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帰ってきた話を、今のあなたへ

【前回までの人物】

・リオ:ソルヴィアで独立を目指す解呪師。エルナと塔の設備を調べた。

・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。左手と足運びを使い、自分の距離を選んで調査に加わる。

・オルフェン:塔の部隊を離れ、今は革を切る仕事をしている元兵。

 帰りの馬車で、エルナは一度も図を開かなかった。

 窓の外の畑を見て、揺れが強くなる前に左足の置場を変える。灰金色の髪の端に、塔の白い粉が残っていた。

 リオの鞄には、作業の前と後を描いた二枚が入っている。取り出して比べたい。一本だけ緩んで見えた術式を、記憶が鮮明なうちに説明したい。

 彼が留め金へ触れると、隣から声がした。

「今、出したら酔うよ」

「僕がですか」

「紙を持ってる方が。私は見ない」

 彼女は外を向いたまま言った。

 リオは金具から手を離した。窓の狭い空が傾き、また戻る。彼女の言うとおり、細い線を追うには向いていなかった。

「戻ったら、先に食事でしたね」

「そこまで覚えてたなら、忘れた顔しない」

 ようやくこちらを見た口元が、少しだけ笑っていた。


 町へ着いた時には、通りの店が灯りを出していた。

 宿の食卓へ座ってからも、エルナの右袖は膝の上に置かれたままだった。塔の音が止まったからといって、指が自由になったのではない。

 リオは先に椀を彼女の左へ置いた。いつもの動作のあとで、湯気の中の自分の手が、まだ少し震えていることに気づく。

「怖かった?」

 彼女が尋ねた。

「金具が動いた時は。僕には、どこが一緒に動くか分からなかったので」

「私は、動く前がいちばん嫌だった」

 エルナは匙を取り、汁をすくった。

「鳴ったら、あの場所へ戻る気がしてた。けど、一つ鳴った。で、私は扉の所にいた」

 リオは頷いた。

 怖がらずに済んだ、とまとめるより、彼女の言葉のまま覚えていたかった。

「僕はあの時、箱ばかり見ていました」

「見に行ってって頼んだから。見てないと、そっちで困る」

「はい」

「全部を一人で覚えて帰らなくていいんだな。今日、私も思った」

 匙の縁が椀に触れ、小さく鳴った。

 エルナはその音を避けなかった。リオも、確かめるためにもう一度鳴らそうとはしなかった。


     *


 食事を終え、机を空けてから、二枚の図を並べた。

 灯りの位置を一つにすると、塔の水で端が波打っていた。リオは重ねる前に、濡れた方へ印を付けた。紙が縮んだ分まで、術式の違いへ数えてしまいたくなかった。

「こっちが、作業前」

 エルナが左手の指で、紙ではなく机の脇を示す。

「はい。台の下で線が張っていました。作業後には、この一本の見え方が変わった」

「消えたんじゃない」

「薄く見えた、までです」

 リオは自分の記録へ、そのまま書き足した。

 声へ出すと、胸に残っていた成功が少し小さくなる気がした。それでも小さく正しく持って帰る方が、あとで彼女の腕を預かる時に役立つ。

 エルナは別の図を引き寄せた。今日、管理担当が見つけた古い溝だ。

「これを作った人も、戻りが悪いと思ったのかな」

「まだ、分かりません。部品を留めるための傷かもしれません」

「じゃあ、次に聞くことが一つある」

 彼女は椅子の背にもたれた。

「私、オルフェンに会いたい。音が止まったって言いに行く。でも、これの答えを取りに行く顔にはしたくない」

 彼がどこでどう働いているかは、前の面会で聞いた。左耳の欠けた元兵は、今、革を切る仕事をしている。過去の部隊の生き残りとしてだけ呼び戻されたい人ではなかった。

 リオは紙を畳んだ。

「何時なら会えるか、前と同じ連絡先へ尋ねましょう」

「返事が来るまで、行かない」

「はい。今日は、眠れそうですか」

「眠る前にその図をもう一回広げられたら、分からない」

 彼女が顎で鞄を示す。

 リオは二枚を別の紙に包み、留めた。明日の自分が区別できるよう、外へも作業前と作業後を書いた。


 申し入れの返事が届いたのは翌日だった。

 さらにその翌日の午後、仕事場の外で十分なら会えるという。用件へ添えたのは、塔で見たことを話したい、という一行だけだ。

 待つ間に、リオは記録を清書した。分からない傷を埋めず、現地担当の説明と、自分が術式を見た時刻を分ける。

 エルナは右腕を再び試さなかった。歩く時の杖を確かめ、着替えの紐を左手で結び直す。塔へ行った日を一日挟んでも、日常の困り事は彼女の身体の近くに残っている。

 リオが結び目を手伝おうかと訊くと、彼女は少し待ってと答えた。

 紐が穴を抜ける。途中で一度外れ、彼は目を逸らしかけた。

「見てていい。失敗した所まで、隠すのも疲れる」

 エルナの声は、怒ってはいなかった。

 リオは椅子へ腰を下ろし、彼女がもう一度紐を通すのを待った。

 結べた時、彼女は得意そうな顔をせず、ただ次の支度へ進んだ。

 それも、今、彼女が自分でできる仕事だった。


     *


 約束の場所は、革の仕事場の入口から少し離れた、雨除けの下だった。

 樋の先に、昨日の雨が一滴ずつ残っている。革を乾かす匂いは戸口に濃く、ここまで来ると、通りを抜ける風に薄まった。

 オルフェンは先に来ていた。

 左耳の欠けた側へ、エルナは立たなかった。前に頼まれたとおり、二人とも彼の右から顔を見せる。

「十分で、足ります?」

 先に訊いた彼の手には、小さな革の包みがあった。

「足りる。今日は、こっちが話したくて来た」

 エルナが答えると、彼は目を細めた。

「俺も、一つあります。じゃあ、半分ずつか」

「先に長くなった方が、次へ回す」

 彼女の返事に、オルフェンが短く笑った。

 隊の報告を始める声ではなかった。


 エルナは、塔へ戻ったことから話した。

 西の扉を開けたこと。点検の足跡と、箱と、震える板があったこと。中には、人がいなかったこと。

 最後の一つを言う時だけ、声が小さくなった。

「壁の音は、止まった。金具が戻らなくて、台へ触ってた。担当の人が、そこを直した」

 オルフェンは包みを持つ手を動かさなかった。

「誰かが叩いてたんじゃ、なかった」

「調べた時、あの部屋には、いなかった。昔の全部は、まだ分からない」

 エルナの左手が膝の布を押さえた。

「でも、あんたが聞いた音はあった。私も聞いた。分からないからって、聞かなかったことには、しない」

 リオは一度、鞄へ目を落とした。

 詳しい図を出せば、伝わるものが増えると思っていた。だが、今、彼の手がそこへ行けば、彼女がようやく自分で渡した言葉を、専門の説明で覆ってしまう。

 オルフェンはゆっくり息を吐いた。

「止まったんですね」

「うん」

「俺、今日から眠れるって言わないですよ。ここじゃ、別の音もするし」

 彼が仕事場の戸を顎で示した。奥で何かを打つ、規則正しい音がした。

「でも、あそこへ誰かを置いたままって話だけ、ずっと持ってるのは、少し、違ってくる」

 エルナは頷いた。

 許された顔でも、救った顔でもなかった。相手の返事を、初めて今の場所で聞いた顔だった。


 リオはオルフェンへ顔を向けた。

「図も持ってきました。見たい所があれば、出します」

「今日は、そこに何があったか、聞けたからいいです。後で見たい時は、頼める?」

「はい。説明する時間も、先に決めて」

「それなら」

 彼はようやく革の包みを開いた。

 中から出てきたのは、同じ形へ切った革の細片だった。片方だけ、角が丸い。

「こっちは、俺が間違えた方」

 オルフェンは丸い角を持ち上げた。

「角を残す仕事だったのに、前に作ったのと同じに切っちまった。手は覚えてるんです。何を作ってるかより、先に」

 エルナが顔を寄せた。

「使えない?」

「この注文には。でも、小さい方を取る時に使える。捨てるなって教わった」

「じゃあ、今日は、教わった話か」

「そう。俺、まだ下っ端だから」

 彼は笑った。

 隊へ戻れなかった男の、その後を聞きに来たつもりだったのかもしれない。けれど目の前にいるのは、今日の注文で間違えて、次の用途を教わった人だった。

 エルナはその革へ触れなかった。

「私の左手も、まだ、右と同じ所でつかもうとする」

「両方、同じにした方が楽なんですけどね」

「楽には、なってない」

 彼女が答えると、今度の笑いは二人から同時に出た。


     *


 雨除けの影が、道の石の継ぎ目へ届いた。

 オルフェンは革を包み始めた。リオも、まだ約束の十分の中にいるかを確かめる。

「昔の金具のことを、一つだけ訊いていいですか」

 先に声を掛けると、彼は頷いた。

「答えられる分なら」

「外す時に、同じ形でも違う位置へ戻すものは、ありましたか。名前でなく、見た範囲で」

 オルフェンは戸口を見たあと、少し考えた。

「装具の革帯なら。右と左で長さが違った。金具は同じでも、留める穴が違う。塔の設備へ俺が触ったわけじゃ、ないです」

「ありがとうございます。設備の証言にはしません」

 リオは答え、頭の中の図を一度離した。

 似た板があったから、同じ物だと思いかけた。溝があったから、修理の跡だと思いかけた。人の使っていた道具でさえ、同じ形が同じ働きをするとは限らない。

 次に必要なのは、傷の形だけを集めることではない。どの位置へ、何の向きで戻る金具だったのかを、現物と用途簿の両方で確かめることだった。


「エルナさん」

 包みを閉じたオルフェンが、彼女を呼んだ。

「次、また来るなら、塔の話がない時でも」

 エルナはすぐに頷けなかった。

 リオには、彼女が謝る言葉を探したように見えた。だが、唇から出たのは別の問いだった。

「今日の切り間違いが、別の何になったか聞いてもいい?」

「失敗した分が、全部いい物になったら話す、じゃなくても?」

「うん。ならなかったら、ならなかった話で」

「じゃあ、それを」

 彼は包みを上着の内側へ戻した。

 エルナは右腕を上げなかった。左手を小さく振り、リオと並んで雨除けを出た。


 道を一本曲がってから、彼女は足を止めた。

「許してくれとは、今日、言わなかった」

 リオは待った。

「言いたくならなかったわけじゃない。けど、あの人の十分へ、そればっかり置きたくなかった」

「革の角の話、僕も聞けてよかったです」

「私、まだあんたに聞いてないことがあるな」

「何ですか」

「今日、何がいちばん悔しかった?」

 意外な問いに、リオは笑いかけて止まった。

「彼が図を見なくていいと言った時、少し。僕が持ってきた物で、役に立ちたかったので」

「うん。私、話せて嬉しかった。両方だね」

 彼女は歩き出した。

 その隣へ並ぶと、リオの胸に残った小さな悔しさも、帰り道から追い出さずに済んだ。


 夕方、リオは次の照合の紙を書き直した。

 古い溝は、用途未確定。現物の取付位置と、戻る向きを照合する。装具の話はオルフェンの生活の証言で、塔の機構の裏付けに使わない。

 リオは空いた紙の端へ、金具の向きを二つ描いた。片方は、塔で自分が見た位置。もう片方は、用途簿の写しを正面へ向け直した位置だった。

 並べた途端、エルナが片方を指す。

「こっち、扉の向きが反対」

 リオは写しを持ち上げた。破れの端へ、壁だと思った線がある。現地で立った側から見るのと、図へ描かれた側から見るのを、無意識に重ねていた。

「次は、この図を持っていきます。担当の方がどちらから見ていたかも、確認してもらいます」

「私は、外で聞いた方を描く。あんたの見た向きへ、私の音を全部押し込まないで」

 彼は頷き、音を聞いた場所の欄を別に作った。

 新しい術式を見つけたわけではない。それでも次に塔へ行く時、同じ扉の前で、何をどの側から確かめるかは変わる。今日の図をきれいにしただけで、調査を一段進めたと思い込む所だった。

「これなら、私が行く意味も書けるね」

「怖さに耐えてもらうためではなく」

「うん。聞いた場所が、私とあんたで違ったから」

 エルナは二枚を離して置き、どちらも自分の方へ引き寄せなかった。


 エルナの右腕の再試験は、その紙へ加えなかった。

 代わりに、次の調査で本人が確かめたい所を空欄にした。

「これ、私が書いていい?」

 彼女が訊く。

「はい」

 左手で短く書く字は、紙の上で少し傾いた。

 戻す向き。

 その下へ、今日の食事の前に広げない、ともう一行が増えた。

 リオは吹き出し、図を畳んだ。

 鳴りやんだ壁の向こうに、生きていた人の暮らしがあった。

 それを聞いて帰る二人にも、次の仕事と、まだ温かいうちに食べたい夕飯があった。

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