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鳴り続けた壁に、帰る合図を探す

【前回までの人物】

・リオ:自治市で独立を目指す解呪師。エルナの腕の呪いを調べ、黒槍の塔の記録を追っている。

・エルナ:右腕の呪いで剣を握れない元騎士。今はリオと調査を進めている。

 翌朝、リオは手帳の最初の行に、用途、と書いた。

 その下へ術式の図を描きかけ、ペンを止める。

 昨日会ったオルフェンは、壁の奥の音を、人が残っている合図だと思った。何が鳴っていたかを、彼が知らないことまで含めて残しておきたかった。

「今日は、そっちから?」

 宿の食卓へ来たエルナが、手帳を覗いた。灰金色の髪には、まだ結び直した跡がある。

「ええ。薄片を何に使っていたのか。先に術を決めると、都合のよい使い道を探してしまいそうなので」

「あんたも、そういうことあるんだな」

「沢山あります。説明する時は、済んだ失敗を省いています」

「省くなよ。少し安心する」

 彼女は左手でパンを取り、右袖を机から離した。昨日会った人の話をしながら、腕を試そうとはしない。

 リオも自分の朝食を食べた。急いで書いた字の端に、パンの粉が一つ付いた。


 備品の用途簿は、兵の移送簿とは別の保管所にあった。

 低い窓、乾いた紙、雨を吸った外套の匂い。布紐で袖を留めた保管係が、閲覧台へ細長い箱を運んだ。

「西通路の設備ですね。修繕費の帳と一緒に保管されています。使い方そのものが、全部残っているわけではありません」

 係は箱の角を押さえた。爪の脇に灰色の埃が付いている。塔の記録を運び、傷んだ綴じを直す人の手だった。

「分からない所は、空欄のまま写します」

 リオが答えると、係は彼のペンを見て頷いた。

「写しを作る注文ですか」

「今日は自分で控えます」

「では、原本を重しにしないように。この袋を使ってください」

 小さな布袋が二つ置かれた。リオはそれを受け取り、まず閲覧日を記した。


 警報板、という見出しはなかった。

 代わりに、用途欄へ、西側退避路・連絡、とある。

 音を聞くための筒。壁の表へ出る押し棒。奥の当て板。備品は別々の名で記され、取り替えた日も違っていた。

 リオは三つの名を、手帳の離れた所へ写した。

「ひとまとまりの物じゃないんですね」

「帳面の上では。まとめて修繕した年もあります」

 保管係は別の頁を開いた。係自身が設備を動かしたとは言わず、費用欄から同じ品名を探している。

 エルナは開かれた頁の端を見ていた。

「押し棒。通路へ出てた?」

「絵があります。こちらです」


 細い線で描かれた断面図だった。

 通路の壁から棒が出ている。押せば、奥の小板へ動きが伝わる。その先は紙の破れに重なっていた。

 リオは顔を近づけたが、指で裂け目を広げはしなかった。

 見える所だけでは、音を出す仕組みとは断定できない。

 それでも棒の横に、二度押し・退避開始、という文字が残っている。

「これ、私たちが入った頃は、押せなかった」

 エルナが低く言った。

「知っていましたか」

「触った。訓練の時に。固くて、動かなかった。古い設備だって聞いたから、そのままにした」

 リオは彼女を見る。灰緑色の目は、紙の一点から動かなかった。

「昨日、思い出せなかった」

「用途を聞いて、思い出したこととして残します」

「それでいいのか」

「いつ思い出したかも、大切です。初めから確かだったことにはしません」

 彼は日付の横へ、図を閲覧した際の記憶、と書いた。

 エルナはその一行を読み、肩の力を少し抜いた。


 保管係が次の頁をめくった。

 数年分の修繕記録。棒の固着。伝達の不良。部品交換の申請。最後の一枚では、費用の決裁欄だけに印があった。

 完了を確かめる欄は、空いている。

「交換されなかった?」

 エルナの声が硬くなった。

 係は空欄へ指を置かず、頁の番号を示した。

「ここでは、完了したと確認できません。別の帳へ付けた可能性もあります。出されたお金が、どこへ使われたかは、この箱だけでは追えません」

「……そうか」

 エルナは椅子へ座り直した。

 リオは、未実施、という言葉を消した。まだ書く前だったが、自分の中ではほとんど決めていた。

 完了記録未確認。

 短い言葉へ直すと、分かったことが小さく見えた。その小ささを嫌って大きくしないのも、今日の仕事だった。


     *


 昼の鐘が鳴る頃、図の写しが一枚できた。

 破れた部分は白く残し、線を想像でつながなかった。エルナが窓の方へ紙を持ち上げ、折れ目と破れを見分ける。

「こっちの細いのは、紙の皺だな」

「僕、線だと思っていました」

「よし。一つ、負け」

 彼女は紙を台へ戻した。いつもの短い調子に、リオも笑った。

 軍の配置図ならエルナの方が見慣れている。解呪の術式だけをリオが知っていても、塔の全てを読めるわけではなかった。


 彼は持参した薄片の記録を、図の横へ置いた。現物はここで開封しない。形、穴の位置、発見場所を写したものだ。

 図にある当て板と、似ている。

 だが図には縮尺がなく、厚さも分からない。

「同じだ、と言いたい顔」

 エルナが紙越しに彼を見た。

「かなり」

「どこが足りない?」

「寸法。留め方。現地で隣に何があったか。それから、薄片に残った呪いが、元の機能と同じかどうか」

「なら、顔だけ先に喜んでる」

「顔まで待たせるのは、難しいですね」

 エルナは口元を緩めた。

「喜ぶのはいい。私も、今は怖いだけじゃない」


 リオはペンを置いた。

「あの壁のことですか」

「音が鳴ったら、行かなきゃいけないと思ってた。昨日のあの人も、そうだった」

 オルフェンの名を出す時より、声が低かった。

「私の手が剣を握ろうとするのも、似てるのかなって」

「まだ、似ている所を見つけた段階です」

「分かってる。原因を決めろって言ってない」

 彼女は右袖を見下ろした。

「止まっていい合図があったなら、知りたい」

 リオは頷いた。治す方法を求められていた。だが、今すぐ何かしてくれと頼まれたわけではなかった。


 閲覧を終える前、保管係が箱の底から細い紙を出した。

「この番号、あなたの控えにありますか」

 退避路の点検順が書かれていた。最後の項目だけ、二重線で囲まれている。

 終端受け、解放を確認。

 エルナが息を止めた。

 リオも、その言葉をすぐ呪いの解放へつなげかけた。

「何を解放するのかは、分かりますか」

「私は設備の専門ではありません。押し棒を戻すことなのか、別の留め具なのか。この紙には書かれていません」

「持ち出せる図は」

「申請を出せば、閲覧用の写しを用意できます。今日の控えは持って帰れますが、塔の現地作業の許可にはなりません」

 リオは頷き、必要な手続きを手帳の別頁へ書いた。

 答えを一つ得たというより、確かめる場所が一つ、具体的になった。


     *


 帰り道の石段で、エルナが立ち止まった。

 荷車が坂を下り、車輪の鉄が石を打つ。遠くへ消えるまで、彼女は左手で外套の裾を押さえていた。

「塔へ、また行くんだね」

「行く必要が出てきました。ただ、同じ入り方はしません」

 リオは通路の控えを開いた。

 現地で触る物。触らず見る物。戻る条件。彼女の右腕を使わず、まず設備だけを見ること。

「僕が調べたいと言った時、エルナさんが止められるようにしたいです」

「それ、私が見張る仕事?」

「違いました」

 リオはすぐ訂正した。

「僕も止めます。エルナさんが止めたい時に、理由の説明を終えるまで待たせない、という約束です」

 彼女は紙から目を上げた。

「じゃあ、私も同じにする。あんたが戻ろうって言ったら、剣を取り戻す途中でも戻る」

「はい」


 石段を下りた所で、エルナは右手を覆う布を左指で直した。

 その指が、一度止まる。

「音を聞かせるだけの試験、できる?」

「今日は、しません」

「今じゃない。私が止めて、ちゃんと止まるか、先に」

 リオは彼女の顔を見た。急いで腕を動かしたい顔ではない。塔へ戻る時、何を自分で決められるかを確かめたい顔だった。

「できます。ただし普通の音で、右腕の反応を見る試験にはしません。止める合図をお互いに練習するだけです」

「うん。それを頼みたい」


 宿へ戻り、リオは小さな木匙を卓へ置いた。

 叩く前にエルナへ見せる。開始も、停止も、自分で言える位置へ二人が座る。

「一度だけ、鳴らします」

「待って」

 匙は、上がらなかった。

 エルナは動かない匙を見てから、リオを見た。

「……それで、いい」

 声が少し掠れた。右手は布の中にあり、剣も、塔の音も、ここにはない。

 何も鳴らさなかった試験を、リオは成功と書いた。呪いが軽くなったとは書かない。

 止めると言った人の言葉で、本当に止まった。

 今日の二人が持ち帰ったのは、破れた図の向こうにある終端と、その前に使える、ひどく小さな帰る合図だった。

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