鳴りやんだ壁の向こうで
【前回までの人物】
・リオ:ソルヴィアで独立を目指す解呪師。エルナの腕に残る呪いを調べている。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。左手と足運びの技能を保ち、調査に同行する。
塔の写しを受け取った時、リオは破れの向こうが埋まっていると思ってしまった。
閲覧台に広げられた紙には、前に見たのと同じ空白があった。写す人の手が上手くなっても、なくなった線は戻らない。
「白い所まで、同じですね」
「そこを違えると、写しではなくなりますから」
布紐で袖を留めた保管係が答え、別の紙を横へ置いた。塔で調べてよい場所と、保全の担当者が立ち会うことが記されている。
許されたのは、西の退避路の設備を外から調べること。動かす前には担当者へ示し、壁を壊したり、残る術式を切ったりはしない。
リオは自分の控えと順に照らした。持ち帰った薄片も、ここへ運んできてはいない。似た形を見つけるために、保管している現物まで動かす必要はなかった。
「私の腕の試験は、こっちには入ってないな」
横で読んだエルナが言った。
「入れていません。設備を調べた結果を見て、改めて相談します」
「なら、行こう。向こうで私が怖くなっても、この紙にない仕事が増えるわけじゃない」
彼女は灰金色の髪を結び直した。言い聞かせるだけの声ではない。持っていくものを一つずつ決める、出発前の声だった。
準備を済ませ、二人が再び塔へ向かったのは、その二日後だった。
町で過ごした時間も、塔までの道も飛ばせない。急いで着く代わりに、到着した時にまだ調べられる明るさと、引き返すための時間を残した。
最後の坂で、エルナが一度足を止めた。
風に撫でられた草の向こうへ、黒い壁が立っている。前に通った時には気づかなかった小さな草が、石の裂け目から伸びていた。
「変わってない、と思った」
彼女は壁を見たまま言った。
「塔ですか」
「自分が、ここを見る時の感じ。けど、あの草は前からあったかな」
リオも坂の先を見る。分からない。
「前は見なかった、としか」
「うん。私も」
エルナは右袖を押さえ、それから手を離した。左手の杖をつく場所を選び、次の一歩を自分で置いた。
リオはその隣を歩いた。安心させる言葉を探すより、彼女と同じ坂を上り終えたかった。
*
外周の作業小屋では、灰色の帆布の上衣を着た男が待っていた。
塔の通路を点検し、剝がれた石や設備の覆いを直す管理担当だ。革袋から布と小さな鏡を出す手は、爪の際まで白い粉が残っている。
「西の棒を見る二人だな。紙を先に」
リオが許可の紙を渡すと、男は場所の名を確かめた。
「呪いのことは、俺には分からん。外せる覆いと、触らん方がいい壁は分かる。そこを一緒にするなよ」
「お願いします。僕が術式を見つけても、先に声を掛けます」
「私も、動かす前に言う」
エルナが続けると、男は彼女の右腕へ一度目を向け、杖の先へ視線を移した。
「通路の途中で段が変わった。昔の足の置場で歩くな。俺が先に行く」
彼は先頭へ立った。
塔を知る人の言葉だったが、昔の塔まで全部知っている顔はしなかった。
西の通路へ近づくにつれ、水の匂いが濃くなった。
どこかで落ちる雫の音。その間に、ごく薄く、硬いものが擦れ合う響きが入る。
エルナの歩幅が狭くなった。
リオが顔を見ると、彼女は先に左手を上げた。
「止まる。まだ進まない」
三人とも足を止めた。
音は消えなかった。誰かが動いているから鳴るのではないらしい。
「聞こえますか」
リオが管理担当へ尋ねる。
「いつも、この辺では聞く。水か、金具か。こっちの扉は開けられる」
「その前に、場所だけ指してもらえますか」
エルナが頼んだ。
男は扉の上側を示した。押し棒へまっすぐ続く場所ではなく、少し離れた壁だった。
エルナはそこを見て、長く息を吐いた。
「見た図では、ここに終端があった」
「写しでは。まだ、同じ物か確かめていません」
「分かってる。……扉、開けていい」
管理担当は彼女の返事を聞き、扉へ手を掛けた。
内側には、台が一つと、壁に沿った金属の箱があった。
人が閉じ込められている部屋ではない。床の埃には、点検で出入りした足跡が残っている。
エルナの肩が下がった。そのあとで、また少し強く張った。
リオはその変化へ名前を付けなかった。誰もいないことを喜べるまでの時間を、彼女から取ってしまいたくない。
「ここで、少し待つ」
彼女が言った。
「僕は箱を、外から見ていてもいいですか」
「うん。分かったことは、私にも見せて」
リオは頷いた。
机へ紙を広げると、上から冷たい雫が落ちた。彼は慌てて端を持ち上げ、乾いた方へ移す。
「そこ、朝は濡れん」
管理担当が天井を見た。
「日が上がると水が回る。紙は、この棚の方だ」
さっきまでのリオのように、今日の塔を知り始める人ばかりではなかった。
*
箱の覆いを外すのは、管理担当の仕事だった。
外した物を一つずつ布へ並べ、どこに付いていたかを残す。リオが使うのは紙と目で、エルナが持つのは灯りだ。
箱の奥には、通路の押し棒から続く細い金具があった。
その先で、薄い板がかすかに震えている。
リオはすぐに、持ち帰った薄片の図を重ねた。穴の位置は似ている。だが、目の前の板は、端まで一枚のままだった。
「同じ物じゃ、なかったな」
エルナが小さく言う。
「今、ここに付いている板は、欠けていません」
リオの胸の中で、用意していた答えが一つ崩れた。
図の破れを埋めるように、現物も自分に都合のよい形で待っていると思っていた。
「がっかりした?」
「しました。でも、似ている理由は残っています。僕が先に決めた答えより、こっちを持って帰ります」
「なら、私も一つ。音、ここだけじゃない」
エルナは灯りの向きを変えた。
板の震えが止まって見える角度でも、壁の奥から細い響きが続いていた。
管理担当は鏡を奥へ向け、首を傾けた。
「板を留めた台の下だ。戻りが途中で当たってる。だが、どこへ力が掛かるか見えん」
リオは覗き込むのをやめた。
術式の結び目なら追える。金具がどの順で動くかは、この角度から考えるだけでは足りなかった。
「戻す所を、空の状態で見られますか」
「いきなり動かせば、鳴るぞ」
「じゃあ、今は動かさない」
エルナがはっきり言った。
男は金具から手を離した。リオも顔を戻す。
「私が、もう少し離れる。灯りは置ける?」
「台へ置ける。通路からなら、扉も見える」
「そこにする」
エルナは自分で灯りを台へ載せ、扉まで戻った。
リオには、彼女が離れていくことが、一瞬だけ失敗に感じられた。
その思いを、隠してきれいな顔で送り出すのも違った。
「エルナさん。僕、今、残念だと思いかけました」
彼女が振り返る。
「私が離れたから?」
「はい。二人で全部見たいと思っていたので。でも、全部を同じ所で見る約束ではありませんでした」
エルナは少し目を細めた。
「私も、あんたがここにいてくれる方が楽だよ。けど、楽な方だけだと、誰もあの箱を見られない」
「呼ばれたら、戻ります」
「うん。今は、見てきて」
短い返事に、リオはようやく視線を箱へ戻せた。
管理担当が、目で追える幅だけ金具を動かした。
硬い音が一つ鳴った。リオは息を詰め、扉の方を見た。
エルナはその場にいた。右腕を抱え込まず、左手を扉の枠へ添えている。
「一つ、聞いた。続けていい」
響きは消え、すぐ別の細い音が戻った。
リオは今度こそ、両方を聞き分けた。
手で動かした金具の音と、止まらず壁へ伝わっている音。同じものだと思って聞くと、一つに重なってしまう。
「下の板です。金具が離れても、そちらだけ震えています」
リオが指した所を、管理担当が鏡で確かめた。
「戻り切ってない。留める所の錆が、台へ触ってる」
「ここを、終端受けと呼ぶ可能性は」
「ある。だが名札はない。写しの形と、今の物で比べろ」
男の返事は、リオの望みを少しも飾らなかった。
*
許可の範囲を確かめ、管理担当は保全作業として、その接触を直すことにした。
術式には触れない。外から確認できる、金具と台の当たりだけだ。
リオは先に、壁へ残る魔力の線を控えた。
糸は薄く、音が鳴るたび同じ明るさで見えるわけではない。灯りを変えず、見る位置も変えず、エルナの腕へ新たな反応を起こすこともしなかった。
管理担当の手が止まるたび、時間を書く。
エルナは扉の所から、通路へ来る人がいないかも見ていた。患者として待つだけでない仕事を、彼女が選んでいる。
やがて、音が消えた。
あまりに小さな変化だった。なくなって初めて、水の雫が違う高さで落ちていると分かる。
リオは紙の上へペンを置きかけ、指が止まった。
台の下を横切っていた細い光が、一本だけ、ほどけるように薄くなっていた。
「今、線が変わりました」
管理担当の手がすぐ止まる。
「俺は、もう触ってない」
「そのままでお願いします」
リオは同じ位置から見直した。消えた、とまでは言えない。だが、音が続いていた時と同じ張り方ではなかった。
胸が熱くなる。早く彼女へ言いたかった。
振り返った先で、エルナは右手を見ていなかった。
扉の奥、空の小部屋を見ていた。
「鳴ってないな」
彼女の声は、壁へ吸われるほど低かった。
「はい」
「ここに、誰かがいると思った人がいた」
リオは頷いた。オルフェンが壁の音について語った声を、彼も覚えている。
「あの人に、今日見た場所を話せる?」
「どこを開けて、何があって、何がなかったか。それなら」
「私からも、話したい」
エルナの右袖が、風のない通路でわずかに動いた。彼女が腕を、無意識に持ち上げかけたのだと気づく。
リオは手を伸ばさなかった。
彼女自身が動きを止め、袖を下ろした。
「今日は、こっちじゃない」
左手が、胸の前の紙を軽く叩いた。
戻した金具が元へ帰ることを、管理担当が確かめた。
同じ作業をエルナのために何度も繰り返すことはしない。設備の点検として必要な分を行い、開けた覆いを戻す。
リオは作業前後の図を別々に畳んだ。
「止まっていた設備を直したら、術式の見え方も変わった」
彼が記録を読み上げると、エルナが続けた。
「腕が治った、ではない」
「はい。それは、帰ってから相談する次の仕事です」
「次が、少し変わったんだな」
リオは紙を見た。
今までは、剣を握る人へ、何を起こせるかを考えていた。
今日は剣を握らせず、壁の方へ戻る動きを作れた。その違いを、患者の勇気で埋める必要はなかった。
*
覆いへ最後の印を付ける時、管理担当がリオを呼んだ。
「ここ。新しく削った所と、昔の傷を分けて写せるか」
台の裏には、今日触れていない細い溝があった。埃が詰まり、縁だけが丸くなっている。
リオは先に日付を書き、今日の作業箇所を別の線で囲んだ。
「昔、ここも直してあった?」
エルナが戸口から尋ねる。
「手を入れた跡はある。いつ、誰が、何を直したかは、俺には分からん」
男はその傷を指でなぞらなかった。
「今の直し跡だけ残すと、次に来た人が全部、俺の仕事だと思うだろ」
リオは紙へ描く手を止めた。記録簿の空欄を見た時、自分が未実施と書きかけたことを思い出す。
「ここに来た人の仕事を、僕の推測で消すところでした」
「消さなきゃいい。分かった時、足せるようにしとけ」
エルナが膝を折り、低い位置から台を見た。右腕を使わず、目の高さを変える。
「この角度なら、溝の端まで見える。リオ、こっちから」
彼は彼女の隣へしゃがんだ。
灯りの端に、細い溝が一本増えた。答えが遠くへ逃げたのではない。次に確かめられる傷の形を、ようやく三人で同じ紙へ残せた。
作業小屋へ帰る途中、エルナが振り返った。
塔は、坂を上る前と同じ形をしていた。
「静かだ」
「外からだと、前も聞こえなかったかもしれません」
「そうだね。ここからじゃ、分からない」
彼女は少し笑った。
「私には、さっき止まったのが分かる。それでいいや」
リオは彼女と並んで坂を下りた。
管理担当が見ていた台の錆。エルナが聞き分けた二つの音。リオが追っていた糸。一人ずつが違うものを見たから、今日の壁は鳴りやんだ。
全ての呪いが終わったわけではない。右腕を剣へ伸ばす時の痛みも、彼女が失った年月も、ここで消えたことにはできない。
それでも、鳴り続ける壁の前で、ただ耐えるためだけの道は終わった。
「戻ったら、温かいものを食べたい」
エルナが言った。
「僕もです。今日の図を、食卓いっぱいに広げる前に」
「その順番、忘れるなよ」
彼女の声に、短い笑いが戻っていた。
リオは鞄の留めを確かめた。持ち帰る紙は行きより増えた。だが、その重さを片方だけが負っている感じは、少し減っていた。




