのあとで、別の紙へ、自分に見えた線を置いた。
上から一度で写すことはできなかった。覆いの陰へ入ると細い線が途切れ、身体を横へ動かすと、溝ではなく留め具の裏に隠れていた続きが見える。
リオの膝が、石の床へ冷たく触れた。
彼はそれまで、張りが弱まった線の先を、正面の板の中だけで探していた。
板の裏へ回った先が、まだあった。
「ここ、前に直した時、外しましたか」
「外してない。あの日は、戻らん金具を戻しただけだ。今日の点検とは別」
管理担当の返事を、リオは紙へ写した。
知らなかった場所を見つけた嬉しさが、頬の内側へ熱く溜まる。以前から見られるはずだった場所を見落としていた悔しさも、そのすぐ隣にあった。
「こっちへ、来てもいい?」
エルナが扉から尋ねた。
リオは立ち、床の段差と、外した覆いの置場を見た。管理担当が通路を指す。
「この線の内側。裏を見るなら、俺の手が止まってから」
彼女はそこまで歩いて来た。
鏡を覗くために右腕を伸ばすことはしない。左手に杖を持ったまま、身体の向きを変え、膝を少しだけ折った。
「この細い溝は、見える。リオの言う線は、私には見えない」
「はい。別の紙にします」
「私が聞いてた所は、この裏じゃない。もう少し外」
彼女は自分の図を開き、足の印を指した。
壁を叩いて音を再現しようとはしなかった。今、止まっている物を、彼女の記憶を証明するために鳴らす必要はない。
リオは彼女の立った場所へ移り、板を見た。
そこからは、今まで術式が集まると思っていた面が、ほとんど見えない。
代わりに、下へ回る線の端が、留め具の隙間に一瞬、浮かんだ。
彼は目を細めた。板から遠ざかったのに、見えなくなった部分の続きが見えた。
エルナがリオの袖を左指でつまんだ。
「今、止まったね」
「え?」
「足。さっきまで、ずっと前へ行きたそうだった」
彼は自分の靴を見た。
彼女が怖がって立った所を、早く通り過ぎる場所へしていた。仕事をするなら、その先だと思っていた。
ここにも、見る場所があった。
「ここから、もう一枚、描きます」
「うん。私は、そこに立った時の図を持ってる」
描いている途中で、リオはもう一つ、見つけた。
下へ回った線のそばに、小さな穴がある。紙へ丸を置こうとした時、管理担当が首を振った。
「その丸、古い跡と、今日外した所は分けてくれ」
彼は袋から、外した短い留め具を出した。先の平らな物と、尖った物。二つは別の布へ置いてある。
「戻す所を、違えないように。こっちの跡は古い。今日、俺が外したのはこっち」
リオは、自分が同じ丸で描こうとした二箇所を見た。
古い跡なら全部、過去の事件の手掛かりになると思いかけていた。だが、ただ昔ここを開けた人の仕事かもしれない。新しく開けた方を過去の痕へ混ぜれば、次の調査は、自分たちが今日作った跡を追うことになる。
「今日の方、違う印にします」
「俺の点検控えにもある。日を聞きたいなら、それと見ろ」
男は二つの留め具をまた別々に包んだ。
エルナが、彼の指先を見ていた。
「一緒にしないんだね。外した物」
「一緒の袋へ入るが、戻す所は別だ。なくすと、俺が困る」
返事があまりに普通で、彼女は短く笑った。
リオの目には、今度は溝の線だけではなく、目の前の人が次に蓋を閉める手も見えていた。塔で何かを見つけることと、今日ここを使える場所へ戻すことは、同じ仕事ではない。どちらかだけで、もう片方を済ませた顔にはなれなかった。
二人は同じ紙へ無理に顔を寄せず、それぞれの見えた所を描いた。
管理担当はその間に、外した覆いの留め具を掃除していた。
職人の布が石粉を拭う音が、止まった壁の前へ小さく続いた。
*
点検が終わると、覆いは元へ戻された。
管理担当は、閉じる前と後で、リオに図を見せるよう言った。
「次、誰かが外すなら、どこを見たか要る。俺に見える方だけでいい」
リオは溝の紙を渡した。
術式の線は、自分の手元へ残す。担当が見ていない物を、彼の確認印で確かな事実へ変えることはしなかった。
「裏を見られたら、腕も直るのか」
帰り支度をする二人へ、管理担当が訊いた。
エルナの顔が、一度だけリオへ向いた。
「まだ、そこへは届きません」
リオは答えた。
「でも、僕が正面だけで終わりだと思っていた図は、今日、変わりました。腕の術式も、裏側まで見て、今までの図を確かめ直します」
「なら、その続きは、そっちの仕事だな」
男は頷き、鏡を革袋へしまった。
万能な協力を約束してくれたのではない。それでも、次の図を持って来る相手は、もう、ただの名前ではなかった。
塔を出る時、エルナは扉の外で立ち止まった。
風が灰金の髪を揺らす。左手の指が、杖の柄から一度離れ、握り直された。
「行く意味、あった」
彼女は言った。
「僕も、見つけられました」
「私が、って話」
リオは顔を上げた。
エルナは少し笑っていた。
「怖かった所へ行って、怖くない顔を作るだけじゃなかった。私の立った場所を、あんたが使った」
彼は返事を急がなかった。
「はい。あそこからでなければ、描けない線がありました」
「それ、帰ったら、私にも描き方を教えて。見える線じゃなくて、場所を間違えない方」
「教えるほど上手くありません。扉を反対に描いたので」
「だから、今度は二人で」
彼女が歩き出し、リオは笑って隣へ並んだ。
*
宿へ戻った夕方、二人は食事を済ませてから、腕の観察の話をした。
剣を握らない。重さを掛けない。痛みを起こして線を光らせようとしない。
リオが頼んだのは、右袖の布を、本人が望む所まで緩めることだった。
エルナは左手で留めを外した。腕は机の柔らかい布へ預け、顔をリオへ向ける。
「止めたい時は、止める」
「はい。今日は、触れずに見ます」
彼は少し離れた椅子へ座った。
いつもの位置では、線が腕の内側へ集まるように見える。エルナが身体を捻らないよう、今度は彼の椅子を動かした。
灯りも、腕も、変えない。
腕の外側から見た時、一本の細い線が、布の影へ落ちる手前で、折れて見えた。
塔の裏の溝と同じ形ではなかった。同じ色でも、同じ働きとも分からない。
それでも、前の図で一本に結んでいた部分は、そのままには描けない。
リオは、前の線を消さず、今日の角度を隣へ描いた。
「今、何かされた感じは、ない」
エルナが言った。
「僕も、術は掛けていません。見た位置を変えました」
「じゃあ、それで、今日は終わり」
彼は頷き、ペンを置いた。
袖を戻したエルナは、椅子から立って窓へ行った。
右手を試しに握らせるような続きを、リオは求めなかった。
机には、塔の表と裏、彼女が立った場所、腕を見た二つの角度が並んでいる。
治ったという紙は、一枚もない。
だが、次の治療を考えるための見取図は、もう昨日と同じではなかった。
「花、覚えてる?」
窓の所から彼女が訊いた。
「青い花です」
「うん。名前は、まだ知らない」
リオは笑い、塔の図を重ねずに包んだ。
分からない物が減った日にも、新しく、知りたい物が増える。
それを全部、明日の朝までに埋めなくても、隣の人と帰って来た今日が、薄くなるわけではなかった。




